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自己紹介☻

2023/12/27 更新
しばらくnoteを書いていなかったのですが、30歳になったことを記念して書いてみようと思います。私が自己紹介をする理由は、自分にとって一番の「自己分析」になると思ったからです。

これまでの経験やお仕事、プライベート、学びの蓄積などを整理したいと思います。


①簡単な自己紹介

名前:しょうこ

人の話をきくこと、関わること、つなげること、学びあうこと、きっかけづくりが好きです。
「自分らしさ」を大切に伴走し、応援できることに喜びを感じます。
不登校や教員を経験し、学校への違和感から、学校が開き地域の中で大人、子ども関係なく世代をこえてつながりあえるような地域づくり、コミュニティづくりや自分自身が感じてきた生きにくさから、孤独感や生きにくさを抱える方に伴走をしたいと思っています。
目指すのは、「一人一人が自分らしく生きられ、やさしくつながりあう社会」です。

自分を表すキーワード:自分らしさ、対話、伴走、子ども・若者、旅、学び、つながり、きっかけづくり、不登校、生きにくさ

好き:ヨガ、散歩、人の話を聞く事、学ぶこと、旅、読書、いろんな人に会うこと、新しいことをする、社会科、寝ること

得意:社会科、人の話を聞く事、やりたいと思ったら行動すること、応援すること、つながりづくり、影でサポートすること、どうしたら実現できるか考えること

苦手:数学、同じ集団にずっといること、会計、事務、レバー、人が多いところ

経験:・山奥での暮らし(小学生)
   ・不登校、摂食障害、メンタルヘルス(高校時代)
   ・東日本大震災ボランティア(大学時代)
   ・東南アジアバックパッカー(大学時代)
   ・学生団体立ち上げ(大学時代)
   ・映画上映会などのイベントと海外ツアーの企画・運営(大学時代)
   ・47都道府県制覇(29歳)
   ・教員(荒れた学校、多文化共生の学校)
   ・NPO職員(現在)
   ・通信制高校職員、塾などの講師(現在)

学んできたこと: ・高校は普通科、大学は人文学部
         ・教員養成課程受講
         ・社会科、教育
         ・ファシリテーション、カウン
          セリングなど対話
         ・NGO.NPO養成講座修了
         ・地域づくり、まちづくり
         ・福祉、心理学、キャリア
         ・子どもアドボカシー

資格:・教員免許(中学社会、高校地歴、高校公民)
   ・公認心理師
   ・FP3級
   ・両立支援コーディネーター
   ・子どもアドボケイト
              (基礎講座~実践講座まで受講済み)
   ・国家資格キャリアコンサルタント合格
   ・象使い師(ラオスで取得)笑
   ・河童捕獲士(岩手で取得)笑

仕事:・中学社会科教員(6年間経験)
    1~3年担任、副担任、行事運営主担当、生徒会主顧問、部活動、
    教科主任、研究推進など
   ・教育NPOの業務委託(1年半経験)
    中高生のオンライン伴走、チームマネジメント、相談業務
   ・地域づくりのNPO職員(現在2年目)
    イベント企画・運営、場づくり、研修企画・運営・コーディネー 
    ト、会計、広報、資金調達、商品販売など
   ・通信制高校職員、講師2校(現在2年目)
    塾指導、生徒とイベント企画・運営、保護者・生徒面談、カウンセ
    リング、授業、レポート添削、個別対応など
   ・子どもアドボケイト(現在1年目)
    子どもの権利普及、施設訪問、子ども会議・子ども条例づくりのフ
    ァシリテーター・運営など
   ・全国フォーラム運営などそのほか業務委託

