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古代:神の発明と大祓。 │ ヒットソングと流行語でふりかえる感染症の歴史2

[要約]日本列島にやってきた複数の民族の持つ神話が混じりあい、日本語と共同幻想が生まれた。統一政権ができ人の流れが活発化したことで、日本列島で初めて起こった伝染病のパニックは、降ってくるアイデアと浮かびあがるビジョンの力で終息し、八百万という物語が広がった。(11,000字20分で読めます。)

こんにちは。未来探求者のさくま東洋です。病原菌も流行歌も流行語も、地球と時代のうねりにあわせて流行し、やがては終息し、新しい物語をつむぎだしてきました。このシリーズでは、流行歌と流行語という切り口で、これまでの日本の疫病の歴史をふり返り、これからどのような社会を目指していけば良いのかを考えていきたいと思います。前回の感染症は人々に物語が虚構だったと気づかせるは感染症と流行語と流行歌の因果関係を紹介しました。今回は、古代日本の人たちがどのように感染症と関わってきたのかを振りかえります。紹介する流行歌は、日本最古の歌「八雲立つ」と、今も全国の神社で歌われている超ロングヒットナンバー「大祓」です。

私たちはどこからやって来たのか?

核DNA分析で日本人のルーツを探求するヤポネシアプロジェクトによると、日本列島には「4万年前」「3千年前」「1700年前」をピークに3段階に分けて人が移動し、日本人ができあがっていったそうです。全員が日本語を話すので単一民族国家のように思われがちですが、日本列島の遺伝子の多様性は中国や朝鮮半島よりも高いものになっています。地質学、人と動植物のゲノム、言語学、考古学、神話学と研究結果を多角的に見て組み合わせることで、謎とロマンに包まれていた古代も少しづつ明らかになりつつあるようです。

アフリカでの天敵が神を生み出した

400万年前に二足歩行で発情期を失ったホモ・サピエンスの祖先の類人猿はアフリカ大陸で家族をつくりはじめます。樹の上で暮らしながら250万年前から脳が成長し始めました。意識は、食料の場所探しと天敵から身を守ることに特化して進化してきました。この当時の類人猿が食べられるリスクがあった天敵は、住まいの近くまで這ってくるヘビ、谷へと突き落とすワシ、湿地に隠れ待つトラで、特にヘビを素早く見つける必要がありました。このためヒトや猿の脳にはヘビの姿には敏感に反応する神経回路が発達し脳が巨大化した者が生き残ったという説があります。脳が巨大化すると、ヘビ(近く)かワシ(上)かトラ(下)のどこに危険があるのかを家族と仲間に伝えるために言葉が発達しました。言語の自然発生が初めて観察されたニカラグア手話の発展プロセスから推定すると、共同体の数が150人を超えると、各人が身ぶり手ぶりで表した動物の名前どうしが融合して中間言語が生まれ、それを聞いた子供世代が母語にしてさらに言語を発展させていったようです。「ヘビだ!」、「ワシだ!」、「トラだ!」がおそらく世界最初の流行語です。次第に言葉が増えるにつれて、「最近、旦那が冷たいのよ。」などの男女や家族のうわさ話が、共同体の毛づくろいの代わりの交流手段になっていきました。7万年前にインドネシアのトバ火山が巨大噴火を起こし、その後太陽の活動も弱くなり6万年に及ぶ氷河期に突入します。この危機に対して、アフリカ大陸に残っていたホモ・サピエンスの一部が、抽象的な思考やシンボルを用いることができるよう進化しました。(認知革命) 危険回避の方法を例え話を用いて交換し、次第に高度化していった言語を用いて歌や笑い話で子孫に引き継ぎ、協力して狩猟体制を築くことで生き残りました。そして、理想郷という虚構を唱えるリーダーを先頭に、温暖化で変化する植生と動物を求めて、ユーラシア大陸へ拡散していきました。先にユーラシア大陸に拡散したデニソワ人やネアンデルタール人は氷河期で絶滅寸前となりホモ・サピエンスとも共存できたため、天敵であるヘビ、ワシ、トラを人にたとえて畏敬する、すなわち神格化することは認知革命後の早期に行われたと思われます。石や壁のくぼみに人の顔を勝手に見いだす脳のアポフェニア作用に基づいて、「あの石は、かつて先祖10人を飲み込んだ巨大なヘビ神が固まった石なのじゃ。恐れ多いので近くでない。」など、自然岩に天敵や人の姿を見出す人が現れ、物語を定着させるランドマークとなり聖地として祀られるようになりました。5000年前までは、メソポタミアでは、ヘビの化身であるナンム(ティアマト)が大地母神であり、エジプトではヘビとワシが王家の紋章で、アメリカ大陸ではヘビ(ケツァルコアトル)が崇められ、東アジアでも4神(青龍ヘビ、朱雀ワシ、白虎トラ、玄武カメとヘビ)が崇められており、特に重要な神である龍、伏羲、女媧はヘビの化身でした。長い飢餓にも洪水にも耐えられ、脱皮して交尾時間が長いヘビがやがてロールモデルとされ、その後、世界各地で、蛇の波のようなうねりや動きを表した卍(まんじ)や、自分の尾をくわえたヘビ(ウロボロス)が物語のシンボルになっていきました。20歳と短い平均寿命の中、長寿、子孫繁栄、死と再生の循環が人生の物語だったのでしょう。

