教育とは何ぞという話
ここ最近子どもの仕事をしているけれども、何が正しいことなのか全然わからない。
おとなの悩み
支援する大人の価値観も全然違うし、子供の価値観も、個性も、特性も、性格も全部バラバラ。たくさんの子どもたちと一緒に1つの場所で過ごしていて、何が大切なのだろうって言うことを最近よく考えさせられる。
人によっては、ルールを守ることをすごく大切にする人もいる。私の勤務先は障害児向けの施設なのだが、特にこの分野ではリスクの予測がとても大切で、故に危ないことをしそうなときや、おもちゃを壊しそうなとき、人に迷惑をかけそうなときを予感すると、大人の子どもへの警戒心がどんどん強くなってしまうものだ。危険を全力で止めようと言う気持ちが前に出た結果、とても抑圧的になったり、ときには威圧的になったりもしてしまう。
だけど、大人側としてはそれは決して悪いことをしていると言うわけではないのだ。他人に危害が及ばないように止めているだけ、なのだから。
でもなんか違うような気がする
だけれども、結局その光景は果たして教育の真の姿と言えるのだろうか。子どものいる場所は、本来、温かくて楽しく活気のある場所ではないのか。
これは完全に私の価値観なのであるが、子どもたちにはもっとのびのびとした環境ですくすく育ってほしい。自分自身が経験してきたことだが、学校では子供の個性と言うよりは集団主義が優先される。障害児の現場は、集団行動がそもそも苦手な子が多い。その中で、学校や家庭でルールを守ることや正しく振る舞うことを、何度も何度も繰り返し注意されたり、聞かされたりしているんじゃないか。もちろん大切なことなのだが、そのような毎日の中で生きる意味、余暇活動などを通して感じる喜び、自己肯定感など感じにくくなっているのではないだろうか。
だからこそ、彼らがすくすくと育つ環境をつくると言うのはなかなか実は難しいのだ。のびのび過ごすというのは最近の通常級に通っている子どもたちですら叶わないことが多いかもしれないが、障害児の場合はもっと環境を選ぶことが難しい。自分の意思を言葉で伝えることができないし、例えばお腹が痛くなっても、何も言うことができなかったりする。
自分が思ったことをうまく伝えられない中で、大人や社会からたくさんのことを要求される。彼らが自由に振る舞える空間など、とても限られていると思うのだ。だからこそ、自分の働いている施設ではせめてのびのびと過ごして欲しいな、と私は思っているのだが、どうしても支援者側が子供たちを良い方向に導こうと躍起になればなるほど、なぜか悪循環に陥ってしまうことがある。
悪循環の中にいる子どもたち
悪循環にはまっていくうちに1番困るのは子どもの方だ。子どもはやがて自信をなくし、「自分なんか」と思うようになる。感覚が繊細な子にとっては、そうした自分への否定的な価値観がどんどんどんどん歪みを生じて人を関係性を築きづらくなったり、変に自信をなくしてしまって落ち込みやすくなったりすることもあるだろう。そんな気持ちをうまく表現できない子は、自分の頭を強く叩きつづける、噛みつくなどの強度行動障害に発展することもしばしば。そういう状況を見ていると話して教育とは何なのだろうと思ってしまう。
例えば、泥遊びが好きな子がいるとする。普通の大人だったら、まずは汚れてもいい服に着替えてからと段階を踏むこともできるだろう。だが、障害児の場合はなかなかそんな準備もできない。目に入った時が自分のタイミングなのである。その流れを止めてしまうと、彼らはなぜ止められたのか?と理解することも難しく、癇癪に発展することもある。服が汚れるから、靴が汚れるから、砂が目や口に入るから、予想できない行動を取られたら困るから、大人たちは自分にブレーキをかけて子どもの行動を全力で止めようとするのだが、私はそういう場面にもし出会ったら子供が最低限危なくないように見守りながら砂遊びを応援する。この感覚は意外と自分の同僚とも共有しづらいところでもある。物事をどう見ても解釈するかは人の価値観によるところなので、同僚全員とその感覚を共有するのはいささか難しい。
とどのつまり
子どもがいきいき過ごすこととは?という興味からスウェーデンの福祉に関する本をよく読むようになったが、スウェーデンでは自己決定権をとても尊重している文化のようだ。それを知ると、日本でもそんな価値観が増えればいいのにと妄想してしまう。
子どもを教育する大人が、日本の集団主義的な行動、教育システムの中で育ってきたのだから、個性をのびのびと育てると言う感覚をもつことはなかなか難しいのかもしれないが、自分は自分の思った通りに進んで、最終的には子どもにありがとうと言ってもらえたらそれだけで充分なのかもしれない。
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