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『母親になって後悔してる』感想

今回感想を書くのはこの本。

目次のあとにいきなり最初に「あなたはきっと後悔する!あなたは!きっと!子どもがいないことを後悔する!」と書いてあり、そういう社会的プレッシャーにさらされてきた身としてはなかなか心をエグられる言葉だ。そういう「空気」ってなんなんだろう。

2018年、フリースタイルダンジョンで呂布カルマが椿とラップバトルしたときの呂布カルマのリリックにはこうあった。
「ミソジニーとか難しい言葉しらねぇ ジェンダーのおばちゃん まるでXXXXみたい椿でも お前もいつか妻になる
妻になり母になりその後『お母さん なんであんな事してたの?』って言われないように せいぜい気張んのはオメェの方だな」
なぜ呂布カルマはラップバトルで妻になり母になることを既定のルートかのように言ったのだろう。
それが「普通」だから?でも「普通」ってなんだ?
だいぶステレオタイプにしばられてないか?

この本は母親になったことを後悔している女性たちへのインタビューとそれを分析したものだ。どんな女性を当事者としてインタビューをしたのかには明確な基準があった。

ひとつめの基準は「今の知識と経験を踏まえて、過去に戻ることができるとしたら、それでも母になりますか?」という質問にノーと答えること。
2つめの基準は「あなたの観点から、母であることに何らかの利点はありますか?」という質問にノーと答えることだ。

p.19

つまり明らかに後悔の念を持続させている女性たちに絞られているということになる。

感情を、権力のシステムに対抗する手段だと捉えるなら、後悔は一種の警鐘である。母親がもっと楽に母親でいられる必要があると社会に警告を発するだけでなく、生殖をめぐる駆け引きと母になる義務そのものを再考するように促しているのである。

p.16

この本のなかで心に残ったところをいくつか紹介したい。

母になることは自律的な選択の結果なのか

まず、母になったことを後悔している女性たちが子どもを持つにいたったさまざまなストーリーが語られていた。

要するに、子どもは必ずしも「自然の摂理」や「選択の自由」によって生まれるとは限らない。 時には、私たちがそれ以外の道を持たない/見つけられないという理由で生まれてくるのである。
アメリカのフェミニスト哲学者ダイアナ・ティージェンス・マイヤーズはこれを想像力の植民地化と呼んでいる。
それにより、私たちは母になることが唯一の道であるという概念を吸収し、他の利用可能な選択肢を想像できなくなり、想像できる唯一の決定が「純粋な空間」からやって来たような印象を持つのである。
この植民地化は、女性が母になるまでにはさまざまな経路があることが多くの場合隠されていることからも起こる。これは、母になることは本能的な欲求だという名目で語られる「自然界の言語」と「選択のレトリック」を維持するための隠蔽である。

p.39

日本の女性たちも出産の選択に関して「想像力の植民地化」がされているのではないだろうか。

注にあったダイアナ・ティージェンス・マイヤーズの論文がAcadeiaに掲載されていたのでリンクを貼る。(英文)
The Rush to Motherhood: Pronatalist Discourse and Women's Autonomy
(日本語だと『母性への突進 出生主義者の言説と女性の自律性』というタイトルになるのかな?)(わたしは無課金DeepLにつっこんだら「字数多すぎ」ってはじかれた)

「X歳までに子どもはX人ほしい」という、母になる時期と子どもの数に関しての願望は頻繁に語られるが、そもそも母になる欲求があるか否かとその理由についてはほとんど触れられない。