森のように死と生が循環する縄文の物語

4万年前。焼畑で芋を育てながら移動し狩猟採集する人たち(Y染色体:D1系統とC1系統)が、温暖に向かう中で変わる植生と鹿や猪を追って、東ユーラシア全域から、朝鮮半島、東南アジア、シベリア経由で日本列島の沖縄本島から樺太にまで移動してきました。世界で最初に土器を発明したという彼らは、土器や身体にヘビの文様(縄文)をつけて祀り、森の何も無い空間を聖域と崇め、神の死体や排泄物から農作物が生まれたという神話(ハイヌウェレ型の共同幻想)を持っていました。森や山そのものを世界にたとえ、死と生は、腐敗や発酵から生命が生まれる有機物分解プロセスを通じて絶えず循環しており、エネルギー総量は、月と太陽が天空をめぐり夜と昼をくりかえすように、死と生をくりかえしながら徐々に増えていくという物語の中、持続的な暮らしをしていたと思われます。イザナミやオオゲツヒメが亡くなった際に死体から栽培物が生まれ、イザナミが1000人殺すと言ったことに対してイザナギが1500人産むという問答に彼らの考えがみてとれます。

自然界の物質循環

出典:新しい「農」のかたち:土の中の分解者より

その後、彼らは他の民族に追われたり、疫病で全滅するなどして、現在では、世界中で、日本列島、チベット、東南アジアの山奥などにしか残っていないDNAになりました。因幡の白兎に似ている神話が、シベリアや東南アジアにもありますので、彼らの物語かもしれません。遺伝子による研究が行われるより前に、チベットと日本の縄文との関連性を見出したのが芸術家の岡本太郎でした。チベットに古くから伝わる供え物であるトルマからインスピレーションを得て、「縄文の怪物」太陽の塔を作り上げたとの話があります。1万年前に氷河期が終わり海面が100mも上昇し、日本列島は大陸から切り離されたため、ユーラシアの民族移動の影響を受けることなく、後述する隕石落下による影響も少なく、豊満な女性を象徴した土偶や、男性器を象徴した石棒、火焔土器などの生命力あふれる文化を7000年間にわたり紡いでいくことになりました。温暖化で針葉樹の森が後退し、東日本はブナやナラなどの明るい落葉広葉樹の森が、西日本はシイなどの深遠な照葉樹林の森が広がり、文化は分かれていきました。21世紀には、鎮守の森、沖縄の御嶽、原生林に名残を残します。7300年前の鬼界カルデラの噴火で西日本が大打撃を受けた後は、東日本と沖縄本島が縄文文化の中心になりました。

