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適度な冗長さと簡潔さの弊害

一定の字数を書く場合、あらかじめテーマを明確にし、構成やアウトラインを考えてから書き始めるべきなのだろう。
逆に、曖昧なテーマで、構成やアウトラインなど考えずに書き始めた文章は、字数の多くなるまでに、筆を置くべきかもしれない。

会社でのメールや会議資料の類で、ひどく簡潔にまとめられすぎてわかりづらくなっているものがある。省略された部分を想像したり忖度したり、行間を読んだりするのは、かえって非効率で誤解を生む。
簡潔ではない長文でも、読みやすい文章やわかりやすい文章は多い。
簡潔さだけを単純に追求した文章の書き手は、電話や口頭での説明で補うつもりなのだろうが、書かれたものは「書かれたもの」として単独で残り続ける。口伝とか職人技、一子相伝や師弟関係による伝授などは、およそあってはならない。転職の少なかった時代は、それで成り立っていたのだろうが、逆にそういう「不文律の世界」の陰険さが、離職を促しているのではないか。

コミュニケーション能力という就活ワードよりも、全年齢的に国語力の底上げが、実は企業のコミュニケーション効率を上げるのではないか。
英語学習を奨励する企業も多いけれども、国語力や日本語のメールの書き方、会社文書の作り方などを再教育した方が、実務に直結するのではないか。
話せばわかる、ということは否定しないが、「話す」という一過性の説明ではなく、「書く」という恒常的な情報蓄積が企業の基盤を底上げするはずである。
どこかの国の政府は公文書管理を徹底的に軽視し、議事録さえまともに作る能力がないのはひどい反知性主義に思えてならないが、そういう「書く」文化を軽視する組織体の未来は暗いのではないかと思う。

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