そういった条件下で子どもを持った女性は、母へと移行したことを振り返って、孤立感や自己の欠如があったと説明することがしばしばだ。ダイアナ・ティージェンス・マイヤーズは、これを無頓着と無計画の法則と呼んでおり、母へと移行した必然的な結果として自己の喪失が見られると述べている。

p.47

「子どもをたくさん産みたい」という意見の女性は常に称賛や同情や応援されるうえに理想的で規範的で世間体がいいとされ(例:長友と平愛梨の婚約会見のときの、長友「子どもは11人、サッカーチームができるくらい欲しい」平愛梨「大歓迎です」というやりとり)、
それと逆の「絶対子どもは産みたくない」という意見の女性に対しては自分勝手だ、ナルシシストだ、冷酷だ、孫の顔を見せないなんて親不孝、子どもを持たないなんていつか後悔するぞ、女性なら子どもが絶対に必要だ、などのえんえんと続く説得や絶え間ない威圧にさらされて世間体が悪いとされる。
そんな状況で選ばれる「出産」という選択は果たして本当に主体的で自律的な結果だといえるのだろうか。

そして「セックスに同意すること」が必ずしも「セックスを望むこと」とイコールではない(解雇や離婚を避けるために、本当は望んでいなくてもセックスに応じる場合がある)ように、子どもを持つことに同意したからといって子どもを望んでいるとは限らないと書いてあり、確かに「同意」と「意志」の間には段階があるし、大きな違いがあるぞ……!と思った。
「同意したにすぎない」なのに、いつの間にか「本人がしたくてやっていること」とすり替えられる現象は他にもみたことがある。

「良き母」へのプレッシャー

「良き母」は、たとえば、疑問や条件なしにわが子の一人一人を愛し、母であることに喜びを感じなければならない。もしも母の道にバラが飾られていない場合は、状況に伴う苦しみを楽しむことが課題となる。それは、人生に必要かつ避けられない苦痛なのである。

p.68

そして母親になったとたんに「良き母」であれという感情的な規制にさらされ、母親自身も深くそれを内在化させる場合がある。母親になったことを後悔している母親は、母親であることに完全に違和感を持ちながらも、義務感から規範的な母の感情や行動を模倣するのだ。

母がこのモデルに規定された道徳的規準に従って行動しない場合——不可能であれ拒んだのであれ——たちまち「悪い母」のレッテルを貼られる可能性がある。道徳的にも感情的にも問題のある無法者と見なされるのである。

p.74

たとえば有償労働をしているときは仕事用のペルソナというものを持っているし勤務時間外は自由でいられるが、それが無償労働である「母親」になると社会から期待される理想的なペルソナがあり、それを脱ぐことが許されないのだ。しかも母親業はプライベートとの境界が曖昧なため、素の自分でいることがいっそうのこと困難になるのだろう。

社会が「母であること」について母に許容する唯一の答えは「私は母であることを愛しています」だけなのだ。

p.76 

母性愛の束縛

エーリッヒ・フロムの『愛するということ』には、たしか「愛とは技術である」と書いてあったし、たとえ自分の子どもを感情的に愛していない(愛せない)としても「愛するという決意や決断」のもとに養育すると自分自身でそう決心して遂行しているなら、それはもう「愛している」ことになるんじゃないの?
しかも「愛しているか」という感情は目に見えないので、他者にとって、「母性愛」の有無を判断する基準は行動を通してからしか判断できないのでは?そもそも「愛」ってなんだ????って心境になってきた……

と思って8年ぶりくらいに『愛するということ』(※1991年初版の新訳版)を引っ張り出してきて「親子の愛」のところを読んでみたら、「母親の愛はその本質からして無条件である」(p.69)とか「母親は私たちが生まれた家である。自然であり、大地であり、大洋だ。父親はそうした自然の故郷ではない。子どもが生まれてから数年間は、父親は子どもとほとんど関係をもたない。生まれて間もない子どもにとって父親の重要性は、母親の重要性とは比べものにならないほど小さい。父親は自然界を表しているのではなく、人間の生のもう一方の極、すなわち思考、人工物、法と秩序、規律、旅と冒険などの世界を表しているのである。子どもを教育し、世界へつながる道を教えるのが父親である」(p.71)って驚きのあまりつい長文で引用してしまったが、ジェンダーバイアスばりばりで2022年のTwitterだったら炎上しそうなことが書いてあったので頭を抱えてしまった。大洋て。女は母親になってもジュディ・オングを求められるのかよ。無理。