自然を制圧し分業して都市を守る人間中心の物語

日本列島がタイムカプセルのように独自の文化を継続している間、ユーラシア大陸の文明はどのように変化していったのでしょうか?氷河期が終わる1万年前の環境変化はとりわけダイナミックなものでした。急激に温暖化が始まったところに、彗星が多くの破片に分かれて北米大陸と欧州から中東にかけて衝突し急冷化、1000年後に再び急激に温暖化していくという大変化が、おこりました。この気候変動はノアの方舟など大洪水神話として中東を中心に各地に残っています。北米大陸の人類はほぼ全滅し、何度も世界の破壊と構築が繰り返される南米のマヤ・アステカ神話に教訓が残されました。わずか1000年間の間の急激な気候変動を通じて、中東の人類は生命力あふれ豊かだった狩猟採集生活から、定住して家畜を飼い、穀物を栽培し貯蔵するきゅうくつなライフスタイルへ変化を余儀なくされました。大洪水の後に、聖地になっていた自然の巨岩か食糧のバナナかを選択させるバナナ型神話が各地に継承されています。東アジアやインド亜大陸への彗星の打撃は壊滅的ではなかったものの、徐々に栽培文化が広がっていきました。腐敗と再生を繰り返す森の自然を捨てて、腐ったままの食糧を選んだことで、死と生は循環せず、生から死へと向かう、過去は離れていき未来は近づくという直線的な物語が生まれました。

6500年前には21世紀よりも気候が温暖化したことで、世界各地で食糧生産は伸び、食料貯蔵により余剰が発生した結果、人口は増加し、共同体は村に、村は街に、街は都市に、都市は国になっていきました。その結果、計画と生産管理のうまい人がリーダーとなり、分業、単純労働、貧富の差が生まれました。家畜の病原菌が都市で密に暮らす人々へと感染しやすくなり、感染症も生み出されやすくなりました。メソポタミアでは、都市化とともに、天敵はヘビから異民族や感染症となり、軍事と政治と生産者の分業が進み、ギルガメッシュのような自然を制圧する強力なリーダーが出現しました。このような社会変化を意味づけるため、崇拝の対象がヘビから耕作を手伝い食糧にもなるウシになり、空、地上、海と自然を擬人化していた神々から、都市の守護神が祀られるようになり、やがて軍事の神と政治の神は異なる神殿で祀られはじめるなど、森などの自然を制圧し人間中心的な分業社会を作る物語が広がっていきました。文字が生まれたことで、時間と場所を超えて物語を記録し伝えることができるようになりました。

そして、5000年前に、ヤムナ(R系統)と呼ばれる黒海付近にいた遊牧民が乗馬術と車輪を発明したことで、人の移動距離は格段に伸び、木綿や絹といったユーラシア大陸の東西の物を運び交易が生まれるとともに感染病もユーラシア大陸中に拡散されるようになりました。ユーラシア大陸は東西に長く交易路が伸びる地形のため、家畜を横展開させやすく、感染症の培養庫になっていきました。オセチア人の先祖たち(G系統)が欧州で育んだ巨石に精霊を見出す文化の物語と、オセチア人の先祖たちを征服したケルト人(R系統)の物語が融合し、印欧語族には、後のアーサー王物語に代表されるの戦士(軍事)、祭司(政治)、平民(生産)の三体で構成される物語が流行し、複雑化していく社会の中で、三体で社会を構成する社会的分業や身分の固定化といった共同幻想で国が運営されていきました。こうして、征服民と被征服民の物語を融合させることで、その新しい物語の力を利用して、2つの言語、2つの物語を持つ民族の統制を取ることができる世界初の帝国、アッカドが4400年前に生まれました。

超越者を目指す物語と、まぐわい一体化を目指す物語

3200年前に地球の寒冷化と干ばつなどの気候変動がピークに達し(前1200年のカタストロフ)、生存競争が活発化します。印欧語族(アーリア人)がガンジス川を越えて十王戦争が起こり、海の民がエジプト王国を襲い、古代ギリシャ人がトロイを襲うなどの戦乱が発生した結果、環境難民が発生し、定住者と遊牧民が入り混じることでパンデミックが発生し、疫病で多くの死者が出ました。3200年前のエジプトのチーズからは家畜から伝染するブルセラ病の元になる病原菌が発見されています。結果、地中海ではヒッタイトとミケーネ文明が、中国では殷が崩壊しました。ギリシャ神話では、射手座のモデルとなった半人半馬のケイローンと英雄ヘラクレスの神話がこの悲劇を象徴しています。人々が極限まで絶望すると、超越者による審判や来世での救済を求めて乗り切ろうとする物語を生み出す傾向は今も昔も変わらず、数多くの新しい宗教が生まれました。バアル信仰の反目として、アフラやミスラの太陽信仰の神秘主義を下地として、ヘブライではユダヤ教、エジプトでは太陽神信仰が。インドでは梵我一元論のバラモン教(ヴェーダ)が、中南米ではジャガー信仰が生まれ、長い時間をかけながら一神教の思想を洗練させていきます。二元論の場合、前の信仰を悪と断罪することが布教の有効な戦術であり、バアル神や蛇は悪魔とたとえられ、やがて、蛇を食べる鷲やフクロウが信仰の対象となり王家の紋章にする国も増えました。

