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飛鳥から奈良時代:麻疹(はしか)と大仏。 │ ヒットソングと流行語でふりかえる感染症の歴史3

[要約]世界帝国に敗れ、いくつかのクーデターやテロ、都市の半数が亡くなる疫病を経て、世界帝国から法と仏教を学びながら、女帝たちの執念で、
日本という物語ができあがっていった。(84,00字15分で読めます。)

こんにちは。未来探求者のさくま東洋です。病原菌も流行歌も流行語も、地球と時代のうねりにあわせて流行し、やがては終息し、新しい物語をつむぎだしてきました。このシリーズでは、流行歌と流行語という切り口で、これまでの日本の疫病の歴史をふり返り、これからどのような社会を目指していけば良いのかを考えていきたいと思います。前回はヤマト王権が成立するまでの話でしたが、今回は、倭国から日本誕生まで、日本という物語をどのように生み出していったのかを紹介します。紹介する流行歌は、日本人の発音を変えた漢字の発声練習ソング「あめつちの歌」、日本で今も最も歌われているヒットソング「般若心経」、そして万葉集の和歌たちです。

そして、日本という言葉が生まれた。

200年頃から600年までのユーラシア大陸は、定住民の文化と遊牧民の文化がつながりあうことで新しい文化や宗教が生まれました。遊牧民の一神教であるイスラム教は、乾燥地帯の貨幣経済圏で普及し、湿潤な森林の境界まで東西に広がっていきました。一方で仏教は湿潤な森林地帯を中心にタリム盆地のオアシスを経て東へと広がっていきます。中国は魏晋南北朝時代と呼ばれ、400年間、統一王朝は現れず、定住民と遊牧民の多くの国が割拠し栄枯盛衰を繰り返しました。このため、様々な民族の渡来人が朝鮮半島を経由して継続的に日本列島にやって来ました。漢字と論語を日本に伝えたのは朝鮮の王仁(わに)博士と言われています。僕は、王仁の墓の近くで育ち、王仁と言えば、王仁プールのことでした。

400年ごろから、西日本の渡来人の中で仏教を信仰する人々や漢字を扱える人々が増えて来て、倭人の話し言葉であるやまとことばや歌に漢字を当てはじめました。マインドフルネスなど21世紀のカリフォルニアで流行している個人が悟りを目指す上座部仏教は伝わらず、パキスタン北部・中国西部の遊牧民国家クシャーナ朝で成熟した大衆向けの大乗仏教が、ガンダーラ仏像とともに中国の漢字を経由して伝わってきました。また熊野の那智滝には、インド南部から禁欲主義のジャイナ教の空衣派(裸行派)と思われる僧侶が漂流し、修験道や補陀落といった苦行や即身成仏や漂流が引き継がれ、中世以降に神道や仏教と習合していきました。

538年に仏教を三輪山の麓の川で公式に受け入れた直後に天然痘が初めて流行しました。今も昔も、長期航路の船内で疫病が感染しやすいのは変わりません。このことを神罰とした仏教反対派と賛成派の氏族同士で内乱が起き、賛成派であった蘇我氏が勝利します。大陸では、中国化した北方遊牧民により中国が再統一され、隋、唐と強力な王朝が続きます。645年に乙巳の変と呼ばれるクーデターが起こった後は、元号を定め、氏族制度と仏教に代わって、儒教と法制度と命令書と時刻で組織を動かす中国式の統治システムを導入し、外圧に対抗しようとします。しかし、663年、唐は朝鮮半島の白村江で倭国と百済連合に勝利し、高句麗も滅ぼします。多くの百済人と高句麗人が日本列島、特に日本海側に亡命し、渡来人の流入はピークを迎え、今の日本人とほぼ同じ遺伝子分布になりました。敗戦後、東日本に柵戸と呼ばれる防衛線を、北九州に防人と呼ばれる防衛システムを作りました。急ごしらえな体制だったため、防人の軍務は過酷で、防人の歌と呼ばれる多くの悲哀の歌が読まれました。