「母性愛」にいたっては「母性愛はたいへんな難行である。つまり、徹底した利他主義、すなわちすべてを与え、愛する者の幸福以外何ものまない能力が必要になる」(p.84)とまで書かれていてドヒャ~~~~っと思ってしまった。なんでやねん!!!こういうのが現代にいたるまでの「良き母」であることのプレッシャーになっているんじゃん!そういうとこだぞ!!
まぁ、この本は1956年に書かれたから、当時の価値観を念頭に入れて読む必要があるってことですね……

余談ここまで。

要は「母性愛がある→社会から良き母であると評価されるような言動をする」のではなく、「社会から良き母であると評価されるような言動をする→母性愛があると見なされる」のではないか。

この「母性愛を文化特有のシンボル、意味、慣習に結び付けることによって母に特定の義務が課されること」が「愛の構造」と本書でいわれていた。母親は、子どもを愛さなければならないだけでなく、許容される狭い範囲内で愛情を示さなければならない。さもなくば母の不道徳の証拠となる可能性があり、母としての適性を疑われることになってしまう。

「母性愛」は今や、社会的・政治的・財政的な力によって形作られているだけでなく、社会的秩序を維持するために利用されている。女性が「自然に」子どもを愛することによって——そして明確に定義され定められた方法で愛することによって——社会は、愛の確信を疑ったり、子どもとの関係を自問したりすることなく、女性が母であり続けることを確実にするのである。

p.164

なぜ第一子で子育てが大変だと思い知りながら子どもを増やすのか

一般的な理由として、多くの社会が「ひとりっ子」であることが、利己的に成長してしまい社会的・感情的な能力が低下する、または親を介護する負担がのしかかってしまうという理由で、その子にとって有害であると考えられがちだ。

わたし自身はひとりっ子で、特に小学生のころまで同級生やいろんな大人たちから「ひとりっ子で可哀想」と言われたのを記憶している。さすがに中学生になるとそう言われることが無くなったのだが、そう言われなくなったタイミングは母親の出産適齢期を過ぎたあたりと重なっていて、「ひとりっ子で可哀想」と言う側は、自覚的なのか無自覚なのか第二子以降を産ませる圧力を「憐れみの形を借りた善意」で間接的に母親にかけ続けていたことがおぞましいと思う。

ずっとひとりっ子でいた立場から意見をいうと、兄弟姉妹がいたことがないので兄弟姉妹がいることの楽しさが分からないし、独りでマイペースに遊んでいたので可哀想という感覚が分からない。というか兄弟姉妹がいないというだけの理由でよく知らない人にまで「可哀想」だと言われる状況のほうが可哀想。大人になったら、世の中の兄弟姉妹が全て円満で仲がいいというわけではない例を多く知るようになったし、兄弟姉妹がいても介護を押し付けられる場合もあるし、むしろ遺産相続で揉めることもあるので大変そうだ。

わたしは、世の中の母親たちが育児に対する不満や理不尽さを訴えながらもその後に第二子や第三子を設けていることについて、「子どもが多い方が明らかに大変になるのに、なぜわざわざ大変だと分かっていながらも複数の子どもを持つことを決断するのだろう……」と常々不思議に思っていて、しかしながらそんな本質的な質問を直接たずねることができるほど親しいわけではないのでモヤモヤを抱え込んでいたのだが、(そういうことだったのか!)と、その長年の疑問に対するヒントになるようなことが書いてあった。