このカタストロフの時期に、東アジアでは、ステップ地方の遊牧民に押し出され、北部で麦や大豆を栽培していた人たち(O2系統 周の太伯とされる)が殷を滅ぼし南下したため、長江のほとりの照葉樹で漁や稲作を行っていた人たち(O1系統)はアウトリガーカヌーに乗って、東南アジアや北東アジア、そして西日本や太平洋沿岸へと離散してきました。彼らは航海技術が高く、その後、マダガスカル島まで離散しました。

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東アジアのY染色体ハプログループの移動(wikipediaより)

彼らは、毒味の神様(神農)から農耕を与えられたという神話(デーメーテール型の共同幻想)をもち、長江で自生していた稲を品種改良して、3,000年間にわたって灌漑を続けても砂漠化しない世界唯一の農業技術、水田を発明していました。栽培と収穫の時期を正しく知るために大切な夜空の星に神々の物語をつくっていった古代ギリシャ人のように、稲の成長に影響を与える太陽や月や風などの自然現象に神の名前をつけて祀りました。また、同じ時期に、主語→目的語→述語の順番で話し、Rの発音ができない遊牧民系の人たち(C2系統)も少数ですが移住してきました。彼らの話す言葉の影響力が日本列島では強くなり、大流行したようです。主語が曖昧なため、波風立てないように弥生人と縄文人の橋渡しをしたからでしょうか、祭での歌や舞や神話が魅力的だったからでしょうか、遊牧民は視力がよいので月の模様から多くのパターンを読み取れたからでしょうか、理由はわかりません。

ユーラシア大陸からは勢力争いに敗れて、様々な文化と信仰の部族が日本列島に逃亡してきますが、それより先は広大な太平洋が広がっており、アウトリガーカヌーなどの高度な操船技術を持たない限りは列島にとどまることになります。仲良く調整しなければいけません。交渉時に相手に敵意と武器がないことを示すのうえで有効な手段は、拍手を複数回うつことです。2回、4回、8回など回数は部族により異なりましたが、柏手は異なる部族間での交渉を開始するための約束事として定着していったように思います。

3勢力で交渉し政治的な均衡を保つのは、今も昔も行われています。縄文(D1系統)、弥生(O1系統)、遊牧民(C2系統)は、古事記で言うスサノオ、アマテラス、ツクヨミなのかもしれませんね。どの文明でも、定住して耕作をやっていくには、所作や踊りといった約束事だけでなく、言葉と大きな組織が必要なため、日本列島でも多くの国々が成立しました。記録に残る日本列島で最古の歌がこちら、八雲立つ。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」(スサノオ)
何重にも重なりある雲が立ち上る ここ出雲に立ち上るのは八重垣のような雲だ。
妻と住む宮にも八重垣を作っているよ そう八重垣を。

縄文の神話では、縄目に示す通り、蛇をまつり、神が死んだ死体から他の神々や惠が生まれてくるという焼畑農業でしたが、スサノオの蛇退治(ヤマタノオロチ)の物語で唄われる「八雲立つ」は、男女一体化して国を作っていくという共同幻想のはじまりとなりました。野生の植物は毒を持っており人類の食べられる品種は多くありません。人類は定住革命後、長い時間をかけて品種改良と毒味を繰り返し食べられる栽培品を増やしていきました。雄しべと雌しべを組み合わせ続けて弱毒化させ、なんでも口に入れて何度も腹をこわしながら人体実験を繰り返した人たちは、やがて神として祀られるようになりました。