②幼少期~高校時代

幼少期

幼少期は人見知りでした、おしゃれが好きでませていたと思います。
ズボンが嫌いで、スカートばかりはいていました。
保育園の年長のときに父の転勤で山奥での暮らしがはじまりました。
両親ともに教員(母は当時専業主婦)ですが、父は僻地の小学校の先生として勤務することになり、家族揃ってお引越ししました。
父が勤務する小学校に私も入学することになりました。全校生徒8人の小さな学校です。
父は親なのか先生なのかよくわからない関係性になり、あまり喋れなくなりましたが、現在にも微妙に気まずい関係が続いています。笑
のちに廃校となり、私は最後の入学生となりました。

山奥の小学校での経験は私にとってとてもありがたいものでした。
同じ学年の友達はおらず、年上ばかり。クラスは複式学級でした。
遊ぶときには全校みんなで遊びました。児童よりも先生の方が多い学校で、のんびりたのしく過ごすことができました。
地域のみなさんとのつながりも深く、授業の中で山菜をとり天ぷらにして食べたり、茶摘み、しいたけづくり、こんにゃくづくり、バードウォッチ、川で水泳、炭作りをしたり、地域みんなで運動会をしたりしました。
学校外でも、作っている卵や野菜などいろんなものを地域の方からいただきました。
山を下って他校との交流などもでき、貴重な経験がたくさんできました。
今思えば、地域に関心をもったのはこの時の経験が大きかったかもしれません。

小3のときに地元に戻りました。
私が去って1年後、山の奥の小学校は廃校となりました。(最後に犬が入学してテレビにでていました笑)
戻った先は、祖父祖母との同居となり家庭内がとてもつらかったです。
母に対する祖母、祖父のかかわり方はひどいもので、味噌汁が薄いだの、子どもの育て方が悪いだの、いつも悪口ばかり。父は見て見ぬふりでした。
自分の部屋にいても下から祖父祖母が母に対する悪口をいっている声が聞こえてきますし、喧嘩も多く、家にいることはしんどかったです。
挙句の果てには「おまえが生まれなければお母さんと結婚することもなかったのに」と言われた時には、怒りがこみ上げすぎて、言葉にならない思いでした。
この家庭環境が大きく私の暗い部分の心を形成していった気がします。

転校した学校は30人以上のクラスで、人数の多さに驚き、友達の作り方がわからず悩むこともありましたが、元々保育園からの友達がいたことから少しずつなじむことができました。
友達とも遊び、それなりに恋もして、比較的楽しい生活だったかなと思います。

小学校の自分は、今では意外ですが、応援団員や学級委員をやるなど、リーダーをまかされるタイプでした。

中学時代

入学した地元の中学は荒れていました。
朝行くと学校の壁に落書き、ガムを噛んだゴミがそこら中に落ちている、警察や救急車が頻繁にくる、窓ガラスがよく割れる、集会をすると爆竹、校庭で殴り合い、授業はでず校庭でバスケ、ゲームを持ってきてみんなでやる、、まさに荒れている学校でした。笑

先生たちは次々と休職され、いつも疲れた表情で、生徒や親からも罵声を毎日のように浴びせられていました。
そんな姿を見ていたので、教員には絶対にならないと固く誓ったことをよく覚えています。

人間関係は、いわゆるカーストのようなものがあり、クラス内でもめて体育館裏に呼び出されたこともありましたし、先輩は絶対的な存在で目をつけられないように生活していました。
ですが、私にとって中学時代はとても楽しかったです!
校則はあってないようなもので自由でしたし、部活はバドミントン部でしたが仲間もいたし、友達や彼氏と遊ぶのも楽しくて。
ただ、気分の波や集団に合わせることが苦手だなあ、自分への自信のなさと感じることはたくさんありました。

基本的に真面目だったので、成績はどんどん上がり、周りからは頭いいねーと。ですが、私は天才型ではなく努力しないとできないので、コツコツ勉強していました。自分の目標や計画をこなさないとだめだと追い込み始めたのが中学かもしれません。
完璧主義なところが自分を苦しめる要因でもありました。
次第に勉強できてなきゃ私は価値がないんだと思うようにもなりました。