後から考えると、マヤに望ましい子どもの数はゼロなのだが、最初の子どもが生まれた後では不可能だ。その後に子どもが生まれようが生まれまいが、この事実は変わらない。これはゼロサム・ゲームだ。母であるかそうでないかのどちらしか選べない——母であるならば、家族の幸せに義務と責任があるとマヤは感じており、もはや子どもの数は関係ないのだ。

p.211

多くの母は状況にかかわらず、子どもが幼児期をすぎて何年たっても、子どもを象徴的に養い、意識の中で世話を続けているのである。(p.179)
これは例えるならば、社会的・政治的イデオロギーが関わる親子関係のロマン化というプログラミングを経て(p.225)、子どもが成長して世話を必要としなくなったとしても常に意識のバックグラウンドでそこそこ負荷のかかるタスクが生涯実行され続けるということではないか……?
このように、いったん母親になってしまったからにはもう母親でない状態には戻れないので、第二子以降をもうける母親は「早く過ぎ去ってほしいと思いながらとにかく乗り切る」という覚悟を決めているのかもしれない。

いっぽうで、後悔を表明するひとつの方法として次の子どもを持たないという選択をする女性もいる。そのような女性は「過去の過ちを修復するために失望を超えて再試行すべきだ」と言われ続け、その解釈が内在化する可能性もある。それでもなお次の子どもを拒否する場合、彼女たちの経験と知識は社会の期待、すなわち「失望を克服し、母であることが結局は自分にとって有益だと知る」ことと合致しない。
つまり期待されているのは、具体的にいうと「二人目(や三人目)を産むのを迷ってて、産んだ後も色々大変だったけど、なんだかんだ産んで良かった!(^^)」のような言葉や態度なのだろう。
「良き母」でいることだけではなく、次の子どもを持つかどうかに関しても、母親となった女性は社会的に期待された回答しか許されないのだ。

女性の人生の選択肢

20代中盤ごろ、当時流行り出していたFacebookをみると、同級生がどんどん就活→合コン/婚活→結婚→妊活→妊娠出産→保活と慌ただしく「女の人生すごろく」のコマを着実にすすめていて、自分はその流れから取り残されてしまうような焦燥感を感じていた。
結婚を機に主婦として家庭に入る子もいて、せっかく就職しても実務経験を積む前に辞めてしまったらもったいないのでは?経済的基盤は大丈夫なのだろうかと(余計なお世話ながらも)思っていた。

「女性にとって母であることが耐え難い」という考えは、ありえないと認識されがちだ。なぜなら、それこそが女性の「存在理由」とされるからだ。そのため、母の後悔に対する一般的な反応として、生活の困難、特に子育てと有給の仕事のはざまで苦しんでいるのが理由だと想定するのである。この仮定から、さらに解釈を広げると、女性には子育てと家の外での有給の仕事の2択しかないということになる。母になりたいか、キャリアウーマンになりたいかのどちらかなのだ。

p.275

女性というものは、出産して子育てをしたいか、「公共圏」を征服したいと思っているかのどちらかだという仮定は、女性の実際の欲求を窒息させてしまう――母になることもキャリアも望まない女性の欲求と、自分自身やキャリア(資本主義社会において、唯一の本当の成果と見られる)を「あきらめた」女性として認識されることなく家庭に入ってに入って子どもを育てたい(し、それが可能な)母の欲求を。家父長制は女性を母の世界へと誘導し、資本主義は私たちを自由主義の精神のもとで絶えず進歩させようとする。

p.277 

キャリアと育児の両方を完璧にこなそうとすると、雑誌のワーママ特集に見られるような「朝4時起きで朝活から始める」というような意識高い(?)行動になるのだろう。毎日朝4時起きのうえに仕事も育児もこなすなんて、365日トライアスロンしてるような生活は願い下げだ。そんな生活してたら過労死しちゃうよ……母親ってそんなに頑張らないといけないの?と絶望的な気持ちになる。
家父長制と資本主義の間で引き裂かれそうだ。

おわりに

本書は、すでに母親になることを選択したけれども社会的圧力によってその経験のネガティブな側面を語る言葉がない女性たちにとって、大きな共感が得られるような内容だと思う。