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死と生は腐敗と再生という有機物分解プロセスを通じて絶えず循環しているという森の物語から、稲小麦→バッタ→鳥→蛇→鷲やフクロウという食物連鎖を模したピラミッドの物語に基づく共同幻想が強化されていきました。ハイヌウェレ型であるイザナギとイザナミという夫婦の死(分離)から始まった日本神話ですが、水稲栽培とともにデーメーテール型の中国の神話が持ち込まれた結果、全体からの分離、欠けているものを克服するために男女でまぐわい一体化(統合)する、均衡を取るために大事なことは3体の視点で決めるという物語が共同体に広がっていきました。定住とともに余剰食糧が生まれ、共同体の人口が増えはじめます。定住は貧富の差や単純労働や疫病を生み出しましたが、男女の役割が明確だった狩猟採集と違い、男女が一ヶ所に留まって共に共同体を育んでいくという物語を生み出しました。収穫祭は、そのような物語を具現化する行事でした。神輿などの依り代を激しくゆれ動かして豊饒の神を呼び出し、餅や団子などの丸い食料を捧げ、神を送る。神と共にあることで、アルコールや食料の余剰物を過剰摂取しながら乱交することで、日頃の単純労働での抑制を開放し、共同体の担い手を増やしていく大切な日でした。

地球全体に話を戻します。2700年前に再び地球が急激に寒冷化して、青銅器で武装した遊牧民が帝国に侵入しました。中国でペストが初めてノミから人類に感染し多くの死者を出しました。オリエントではアッシリア帝国、中国では周朝(西周)が亡び、帝国内で文字や数字を用いていた知識層が各地に分散しました。数字が普及したことで通貨の流通が可能になり、同じ物語を共有しているが、会話を交わさず信頼が少ない人達どうしでの交易が可能となったおかげで、情報交換もより活発となり知識が蓄積され、徴税も物納と比べ効率的になりました。混乱から回復してきた2500年前には、中国の戦国七雄、インド四大国、地中海のアテネとペルシャが激しく争いあう中、世界各地では枢軸時代と呼ばれる「知の大爆発」が同時多発的に起きます。神や人間の無力さ、無知を目の当たりにして、人間の好奇心は自然の中に神を見出すことから人間自身に向かい、人文科学というフロンティアに天才が多く生まれます。この短期間に、人間の頭脳で考えうる限りほぼすべての思想が生まれました。代表的なものでも、中国では孔子、老子、墨子、韓非、孫子が。インドではヴィヤーサ、マハーヴィラ、ブッダらが。乾燥地帯ではツァラトゥストラが。地中海ではプラトン、トゥキディデスが。オリエントではエレミア、エゼキエルがいます。マハーヴィラ、ブッダ、プラトン、荘子のように人類が生んだ共同幻想に気がついた人もいれば、エレミアのように終末思想と禁欲純愛を問うた人もいれば、孔子、孫子、韓非のような現実主義者もいました。彼らの思想は文字と遊牧民を通じてユーラシア各地に分散し、この後は、遊牧民と定住民が接する地域の国が交易と文化交流で帝国化していきます。

日本列島では、最新のDNA研究によると、この寒冷化の時期に縄文人(D1系統)が三分の一まで減少したそうです。寒冷化に食糧不足と弥生人が持ち込んだ感染病の影響でしょうか。21世紀の日本も、この2500年以来の人口減少に向き合っているため、多神教神話のAI解析などの力を借りて、枢軸時代に並ぶ知の大爆発を起こさなければ対処できないかもしれません。

ユーラシア大陸の東の果てだった日本列島は文字を持たない時期が長く続きました。中国で漢字が発明されたのは3500年前ですが、日本列島に公式に伝わったとされるのは1600年後の西暦300年でした。発明当初、文字は宝具や璽(ハンコ)に刻まれ、相手に優位さを示す戦略的な宝具として利用されたので、文字を書ける知識層は囲い込まれ、文字の流行にはとても時間がかかったようです。


ただし、老荘思想の人たちにとっては長い間、日本列島は憧れの地でした。風土記にも蓬山や神仙の記載があるように、中国からは蓬莱・方丈・瀛州という東方の三神山がある地とされ、不老不死と中央構造線沿いで見つかるヒスイなどの玉を求めて、道家たちが日本列島へと渡りました。2200年前、漫画キングダムの舞台となる秦からは、始皇帝の命を受け、徐福が日本列島に渡航した記録があり、不老不死の薬の探索や、はしかの治療をしたという伝説が日本各地に残されています。老子の「あえて何もしない。心を虚しくして、足るを知る。」無為という思想と、縄文時代からの「何もない森の聖地」がシンクロし、日本人の心のあり方をつくっていったのかもしれません。ユーラシア大陸の東端である日本列島には、客人を神として崇める「まれびと信仰」の影響で、外の思想が取り入れられ土着化していきました。このころに、北九州の一部では朝鮮半島で製造された鉄の工作具が使われ稲作の生産性が一気に高まりました。戦争が起こり始めたのも、余った食糧が増えたこの頃からです。日本列島で製鉄が行われるようになるのは3世紀以降で、紀元前2世紀の中国王朝で行われていた高温で銑鉄を作り鋼にする大量製造法は輸入されず、紀元前15世紀のヒッタイトが発明した手間がかかる「たたら製鉄」が明治維新まで続くという独自のテクノロジー発展を遂げました。製造プロセスを簡易化する組み合わせ技術より、職人のすり合わせ技術を積み上げ改善していく日本製造業の傾向は、すでにこの時代から見ることができます。