中学ではじめて彼氏ができましたが、自分にとにかく自信がなかったので、可愛いと思われたくて、やせるしかないと思い、10キロほど体重を落としました。
食べることが怖くなり、運動しまくり、毎日レコーディング、体重測定でした。
周りからは太りなよ、ガリガリだからおかしいよといわれましたが、自分では全く思わず、むしろやせていくことが快感で自信につながりました。
生理が止まり、体調もよくなかったですが。産婦人科にも通いました。
便秘になり下剤を飲みつづけていました。
今から振り返ると拒食だったなとおもいます。 

家庭環境も小学校と変わらずつらいことが多かったです。 

高校時代

進学先は地域で2番目の進学校で、1番に勝てるわけがないのですが、追い越せという風潮のある学校でした。
当時校則がとても厳しく、謎のワード「高校生らしさ」を求められるようなところでした。

人生で一番の暗黒時代といえると思っています。笑

部活は小学校から続けているバドミントン部に所属。
部活の仲間には恵まれました。クラス内では仲の良い友人が数人といったところでしょうか。

高1の6月ごろから、学校にいきたくない、なにもやりたくないという思いが大きくなっていきました。
中学が自由すぎたのもあるかもしれませんが、先生方からの服装チェックの厳しさ(毎日校門で確認されます)、男女で一緒に帰ることはよくない、などいろいろと理由がわからない理不尽なルールを押し付けられ、反発しては呼び出され反省文を書かされる日々です。
その上、朝から晩まで授業や部活が続き、通学時間も1時間と長く、周りは当たり前にやっていることかもしれませんが、とても辛くなっていきました。
ですが、できていない自分がいやなので、テストは必ず合格しなきゃ、いい点とらなきゃ、という自分を苦しめる思考で、追い込んでいきました。

同時に、過食がスタートします。
中学の頃はダイエットのしすぎで、やせることへのこだわりが強く、絶対に太りたくなかった自分がいきなり過食スイッチへと切り替わり、食べずにはいられなくなっていきます。
コンビニやスーパーでお菓子や菓子パンを買いだめし、食べまくる日々。
同じ場所に行くと不振がられるため、違うお店をはしごして大量の食べ物を購入し、人に隠れてたべます。
私は吐くことができなかったため、信じられないスピードで太っていきました。15キロ以上は太り、人に会いたくなくなり、学校もいきたくなくなり…。でも「やせなきゃ、こんな醜いのは自分ではない」、その思いがストレスになりまた過食するという負のスパイラルをぐるぐるとしていました。
気分は最悪です。何度も死にたいと思いました。

1年から2年にかけては部活があったからか、週に1回休む程度でなんとか学校にいけましたが、3年生になってさらに休むようになりました。
特に受験前は3、4ヶ月学校にいかず、家に引きこもり、ただ食べ続けるようなそんな生活です。
イライラを家族やものにぶつけ、家の壁に穴をあけたり、泣き叫んだりと、ひどい生活でした。

中学時代から付き合っていた彼氏は、他地域に進学し、寮生活のためなかなか会えなくなってしまいました。その上太り始めたことで会いたくなくなり、結果高1の夏頃には別れることになりました。

大学受験は、休んでいようがプライドがあったのと比較的成績がなぜかよかったので志望校に推薦入試をしたのですが、落ちました。
今思うと当然の結果だと思いますが、それもまた傷つき、勉強に手がつけられなくなり、センター試験直前は全く勉強できませんでした。もちろん点数はとれず、志望校とは違う大学に進学することになりました。

③大学時代

希望する大学には行けませんでしたが、念願の一人暮らしになりました。
社会科が大好きだったのと、教育学部は嫌だったので、人文学部に進学しました。各地域ごとに分かれ地域の地理、歴史、言語、宗教、など多様な学びができる学科でした。
両親に教員免許は一応とれといわれしぶしぶ教員養成課程もうけることにし、中学社会科、高校地歴、公民の免許を取得しました。
人文学部は何をしているのかよくわからない、なんの意味があるのか?とよく言われますが、私にとってはぴったりの学びができる学部で選択して大正解でした!

