【自律】は他人を容れないという意味ではない.ミシェル・フーコーは適切に利用されているか?
久々のNOTE更新であります。
ブログにおいて『データ管理は私たちを幸福にするか?』を紹介しました。
その中で、第五章のミシェル・フーコーについての別様の解釈があるという話をしました。
ブログで紹介するには量が多くなってしまうし、私は本の中身を全て説明するのは出版社や著者にとって大きな損害を与えるものだと思っているので、そんなことはいたしません。
しかしながら、この解釈の仕方は、フーコー=監視社会はダメ、といった通俗的なものと異なるので、NOTEでちょっと紹介しておきたいなと思い筆を執りました。
少しでも文芸誌等を読んでいると、何かある度にフーコーの名前を目にします。
もうしつこいぐらいです。
とりあえず、「フーコーは次のようにいっている」といえば、全ての問題に説明がつくかのようです。
現在、ネット上で問題視されているキャンセル・カルチャーなどの加害性だとか暴力性だとかそういう話もフーコーを絡めて語られることが多い。
フーコー自体は政治権力などによる監視や権力を必ずしも悪とは考えていなかったようです。
それがこの本の第五章の中身です。
みてみましょう。
※引用の太字は全てズンダが行った。
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