3世紀はじめ、寒冷化が始まり遊牧民が南下します。中国では、三国志の物語で知られる内乱や飢饉やハイパーインフレが原因で大きな人口減少がおき、多くの漢民族(O2系統)が、豪族である公孫氏の影響力が強かった朝鮮半島や北九州に脱出してきました。皇帝になったばかりの呉の孫権が、呉の正統性を高めるために朝貢させようと日本列島(亶州)に1万の兵を送ったが脚気の病気で失敗したという記録が残されています。やがて公孫氏が魏に滅ぼされる2ヶ月前に、公孫氏の同盟国であった倭国の卑弥呼があわてて魏に朝貢の使者を送りました。今でも、亶州と倭国とヤマト王権が同じ国か違う国かは諸説あるようです。時期を同じくして、ヤマト王権が瀬戸内海を中心に広がり、やがて奈良を本拠地としました。この頃の奈良は、海面の低下で湖が徐々に小さくなり、栄養分あふれる土地が多く出現し、台風の被害も少ない地域だったため開拓地として最適でした。

日本史上初のパンデミック

王権が大きくなり支配地域が大きくなることは、支配地域内での人々の行き来も活発になっていきます。渡来人とともに結核などの疫病も本州に上陸したようで、210年ごろに大流行し、当時の都に住む人の半数が亡くなりました。人の交流のハブとなる都は特に被害が集中したのでしょう。もともと奈良に住んでいた先住民(D1系とO1系)は社会免疫を持っておらず、文字も読めなかったため、より多くの人たちが亡くなりパニックが起こったと思います。

そこで、ヤマト王権の大王ミマキノスメラミコト(奈良時代に崇神天皇と名付けられる)は、神や精霊の声に耳を傾け、教えを請うことにしました。神や精霊の言葉を聞くには、脱魂夢見タイプと憑依降神タイプに分かれるとされています。

脱魂夢見タイプは、心の内部にある声やビジョンにアクセスする行為です。θ波などの美しいメロディで舞って臨死状態やノンレム睡眠(浅い眠り、白昼夢)に近づき、低酸素状態になると肺からジメチルトリプタミンが生成され、その作用で脳内にエンドルフィンが増えることで、幽体離脱や明晰夢(夢と意識できる夢)といった「のめり込み」の中で浮かび上がってきたビジョンを見るというメカニズムを利用します。この祀り方はシベリアからアメリカ大陸に広がった人たち(Q系統)が発明したようで、今も、シベリアのブリヤートやアメリカ大陸のネイティブアメリカンやアマゾン原住民のシャーマニズムに受け継がれています。

憑依降神タイプは、意識を空っぽにしてアイデアが降りてくる状態にする創造行為です。強いストレスの中で、一定のリズムの呪文や神々の名前を唱えて、決められた姿勢や香りを取り続け、ドーパミンの放出量を増やして意識をなくすことで、神がかりを待ち、幻覚や幻聴を生み出すメカニズムです。似ている状態である、てんかんや統合失調症が民族を問わず同じ割合でいることから、人類はアフリカ大陸で絶滅の危機にあった時も、集団幻覚や幻想で物語(共同幻想)を生み出し、環境に適応していったのかもしれません。不安をFUNに。中国で自生し、神農の時代から薬として使われた麻黄という植物の成分から抽出したメタンフェタミンは、憑依と同様のドーパミン放出と幻覚症状が出ることが観察されています。天岩戸(日蝕)での神がかりの舞をはじめ、神がかりは、アヌビス神、ガネーシャ、神農、牛頭天王などといった頭が動物で体が人間の神様が信仰されるなど世界各地の神話に名残を残し、最近でも沖縄のユタや恐山のイタコまで生活にとけ込んでいました。の時にも脳神経の発火に大きな影響を与えるスフィンゴリン脂質は、少ないと統合失調症の症状を悪化させるなど、憑依降神や天才的ひらめきのメカニズムも徐々に解明されつつあります。