ボランティア、サークル活動、様々なアルバイト、旅、団体設立、イベント実施、ゼミなどいろんなことを経験でき、たくさんの人に出会い、とても充実した日々を送らせていただきました。
そして、人生で最大に遊びました。
授業はさぼり、ぎりぎりを極めていましたが、なんとか単位をすべて取り終え卒業することができました。笑

大学時代にいろんな経験や挑戦ができたこと、いろんな人と出会えたことが私自身にとって少しの自信となり、やりたいことが広がってきたように感じます。

東日本大震災のボランティア

大学2年生の時に、東日本大震災のボランティアに行ったことが人生の転機になりました。
当時、遊びはしているけれど、そもそも私は何がやりたくて大学に来たのか、今後なにをしていきたいのかともやもや悩んでいました。
周りの友人たちはサークル活動に打ち込んだり、留学に向けて動き出したりしている中、私は何もしていなかったから焦りも感じていました。

ふとネットで調べていると、私の地元から東北にバスがでていて、参加者のみなさんとボランティアに行く機会があると知りました。
暗黒の高校時代に東日本大震災があり、こんな状況で、私はなにをしているんだろうと深く考えたことがあり、そのときのことを思い出しながら、「よし、行ってみよう」と決めました。
考えてみると初めての一人での旅、初めての大きな決断だったのかもしれません。私にとってはかなり勇気のいる挑戦でした。

2泊3日(バスで2泊)の東北への旅では、たくさんの人に出会いました。
ボランティアの方、仮設住宅の住民の方、現地でなんとかしようと動いている方。
現地の方からとても心が苦しくなるお話も聞かせていただきました。

「社会に対してなにができるんだろう」と考え始めるきっかけになりました。
そして、ボランティアを通して多様な方と出会えること、人とつながりあうことに喜びを感じました。

次は、海外にいってみよう、そう思うようになりました。

学生団体設立

意味のわからない理由ですが、大学2年生のある日、カンボジアに行った夢をみました。東北に行った時から「次は海外でボランティアをしてみたい」と思っていたので、せっかく夢に出てきたし、カンボジアにいってみようと思い立ちました。

私にとっては、はじめての海外。カンボジアの村でホームステイし、小学校で日本語を子どもたちに教えるというボランティアツアーに参加しました。
現地の空港に集合し、10名程の参加者と共同生活、活動をするという私にとってはドキドキの挑戦でした。

カンボジアでは、全国の大学生に出会えたこと、カンボジアの現地の素敵な先生たち、村の人、たくさんの子どもたちと出会い、とても素敵な経験ができました。
はじめて電気もガスもない暮らしを体験し、お風呂は水浴びをし、布団の中には蟻が入ってくるし、水は簡単に飲めないし、トイレは近くにないし・・。今まで経験したことのない環境でした。

村の学校では、一緒に校庭で大繩をしたり、ボール遊びをしたり、おにごっこやかくれんぼをしたり、一緒に学んだり、授業をしたりしました。
子どもたちのキラキラした目は忘れられません。また、将来の夢の話をきいていたときに「学校の先生」「お医者さん」以外を聴くことはありませんでした。きっといろんな人との出会いや学びがもっと広がれば、いろんな選択肢が広がっていくだろうに、とも思いました。

この村の子どもたちは小学校まで通えるかどうかという現状。農業などで生計をたてていく必要があります。
親たちも、教育をあまり受けてきていないため、学校で学ぶ、教育を受ける大切さを感じていないですし、生活の実態として、一日一日をどう生きていくかという状況の中、働き手として、人手として、子どもたちを必要としています。
カンボジアはポルポト政権が知識人(教育関係の多くは虐殺、眼鏡をかねていただけでです)を大量に虐殺したため、教育の土台があまりないという背景があります。
国の根幹は教育なんだとカンボジアに行って感じ、教育の大切さを学びました。
カンボジアの子どもたちは鉛筆が本当に小さくなるまで使い、教える先生も少なく、学べることも日本に比べると少なく、いろんな環境が整っていない中でも、学校で学ぶことの楽しさを感じているようでした。問いかけるとみんなが手を上げ、前のめりに目をキラキラさせながら学ぶこどもたちの姿は忘れることができません。

