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生きることは私に与えられた権利/041

スイスといえば、自然豊かで平和な国。
だけど、日本と違うのは、自ら天国への道を選べる国でもある。

ついさっき、安楽死についての動画を見た。
世界でも、10カ国ほどの国で安楽死が認められている。スイスもそのひとつなのだ。

生きる道を選ぶのか、死を選ぶのか。人間だから選ぶことができる。生きるとは、どういうことなのか考えさせられるニュースでもあった。

なぜ、私は「安楽死」という言葉が気になったのか考えてみた。

それは、母だった。

祖父は他界したが、母は、首から下が動かなくなった祖父の看病を何年も行ってきた。それを横目で見てきた私。

私も、祖父の入院していた病院に会いに行ったり、洋服を届けたりはしたけれど、働きながら看病していた母の気持ちを思うと、それはそれは大変な日々だったと思う。

祖父は大怪我をして首からしたが動かなくなった体でも、笑顔で孫の私を迎えてくれたことを今でも覚えている。農家の人間で、大酒飲み、大盤振る舞いする人間だったけれど、孫にはいつも笑顔を見せてくれた。

今では母と「あの時、大変だったね」と言えるけれど、世の中には大病で痛みや苦痛と戦う人が多くいると思うと、心がちくっと痛くなる。

私は大した病気はしたことがない。だけど、痛みというものは、痛くなった本人にしか痛みの強度は分からないものだ。

精神的な苦痛も同じだと思う。

安楽死=自ら命を断つ

医療の発達で、生きることが可能になった人々も多くいる。助かる命も多くくなった。その一方で助かっても苦しみながら生きている人もいるのだと知った。

人間とは不思議な生き物で、自分よりも辛い人を見ていると「自分の苦痛なんて大したことない、かすり傷よりも痛くない」とさえ思えてくる。

五体満足に生まれてきて、
健康に生まれてきた息子もいる。
優しい夫もいる。
住む家もある。
働く場所もある。
毎日食べるものもあって、
快適に寝られる場所もある。

何に不満があるのだろうか・・・とさえ思えてくる。
でも、人間はエゴで生きている。

生きている以上、自分に起こっていない
出来事に対して感情的になったり、
痛みを感じることを選ぶ必要はない。

私は、生きている以上
幸せに生きることが
生まれてきた使命なんだと信じたい。

スイスの自殺ほう助団体「ライフサークル」の女性が、
安楽死を望む40代のフランス人男性にこう言った。

「痛みを和らげる治療があれば、あなたに治療をしてあげたい。でも、これ以上良くなる治療法がないの」

すると、彼はこう答えた。
「安楽死することが、私にとっての最高の治療法なんだよ」

彼にとっては、体に刺すような激痛やチクチクと刺されるような不快な痛みとお別れできることが最高の治療だということなのだろう。

フランスでは安楽死が認められていない。
そのため、スイスに来て安楽死を実行したのだ。

もしも、自分が同じような立場になっていたら
どう考えるか。

痛みのある世界でも、
懸命に生きたいと思えるのか。

今はその状況にいないから
分からない。

でも、安易に死を選択することは、避けたい。

私は必死に、今ある命でできる限りのことをしたいと思った。

多くの人と関わり、もっと広い世の中をこの目で見てみたい。会いたい人に会いに行きたい。もっと自分のやりたいことを深掘りして、やりたいことリストを作って、行動に移して行きたい。

私に死が訪れたときに後悔しないように、まずは、滞在意識で何をやりたいと思っているのかに気づき、可視化してアクション(行動)へ導く。

私の人生の主役は私自身。
主役が幸せになれる台本は自分で考えるべき。

他人が書いた台本が気に入らなければ、自分で書き直せばいい。そのくらいの気持ちで生きていこうと、このブログを書きながら思った。

生きることは、幸せになる権利を得たということ。
人間も、動物も、平等に1日24時間与えられている。

地球上の生き物には同じだけの時間が与えられている。

それを長いか短いのかと感じるのは、自分次第。

今日も幸せに過ごせたなと思えるように
日々、健康に生きていることへ感謝しながら命の寿命が来る日まで
後悔しないように生きていこう。

更新チャレンジ40日目


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