「沖つ鳥鴨といふ船の還り来ば也良の崎守早く告げこそ」(山上憶良)
也良の防人よ、鴨という名の船が帰ってきたら真っ先に知らせてくれ。

出兵したまま戻らなかった船は多数あったことでしょう。その後、壬申の乱と呼ばれるクーデターに破れ、仏教重視派の天武天皇が主導権を握りました。戦いに敗れた倭国は、天武天皇の時に、唐からの印象を良くする目的と、朝鮮半島との社会的なつながりが薄れたことを機に国名を「日本」に改めました。

巨大翻訳プロジェクトはじめました。

出来たばかりの「日本」という国の結束を固めてアイデンティティを確立するために、これまでの口伝で語り継がれてきた歴史や神話を漢字で文章化して古事記を編纂し、各地方の歴史を記した風土記が編纂されました。また、唐によい印象を伝えるために、王朝の正当性を示す記録として日本書紀が急ピッチで編纂されました。これらの物語は、その後の日本の知識層たちの人生の物語になっていきました。

中国語と日本語の翻訳には、a)当て字とb)意訳とc)音訳が行われました。

a)中国に日本の伝統を漢字で伝えるため、神世の昔から話されていた大和ことばや万葉歌には発音が近い漢字を当て字にする音訳が行われました(万葉仮名)。有名な王様だった「わかたける」には「獲加多支鹵」と当て字され、なんだか、キラキラネームに難解な漢字を当ててカッコよく見せる習慣と近いですね。三国時代の朝鮮でも同じように、郷歌と呼ばれる郷土の歌に、中国の漢字を当て字にする音訳(郷札)が行われています。

b)また、大和ことばに意味が近しい漢字を当てはめる意訳(訓読み)も行われました。例えば、あまてらすおおみかみの「あま」には、中国神話で人を超えた存在である天(ten)という字が当てられました。王仁が眠る墓の近くを流れる”あまのがわ”は天野川と記されることになりました。

c)中国から来た外来語・新語は、そのまま音訳(音読み)が行われ、定着していっきました。和(ワ)、忠(チュウ)大(ダイ)日(ニチ)学(ガク)。仏教や儒学や老荘や法家といった多くの新しい概念が、最先端のファッションであった漢字を通じて取り入れられ、日本人が認識する世界は広がっていきました。中国は、易姓革命により、様々な民族が皇帝になる多民族国家のせいか、文字は変わりにくいが時代によって発音が変わりやすい傾向にあります。偉い僧侶を表す和尚(和上)は、奈良仏教ではワジョウ、禅宗ではオショウと呼び方が時代によって変わりました。このため、外来語が流行語になった時の読み方が日本語として定着していきました。「欧米では〜」を連発する出羽守のご先祖様も、この時代では「中国では〜」を連発していたかもしれません。

ドーマンとも言われる、臨兵闘者皆陣列在前(りんびょうとうしゃかいちんれつざいぜん)は、手で9つの印をつくり災いをさける道教のおまじないです。もともと、コトバに言霊が宿ると考えられていたので、文字そのものに呪力があるという考えも受け入れられやすかったかもしれません。何しろ、モノ珍しいですし、神妙不可思議ですし。

流行語で振り返る感染症の歴史ビジュアル.006

輸入されたお経のうち、ギャーテーギャーテーとか、オンアボキャベイ、パーニャ・パラミッターなど中国でも音訳されたサンスクリットのコトバは、中国と同様に外来語として、ネイティブ発音のまま、マントラ(おまじない)として使われました。意味があふれる世の中で、意味よりリズムが大事な言葉は価値を増します。

民衆は、文字は読めないので、ひーふーみーよー(訓読み)と数え、官僚は、いち、にー、さん、しー(音読み)と漢字で記した。話し言葉と書き言葉がもっとも鮮明だった時代でした。

平安時代初期に生まれた、漢字を読む際のアクセント発生練習のための練習歌が「あめつちの歌」です。何度も歌われながら、日本語も漢字に合わせたものに変化し、浸透していきました。それまでは、ズーズー弁を喋る人が多数派だったのでしょうか。

具体的なコトバと心象風景のコトバばかりだった日本語に、漢字という文字を通じて、非常に多くの抽象的な概念が押し寄せてきました。仏教を通じて入ってきたのは、モノゴトは相互に関係しあって重なりあっているというシステム的な見方や、脳のバイアスを知覚し、こだわりなくありのままにモノゴトを認識する見方でした。