一方で、日本の教育の現状はどうなんだろうという疑問が湧いてきました。私自身はあまり好きではなかった学校の仕組み。違和感を感じていたことも同時に思い出しました。
カンボジアをきっかけに教育についてもっと知りたくなりました。

日本に帰ってきてから、何か日本でできることをしたいと思うようになりました。
カンボジアと出会って、いろんな人との出会いが広がったことから、日本とカンボジアがもっとつながり合えたらいいなあと思い始めましたし、教育に関わって何かできないかと思いました。

私の大学には多くの国の留学生がきていましたが、カンボジアからは一人も来ていませんでした。
何かカンボジアとのつながりをもつきっかけはないかと、いろいろと探し、カンボジアに関わるイベントに参加したり、人に会いに行ったりしました。

その中で出会ったのは、同じ県内にあったある大学のカンボジアに関わる学生団体でした。当時全国に支部があり、全国的な規模のある団体であり、同じ県にもあるんだ!と感動し、すぐにメッセージを送りました。
そこから代表の方と一度会うことになり、お話して団体に加入することになり、私の大学内でも団体を設立しようと決めました。

今までにない自分自身の謎の行動力に、自分が一番驚いたことをよく覚えています。やりたいと思ったら動けるんだ!と思ってからがどんどん進んでいきました。

カンボジアに小学校を設立して何十年もカンボジアに関わり続けてみえるとある会社の社長さんに連絡し、会社を訪問してつながりをつくり、そこからカンボジアの留学生がたくさんいる大学とつなげてくださったことで、学生同士の交流が生まれました。

学内で団体のメンバーを募集しようと、チラシを作成し、SNSをはじめ、興味を持ってくれた人には一人一人会いに行き、20人ほどのメンバーが集まりました。

カンボジアへの支援(ものを送る、フェアトレード等)、交流(カンボジアの学生、関わる人とのつながりづくり)、企画(イベント、ホームステイ受け入れ)など活動内容を考え、分担しながら進めていきました。

カンボジアに行くツアーを企画して、カンボジアの学生とつながったり、社長の小学校を訪問したり、日本の歯医者さんと歯科健診や歯磨き指導のボランティアをしたり、カンボジアからのホームステイを受け入れたり、学祭でカンボジアのフェアトレード商品を販売したり、勉強会を開いたり、文房具を集めてカンボジアの学校にもっていったり、カンボジアを知ってもらえるようなイベントを企画したり、さまざまな活動を広げていきました。

何より、この活動をきっかけに、私の大学と、カンボジアの大学が提携を結び、カンボジアからの留学生を受け入れることになったことは大きな成果となりました。

学生最後には、カンボジアの小学校で運動会をカンボジアの学生と協働で企画し実施できたことも大きな財産になりました。

この活動を通して、たくさんの方に出会えたこと、貴重な経験をできたことはとてもうれしかったですし、自分の狭い視野や世界が少し広がっていった気がしました。

これまでうまくいったことをお話しましたが、自分自身の課題も感じました。
仲間を集めても、自分の思いは熱いけれど、メンバーの思いにはグラデーションがあります。そのことを理解せず、自分本位に考えてしまったこともあったと思いますし、離れていった仲間もいました。今振り返ると私のやり方がよくなかったと反省しています。
コミュニティ運営について知りたくなったきっかけにもなりました。

学生団体はどこもこの課題があると思いますが、私が卒業してから3年後には団体はなくなってしまいました。
NPOなども同じだと思いますが、設立者がいるときはよくても、その想いをどのようにつないでいくのかは大きな課題だと感じました。