フェミニスト学者のキャサリン・マッキノンは、女性は個人的な経験を奪われているだけでなく、それについて話すための語彙も奪われていると主張した。この時マッキノンは女性のセクシュアリティについて話していたのだが、先ほどのローズとスカイとマヤの発言は、母であることもまた、女性がその経験を説明する言葉を欠いている領域かもしれないことを示している。
母になった後悔を明確に表現する言葉がないとき、女性が感じる激動の感情は、ひと通りにしか解釈されない。つまり、問題はその女性自身にあり、後悔を感じる母は、治療によって母としての不安を解決する必要があるということだ。

p.133

反出生主義のスタンスにある女性にとっては「だから産まないほうがいいってずっと言ってるじゃん!!」という感想になるのかもしれない。
他にも、まさしく妊娠適齢期を過ぎつつあり「体内時計がカチカチと刻まれる」(p.47)かのように焦りを感じている女性、「母性愛」を疑っている女性も得るものが多いだろう。

他にも
・母親になったことを後悔しているという気持ちを(俺の屍を越えてゆけ的な意味で)子どもに伝えたいが、子どもに「あなたの存在を後悔している」と伝わるおそれがあるので葛藤している母親や、逆に後悔について沈黙することで子ども(との絆)や自分自身を守ろうとする母親
・後悔とは「母親になったこと」であり「子どもがこの世に存在すること」と必ずしもイコールではない(p.118)が、もしかしてより社会的なタブーとされているのは「子どもを愛していないことを公言する母親」なのでは?
・負担から逃げるためにあらゆる手を尽くす父親がズルすぎる(p.273にあるサニーの証言は必読だ)
など、気になるところが山ほどあった。

「なぜ母になった後悔について話すのか」という質問は、裏返して考える必要がある。「母になった後悔について黙らせたその結果は?」と。存在しないふりをしようとするとき、誰が代償を払うのか?

p.292

彼女たちは、母としての現状や人生を評価するために、1分たりとも立ち止まることができない。なぜなら、母が他者のために存在する客体であることに依存する社会にとって、彼女たちがそこに留まらないことは、あまりに恐ろしいことだからである

p.286

社会的規範によって許された以外の母親たちの感情や物語は——今まで見て見ぬふりをされたり、バッシングされたり、母性信仰的価値観を内在化させてしまったり、自己検閲によって自らの経験に一致する自己表現をしまいこんでしまったりするかもしれないが——確実に存在する。
母親となった女性たちは、母性信仰によって奪われた個人的な経験やそれを語る言葉を取り戻す必要があるだろう。
他者のために存在する客体であるとされる母が主体性を取り戻し、母性愛の幻想を打ち砕くためにも。

関連書籍の紹介

この本で個人的に気になったことについてより理解を掘り下げられそうな本を未読・既読関係なく紹介する。
Amazonがオススメしてくれる「この本を読んだ人はこの本に興味を持っています」のわたし版だと思ってほしい。

①母性神話への疑問

『ママだって人間』
コミックエッセイなので気軽に読める。このnoteを書くにあたってひさびさに読み返したらゲラゲラ笑った。著者がTwitterに載せているコマの「あれ?もしかして私はもともとマリオネットになるために産まれてきたのでは? そっか私の人生はおとといで終わったんだ これからのマリオネットの生活が本当の人生なんだ」という産後すぐの混乱した感情は「自己の喪失」という感覚なのかもしれない。

『母乳がいいって絶対ですか?』
著者が妊娠・出産・子育てという体験で得た違和感をあぶり出したようなエッセイ。『ママだって人間』と内容が重複する部分もある。ここ数年の著作からは遠ざかってしまっていたが、この著者のエッセイやコミックエッセイは「当たり前」とされていることに疑問を持ってそれを言語化していくところが好き。

恋愛しているカップルにいろいろな付き合い方があるのと同じように、実際には十人十色の母子の組み合わせがあるはずだ。

『母乳がいいって絶対ですか?』

あの有名(?)な「イメージのちがい【ちんちん】タマの裏までしっかりね~!【まんこ】うん、まぁ…拭けばいいから」のコマも載っている。

『母性という神話』エリザベート・バダンテール 著 , 鈴木 晶 翻訳
絶版になっているのを古書店でたまたま見つけて捕獲した。「昔の貴族は、子育て丸投げしとったんかい!そんで医療技術も今ほど進歩してなくて出産するのも大変だったろうに結構子どもがバンバン死んでたのか……過酷すぎる……」あたりまでの、ほんのちょびっとしか読んでないのでいつか完読したい。