今も日本で最も歌われている超ヒットソング。

今もほとんどで寺院で歌われている超ヒットソング般若心経は、645年にインドから中国に帰国した三蔵法師が再翻訳したばかりの観測者によるモノゴトのとらえ方でした。

般若心経 曲 キッサコ・薬師寺寛邦 訳詩 三蔵法師


超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。味や香りなんて人それぞれだろ?何のアテにもなりゃしない。
揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。もっと力を抜いて楽になるんだ。生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。心配すんな。大丈夫だ。
(般若心経 ニコニコ名無しの訳より)


日本列島はユーラシア大陸の終着駅で、それより東には移動しにくい場所にあります。このため、様々な民族が流入してくる中で、「相反するものや矛盾するものを、あえて排除せず、たえず平衡しながら共存できるようにするために、中味をからっぽな構造にしておく。」という考え方が無意識に浸透していました。このため、「ゆらぐ心は、いい加減な幻に過ぎない。」という仏教のモノゴトのとらえ方は受け入れやすいものでした。

パンデミック後の2500年前に生まれた老子の無為や荘子の無為自然、古事記にツクヨミなどの存在感がない神がいることに見られるように、東アジア文化圏では「あえて何もしない。心を虚しく、足るを知る。」ことで、相対的に均衡を保つことを良しとする考え方がありました。インドでも、ブッダが生まれる前から、梵我一如のように「物事を相反するものや矛盾するものとしてとらえずに、ひとつはすべてを包含し、すべての中にひとつを見いだす。それらは互いに影響しあっている。」という植物のフラクタル構造のようなモノゴトのとらえ方(インドラの網)があり、零(ゼロ)の数学的な概念もありました。これらの思想を下敷きに、ブッダは揺らぐ心はいい加減な幻であるという空の概念を発明し、大乗仏教の龍樹が理論化しました。

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出典:植物のフラクタル感にうっかり惑わされてみる

300年頃にインドから中国へ、500年頃に朝鮮から日本へ仏教が伝わりました。相対的に均衡を保つ目的に、中味をからっぽにしておくことと、実態のない幻として捉えるという考えは相性バッチリでした。また、持ち込まれたインドの神様をかたどった仏像達もかっこよく、彼らの武勇伝やファッションは、中国や日本であこがれられている神様や道教の神仙の物語とも重なって見えたことでしょう。四天王や明王は子どもでも目を引くかっこいいファッションで、菩薩や如来と悟りを得るほどシンプルになるファッションは、承認欲求は幻に過ぎないことをヴィジュアルで表しています。また、仏像にヒエラルキーがあることは、上下関係と徳を重視する儒教とも相性バッチリでした。こうして、道教を重視する知識層、儒教を重視しする統治者の双方に仏教は受け入れられ、またたく間に流行していきました。

広告コピーとアニメ名せりふで例えると、イズミ・カーティス「一は全、全は一。この意味が分かるか?小僧(鋼の錬金術師)」→「光。広がる。響き合う。(JR西日本)」→「ずっと俺のターン ザ・ワールド!(ジョジョ)」です。
IT用語のバズワードを使って説明すると、「社会がネットワーク化してスケールフリーネットワークになったので、VUCAな世界ではセレンディピティが大事で、GAFAのエンジニアもデザイン思考で共感とメタ認知して、フロー体験でコーディングし続けた結果、ブラックスワンで大きくなったんですよ。もうワンチャンあるっしょ?!最近の事例だとZOOMですね。」です。

うーん、わかりにくいので、表にまとめました。

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自然科学から生まれる花園 にToyo Sakuma追記。

俺に餃子を食わせろ。日本中国化計画。

奈良時代に入り、唐の経済圏は異民族を取り込みながらさらに拡大を続け、イスラム帝国の経済圏にまで及んだため、日本にもシルクロードを通じて、当時の先進地帯であるインド・ペルシャから優れたテクノロジーや思想が入ってきたましたが、天然痘やインフルエンザなどの病原菌も運ばれました。

