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〈ちょっかいを出す様に〉_上映会振り返り_視聴覚派のシネマ入門(本藤)

「ちょっかい」⇨猫などが(じゃれて)前足をちょっと出して動かし、物をかき寄せる(ようにする)こと。

本藤です

今年の逗子アートフィルム上映会が無事に終了しました。
あまり積極的な広報をしなかったのにも関わらず、満席御礼でございました!本当にありがとうございます!!

コロナを経て改めて〈皆で同時になんか眺める事〉のバイブスというか、ある種の儀式がもっと必要だよなと思っていたので、そんな場所作りの手伝いが出来た事、また作家として作品をお披露目できた事を喜ばしく思います。

これからは静止画か動画かに関わらず、映像(image)について考えているという意味で、〈映像作家〉って名乗っちゃおーって思ってます。

まずは何より、作家である前に私も観客としてオペレータールームからそれぞれの作品を楽しんでいました。

大西さんの音とアニメーションの緻密さに慄き、内海さんの隠喩(最早直喩)の連射に抱腹絶倒し、仲本さんのバチバチに具象なのに抽象的な画に背筋を直させられ、深田さんの繰り返される〈見返す〉ショットに共感し(フィルムの強さも改めて確認)、戦友とも言える宮田さんの制作過程を思い出してエモくなり、山下さんの静/動のグラデーションの滑らかさに感嘆としました。

撮影地が近しいこともあってか、不思議と〈海〉がモチーフとしてそれぞれの作品の中で頻出している事もとても興味深かったですね。
海、私はこの町の生まれなので、それがある事が当たり前すぎて特にこれといった思い入れは無いんですけど、これはきっと雪国の人たちの雪に対する思いと似ているのかもしれません。(逆に私は雪が大好き。いやはや人間ってのは無いものねだりばかりの生き物ですね…)

猫の記憶_或いは日記について


さて、生まれて初めて映画を作ってみた身として、今回の自作についてちょっと振り返ってみたいと思います。

制作は決して楽なものではありませんでした。

このように、写真と似た様な事をしているのにも関わらず、全く身体性が異なっている事に気がついたんです。
今までは前のめりに、見るぞ!見るぞ!と開けた視界と対峙していたんですが、いやはやすんごい見られている!って事をスナップしながらヒシヒシと感じました。
深淵がどうのこうのって誰かの有名な言葉がありますけど正にそうですね。
見る!って欲望はすなわち見られているって事なんだなと改めて痛感しました。

だから、作中では何度も観客に対して真っ直ぐな視線が向けられています。   
また、立ち止まった長めのショットも多く入れました。
そうする事によって幾重にも重なった無意識化の〈視線〉のレイヤーを作りたかったんです。
そして猫が丁度ちょっかいを出して距離感を測る様に、様々なカメラとレンズも使いました。

私はチョンチョンと映像に触れてみたい。

今回写真の個展を開催して、改めて(今までも散々書いて来ましたが)私は「見る事」について興味がある事に気付きました。普段何気なく見ているものが、カメラを通してみると、まるで初めて目の当たりにしたものの様に感じる事があります。
ですから、私は「写真にしてみたらどんな風に見えるんだろう」と思いながら日々写真機を操作しています。

また、カメラを用いた映像表現は、絵画と違って〈偶然性〉が多く舞い込んで来る事が多いです。完璧にコントロールしている!と思いながら撮影していたとしても、〈意図せざるもの〉は映り込んでしまいます。
そここそがが写真や映画の面白さだと私は思います。

視聴覚派のシネマ入門_本藤のノート1



そして突如発生した〈猫の脱走〉という事件で環境がガラッと変わりました。
早朝と深夜に仕掛けたトレイルカメラと罠を確認する日々です。

基本的に私はイメージを眼差して欲しいので、今まで極力作品から〈物語〉を排除して来たのですが、撮影したトレイルカメラのデータを眺めながら〈これいけんじゃね?〉と電流が走りました。

映画には〈時間〉が発生しますから、間が保つという言葉は適切では無いかもしれませんが、それでも〈猫の捜索劇〉というささやかな物語で串刺しにしてみたところ、これが結構ストンとハマったんです。
いやー映画って本当に懐が深いですね。異物をドカンと放り込んだつもりでも、案外破綻しなかったりします。
やろうと思えばいくらでも何でも出来てしまう、恐ろしいメディアだと思います笑

記録する事 と 嘘_痕跡

また、私は記録する事に取り憑かれているタイプの作家なのですが、同時に救いようの無い天邪鬼なので嘘や肩透かしをどうしても入れたくなります。

映像はいつだって〈証拠〉として極めて強い力を持っていますが、それと同時にいくらでも嘘をつくことが出来るメディアだと思っています。
だから、上の小作品では長回しをしながら通話をするフリをしてはぐらかして遊んでいます。
映像はどこまでいってもそれ〈らしさ〉の気配しか描けないと思っています。私はその揺らぐ〈らしさ〉〈っぽさ〉の事が大好きです。
また、例えそれが嘘だとしても、カメラの前では等しく光と音の痕跡として飲み込まれてしまうのも良いですよね。

さて、これからどこへ

ライフワークとしての日記映画は作り続けていくべきだとは思いますが、一度腰を据えて大きな(?)作品作りにも挑まなきゃならないなと思っています。
それが劇映画なのかドキュメンタリーなのか、はたまた実験の極北なのかわかりませんが、偶然を求めて街を彷徨うだけではなく、一つのプロジェクトとして何かを動かしたいと目論んでいます。

もし、そんな作品ができたらまた見に来ていただけたら幸いです。

駆け足でしたが、私なりの振り返りでした。

2022.10.10 本藤


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