流行語で振り返る感染症の歴史ビジュアル.019


さて、210年奈良で起きた疫病に話を戻しましょう。日本書紀によれば、当時の大王も、同様に2つの方式で神にお伺いを立てました。まず、倭人の巫女が神がかりになり、「この土地(三輪山)の倭人のご先祖さまを祀れば平穏になる。」というアイデアが降ってきました。続いて、大王の夢の中で「その倭人のご先祖さまは、堺の海辺で須恵器を作っている人だ。」というビジョンが見えたため、彼を神主に連れてきて、パワースポットであった磐座が頂上にある美輪山全体を御神体と見たてて祀りました。その後、王権の支配地にも同じように、その土地のご先祖様、多くがスサノオの末裔である大國の主を祀ったところ疫病がようやく終息しました。これが日本最古の公式神社となる大神神社です。

祀りが政りになり、ゆずり合う八百万の物語が生まれた。

大祓詞は、その頃から1700年近く歌い継がれる定番ソング。360年頃から疫病の流行を治めるために、藤原氏が音頭を取って祀りはじめ、現代でも6月晦にあたる6月30日に全国の神社で厄除けにやおよろずの神の名を唱え奉納されます。

つみけがれを、はらひたまひ、きよめたまひ。あまつかみ(天津神)、くにつかみ(国津神)、やおろずのかみ(八百万の神)たち。もろもろ聞こしめせとのる。

ただし、初音ミクが歌う歌詞は1948年に改訳されたもの。現存最古の歌詞では、神殿に糞便を撒くこと、人や死体を傷つけること、近親相姦、水路濫用などが村落でのタブーとされ、共同体に疫病が蔓延しない予防策が歌や踊りとともに取られました。この手法が少数派である王権派が、倭人という多数派の土地のご先祖様を祀って穢れを水に流すことでパニックを収める手法は、さらなる感染流行を防ぐために合理的な政策だったと思います。神へ祈る"祀り"が、社会を安定させる"政り"になっていきました。
その後も、ヤマト王権は、各地に色濃く残る自然崇拝アニミズムの信仰を生かしながら、その土地のご先祖様を神様(国津神)として祀り、反乱を未然に防ぎながら、領土を東日本(D1系統)や九州南部(O1a系統)にまで拡大していきました。地鎮祭もこの頃に始まったとされ、土地の神様に供物を捧げることで土地利用の赦しを請い、工事の安全を祈るものでした。征服統治ではなく国譲りという形式は、中国の朝貢貿易の影響でしょうか、"政り"のための、"奉り"が手段になりました。上棟祭は磐座(いわくら)や森だけだった神社に社殿が建てられるようになった平安時代から実施されるようになります。
限られた日本列島の中で、DNA的には多民族で多くの神話を持つ人たちでゆずり合い、束ねるために、万物には神が宿り、多くの神々に包まれながら生きているという物語が定着し、八十神、八百万神の物語を日本列島へと広げていきました。ただし、その物語の根拠となった神のいる森は、次第に神のいない森へと変化していきました。須恵器製作のメッカだった堺の海辺では、縄文の森である深遠な照葉樹林から、陶磁器製作に必要な木炭の材料となるアカマツに680年ごろまでには変わりました。市街地の森林は原生林である照葉樹はほぼ消失し、人の手で作られた神のいない森になりましたが、八百万の神がいる物語は紡がれていきました。

一方、地中海世界では、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」という言葉に代表されるように、政治から信仰を切り離すという政教分離と、社会の生活規範と個人の精神世界とを切り分ける物語が生まれました。地中海世界では日本列島と同じように多神教の中で為政者を神の一人と同一化させる物語を普及させることで統治や徴税に活用してきましたが、そのような物語を世俗の物語と定義して、それとは異なる一神教の物語も同時に存在でき、精神世界の方がより重要だという概念を発明したのが、イエス・キリストでした。現実的な対策は、やがて多くの人たちに受け入れられていきました。日本でこの政教分離の物語が定着するのは1945年以降になります。

次回は、飛鳥から平安前期の天然痘と大仏をふり返ります

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