735年に疫瘡と呼ばれる疫病が、遣唐使からの朝廷中枢部ルートと、太宰府中心の民衆ルートで流行していきました。天然痘とされていますが、天然痘研究者の山内一也によると、感染力から麻疹(はしか)とされています。麻疹は空気感染で、当時はエボラ並みの致死力と、HIVと同様の免疫力低下機能を持っています。日本人は免疫を持たなかったため、ウィリアム・ファリス氏による帳簿の免税率の調査では総人口500万人で例年は2%だった死亡率が26%に跳ね上がったとされます。人口が集中する都の周辺は特に被害が多く畿内では44%、貴族でも33%が亡くなりました。半数が亡くなる大惨事です。中国から伝わった疫病ですが、中国大陸では社会免疫や治療法ができていたので、渡来人などの死亡率は低かったのでしょう。中国の文明の力で解決しようとします。社会不安に対して、患者を施薬院に集め、茶をはじめとする漢方薬や薬湯を施しました。明治時代まで奈良県は薬草の日本一の生産地であり続け、明治時代に武田製薬、アステラス製薬、ロート製薬、第一三共製薬、ツムラ製薬の創業者を輩出しました。また、仏教のありがたさをわかりやすく大衆に伝えるために、中国に倣って、土木テクノロジーを駆使した光り輝く大仏や国分寺・国分尼寺の建立といったランドマーク建設を通じて、仏教を中心とした国に暮らしていることを大衆に信じさせるなど、急ピッチで仏教をプラットフォームとした中央集権国家が作られていきました。経済波及効果の試算研究で有名な関西大学の宮本教授によると 奈良の大仏の建造費は現在の価格で4657億円になり、21世紀のApple本社ビルと同じくらいの費用で建造されたことになります。税だけでなく、行基集団によるクラウドファンディングでも資金調達され、大衆を巻き込みながら、大仏は建造されました。法要の際にプレゼン上手と有名だったのが天武天皇の孫の文室浄三でした。話し言葉で明快にわかりやすく仏の教えを伝えたという話が伝わっています。薬師寺には彼が作詞した仏足石歌、仏を讃える歌が残されています。

いかづちの、ひかりの如き これの身は 死にの王 常に副たぐへり おづべからずや (電光のように、はかないこの身は、常に死を伴っている。恐れることはない。)

ヨーロッパでペストが流行し人口の3−6割が亡くなった時に"memento mori(死を忘れるな)"が流行語になったように、 日本でも天然痘で2ー3割が亡くなり、「人は必ず死ぬ。心配すんな。大丈夫だ。」も法要で歌われ流行歌となりました。歌碑で唯一の国宝です。五七五七七七と短歌に教訓的に一句つけるスタイルの仏足石歌ブームは奈良時代がピークで、その後は御詠歌に形を変えていきます。

唐では、道教がメインで、仏教と儒教がサブという政策が取られていましたが、中国史上で唯一の女帝であった武則天の時代だけは、仏教がメインで、道教がサブという政策がとられました。女性である持統天皇や光明皇后は武則天をロールモデルにしていたようで、鎮護国家仏教を日本で推し進めました。男尊女卑の儒教や出産の神秘に重きをおく道教よりも、日本伝来した時から尼がいた仏教の方が、自身の影響力を誇示しやすかったかもしれません。その後の中国では儒教がメインの政策で、チベット仏教に帰依したモンゴル帝国も仏教を政策には反映させなかったので、鎮護国家仏教は、この時期にしか見られなかった特殊な政策であり、かつ、日本の歴史上、女性の力が最も強かった時代でした。推古、皇極(斉明)、持統、元明、元正、孝謙(称徳)と8人の女帝のうち、なんと6人までがこの鎮護国家仏教の時代です。中でも、天武天皇の妻である持統天皇は、中国の都を模した藤原京を建造するなど改革を強力に推進し、天皇を神格化させたたパワフルな女帝として知られています。この国のかたちを決めた女帝、持統天皇が詠んだ歌がこちら。


「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」(持統天皇)
春は過ぎ去り、いつのまにか夏が来てしまったようですね。緑しげる香具山には、たくさんのまっ白な着物が干されているのですから。

美しい情景ですね。このように詠まれた歌が脳内でかんたんに再生できてイメージや感じを共有できるのが万葉集の特長です。そんな彼女とともに、日本という物語のプレリュードを奏でたのが、万葉最大のヒットソングメイカー歌聖、柿本人麻呂でした。

「ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」(柿本人麻呂)東の野にかげろうが立ち、太陽が今まさに登ろうとするとき、振り返れば月が傾いている。

日本という物語がはじまった

壬申の乱の後、持統天皇の息子の草壁皇子を次の天皇にするという誓約を、吉野の神様の前で、天智天皇の息子たちとも交わしたのですが、草壁皇子は即位前に亡くなり、その息子の軽王子が文武天皇となりました。こうして、持統天皇の指導のもと、兄弟ではなく子どもに天皇を継がせるという皇位継承の慣習と皇太子制度、上皇(太上天皇)制度ができました。この300年間は兄弟継承が当たり前になっていたために内戦やテロやクーデターが続き、持統天皇も幼少期から巻き込まれていました。乙巳の変で、母系祖父の蘇我石川麻呂を父の天智天皇が自殺に追い込み、そのショックで母が病死し、13歳で天武天皇に嫁ぎ、唐との戦いに従軍中に草壁王子を出産し、壬申の乱で夫が父の一族から実権を奪うものの、後継の息子が亡くなってしまうという波乱万丈の人生でした。彼女にとって、孫の即位は執念の結果でした。そして、これが、直系継承、イエ、長男が後継という物語が誕生した瞬間でもありました。この歌は、東に登る太陽は軽皇子を、西に沈む月に亡くなった草壁皇子をあらわし、輝かしい時代の到来をたたえつつも、無念の故人を偲んだ歌でもあり、天皇を太陽にたとえて神格化をはかり、直系継承を月の動きにたとえた物語を紡いだ流行歌でもありました。中国では蛇を強化した龍が神格化のよすがでしたが、日本ではスサノオのヤマタノオロチ退治以降、蛇信仰は異端でしたので、
日出るところの巫女である太陽を神格化のよすがにしました。
当時は、天動説でしたのでこのムービーのような自然観がベースとなりました。

そして、持統天皇の命で万葉集の編纂が始まり、吉野の誓約の6皇子が詠んだ歌を骨格に、天皇という物語が、日本列島の多くの美しい花鳥風月の情景とメロディともに人々の記憶に定着していきました。

「やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる やまとしうるはし」(ヤマトタケルノミコト倭建命)重なりあった青い垣根の山の中にこもっている大和は、国のなかでももっとも美しく、よいところ。

ただ、天武天皇の家系はその後わずか百年で断絶してしまいます。百人一首では、柿本人麻呂の歌は、ラブソングが選ばれています。

「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」(柿本人麻呂)
山鳥の長く垂れ下がっている尾のように、長い夜をひとりで寝るのだろうか。

漢字に長けた柿本人麻呂は枕詞を数多く生み出したとされ、これまでの「歌は感情を歌って流れていくもの」から「文字に書いて推敲し残っていくもの」へ変化させたパイオニアでした。

当時は、中国の均田制にならい班田制という制度を作り、国家が所有する土地の使用権を民衆にレンタルし、収穫の一部を現物で徴税していました。20世紀の中国共産党の土地制度とも近い仕組みですね。このために戸籍や法律を急速に整備しましたが、科挙に基づく官僚制度は導入しなかったため、制度運用力が未熟なままで、インセンティブもないために開墾や生産性は思った以上に伸びませんでした。このため、疫病の被害対策と財政健全化を目的に、すぐに開墾者の土地所有を認めることになり、寺社や豪族が資本を生かして荘園を増やしていきます。with天然痘の時にうった政策が、300年後から主流の経済体制になる「荘園制」の始まりになりました。共産主義者には怒られそうですが、先祖から子孫まで一族で土地を所有できるという物語がないと努力できない民族性のようにも思います。その後も、班田制では、疫病の発生が耕作放棄と飢饉を生み出し、飢饉が疫病を生み出すという構造的な悪循環が班田制の終焉まで繰り返されることになります。こうして、律令にもとづく班田制が成立した瞬間から、疫病の影響で、将来、班田制を脅かす存在になる荘園性の種が巻かれたことは、皮肉でもありますが、生まれた瞬間にそれを破滅させるコードが内包されているシステムと同じで、生命っぽくはあります。

次回は、最も感染症の死者が多かった時代である平安初期です。荘園制の成立から武家の台頭までを取り上げます。

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