『増補 母性愛神話の罠 こころの科学叢書』 大日向 雅美 著
ずっとkindle unlimited対象になっている(のでいつでも読めるという安心感から後回しにされがち)。『母性という神話』が西洋文化圏の話だとしたら、これは西洋ではなく戦後日本の話だったのでより身近に感じた気がする。まだほんのちょびっとしか以下略。

②「非母(ノンマザー)」という選択

『ママにはならないことにしました』

韓国は日本と似ているところも多いが、日本よりも強固な家父長制文化にあると思う。また韓国における出生率は1を下回っており、先進国最低ともいわれている。そんな環境のなかで子どもを産まないことを公言することは現在の社会的規範に沿わず、それを承知のうえで「非母」を選択した女性たちは、母親になったことを後悔している女性たちと同様にひどいバッシングの対象になるのだろう。
それぞれの女性がどういう物語を経て「非母」を選択したのかも、広く知られる意義があるはずだ。

『魔女 女性たちの不屈の力』 

『ガリレオの中指』著者であるアリス・ドレガーがかつて所属していたノースウェスタン大学の医療人間学・医療倫理プログラムは、2005年から「アトリウム」という雑誌を年一回刊行していて、2014年号の特集は「バッド・ガールズ」というテーマで、介護者をしたくない女性、医療的介入なしに出産しようとする女性、中絶についてが取り上げられた。(『ガリレオの中指』p.341)
この本で証言している「子どもを産んだことを後悔している女性たち」も間違いなく「バッド・ガールズ」なのだろう。
そしてそんな女性たちはかつては「魔女」と呼ばれていたのではないか?

③キャリアを積むことと母親であることの葛藤

『タイムバインド —不機嫌な家庭、居心地がよい職場』

「6章 主体としての母」の原注に記載されていた本。もともとは『タイム・バインド(時間の板挟み状態) 働く母親のワークライフバランス―仕事・家庭・子どもをめぐる真実― 』というタイトルで2012年に明石書店から出版されていたものが、2022年の6月にちくま学芸文庫からタイトルを改めて出版された。旧タイトルのほうが内容分かりやすくない?

④同意

『同意 女性解放の思想の系譜をたどって』

図書館で借りたことがあるけどなんかすごい歯ごたえ(比喩)があって、いまいち具体的な背景が想像できずに返却してしまった。この本の「セックスに同意することが必ずしもセックスを望むこととイコールではない」という記述に、なるほどこういうことか!!と思ったので、めげずに再チャレンジして「同意」と「意志」の違いを探りたい。

インクルーシブな注釈について

主題とは関係ないが、わたしはここ数年フェミニズム関連の本を読むなかでいくつかインクルーシブに配慮されているような注釈やレイアウトが増えてきているのではないか?と思うことがあり、この本にもそのように配慮された注釈があったので記録しておく。

・p.31の注「女性であることと出産能力との間に根本的な相関関係があるという仮定は、トランスジェンダーの女性を『本物の女性』から除外し、そういった女性が社会の道徳的秩序を脅かしているという疑いをかけるために使われる正当化のひとつである」
「社会的に期待された母性愛に反する、母親になった後悔という感情」をテーマにした本で、このような注をいれたのはどういった意図なのだろう。
「排除的だ」だといわれないための予防線なのだろうか。

・p.65の注「トランスジェンダーの女性は、たとえ社会が女性として受け入れなくても、子どもが生まれたときの感覚と同じくらい女性らしいと感じる可能性がある」
子どもが生まれたときの感覚と同じくらいの女性らしさとは何だろう?
出産することは女性らしさとは関係ないのではないか?

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