人間失格 読了。
昨日、太宰治の「人間失格」を読んだ。
私が特に印象に残ったのは、何度も出てくる「道化」という言葉
主人公は、自分以外の人間は何を考えているのかわからない。
むしろ自分自身のことも?
自我を出すことなくいつも「おどけて(お道化て)」本心は全然楽しくないのに笑ってみたり、明るいひょうきんモノを演じていた。
・・・
世の中みんな、人間って少なからず演じて生きているなあと改めて感じた。
思っていなくても相手の行動を表では称賛してみたり、楽しくないのに楽しそうにしなきゃ!と笑ってみたり
というか、「思っていなくても」とか「楽しくないのに」っていうのが本心かも分からないレベルで息をするように演じてる人も沢山いるはず
自分の気持ちってそう簡単にコントロールできない
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い
でもその好き嫌いとか、ときめきやひらめきって、自分の過去の経験が積み重なった結果で出てくるものもあるけど、自分でもよく分からないうちに思いついてたり、
結局なんか、思考も行動も、どんなに自分のことを知っていようとも、理解し難い部分がたくさんあって、
心や脳よりももっと微細な、細胞レベルで成り立っていることがたくさんあるなと感じます。
ブルゾンちえみの「細胞レベルで恋してる?」って、初めて聴いた時は、は?って思ったけど、恋愛も結局そういうレベルで成り立っていくというか、結局人間も一種の立派な「動物」であるなと当たり前だけど思った。
研究が進歩して、ホルモンの分泌によってこういう気持ちになるよ、とかいうけど、「じゃあこのホルモンを分泌しよう!」とか言ってできるもんじゃないし、自分を構成する細胞に自分の人間としての生活を支配されているような気さえした。
そう考えると、恋愛や結婚も世の中の動きも、全てに必然性を感じた。良いのか悪いのか
けれど人間は会話ができる。自分という個体の思考が細胞レベルで支配されているとしても、他人と意見を交わすことで違う人体の細胞と会話をして、刺激し合うことができると考えたら人間って得だと思います。
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太宰治は、感性が豊かすぎて苦しんでしまったのかなあ。
これを読んで人間が生きることについて悶々と考えさせられました。
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