またカンボジア以外にも、東南アジアバックパッカーをしたり、フィリピンのゴミ山の映画「神の子たち」を見たことをきっかけに監督とつながり、映画の上映会をしたり、フィリピンツアーを企画実施したりもしました。

アルバイト

和食さとホール、イタリアンホール、家庭教師、コンビニ朝勤、定食屋、スナック、学童、大学の事務、とにかくたくさんのアルバイトをしました。
いろんなことをやってみるにはアルバイトはとても良いと思ったので、一つに絞らず掛け持ちしながらやっていました。
一つのアルバイト先から声をお客さんやバイト仲間に声をかけてもらったり、たまたまいったお店で店長に声をかけてもらったりと、気づいたらいろんなバイトをしていました。(まさに偶発性理論!)
どれもお客さんと仲良くなったり、こどもたちとかかわったり、いろんな職業の人の話をきけたり、経験してよかったことばかりです。

はじめのうちは、高校まで家の家事もなにもやっていない状況だったので、周りを見て動くこと、臨機応変に動く事、仕事の優先順位を考えること、接客をすることなどが全然できず、店長に怒鳴られてばかりいました。当時はなんでこんなに怒鳴られきゃいけないんだとおちこんでいましたが、今となっては本当にありがたかったと思っています。
社会人になる前にやっておいてよかったです。
大変な人間関係もありましたが、年齢を越えていろんな方と知り合い仲良くなれたこともとてもよかったです。

就職活動

大学4年生になり、卒業後をどうしようか真剣に悩みました。
私の学部では、基本的には企業(営業などが多い)、公務員が多いです。
教員になる人はほとんどいません。
カンボジアに行ったことをきっかけに教育には興味をもつようになり、様々な場所で教育に関わる方とお話したり、研修に参加したり、模擬授業をするサークルに入ったり、学校ボランティアに行ったりするようになりました。
大学四年生の時に教育実習にいきとても楽しかったので、教員採用試験を受けようと決めました。
同時に就職活動もしており、第一希望の企業はお祈りメールをいただきましたが、第二希望は無事内定をいただき、研修やインターン、内定式(ディズニーで開催)に参加し、同期とも仲良くなりました。
そんな中10月に教員採用試験の合格もいただき、悩んだ結果、まずは教員をやってみようと決めました。
日本の公教育を知りたい、社会科を一緒に学びたい、学校が苦手な子に寄り添いたい、などの理由からです。

教員採用試験、就活どちらも経験できたことは、教員になったときにもいきるとおもっていましたし、今になって本当によかったと思っています。

④教員時代

新卒から教員となり、中学2校、どちらも1000人規模の大規模校を経験しました。
規模はちがいますが、学校の雰囲気は全く違って、それもまたよい経験でした。

1校目:荒れた学校

衝撃的でした。毎日空き時間はなく、授業に出ない子たちを追いかけっこ。プールに飛び込まないようにプールの門番。屋根に登った生徒から唾を落とされる。毎日しねきもいという言葉。ルールはあってないようなもの。
荒れている状況の一年目を過ごしました。毎日辞めたいと思っていました。

それよりも2.3年目がしんどくて。
校長がかわり、体育会系のトップダウン組織となり、軍隊のような学校へ。
怒鳴られないように動く、教員同士も監視し合う、殺伐とした学校になりました。
みんながこの学校がいやだと影でいっていました。
理不尽なことが多く、なぜ生徒に怒鳴るのかもわからず、疑問や怒りがわいてばかりいました。

だからといって私は何かできるわけではなく、周りの目を気にしたり怒鳴られないように動く自分がいました。
学級もうまくいかず、崩壊寸前でした。

ですが、生徒会の活動で校則をかえたり、アクションを起こしたり、生徒と一緒に小さくても行動しようと取り組むことができました。
また社会科を研究し、授業がたのしい、わかりやすいという声をたくさんいただきました。

辛いこともたくさんあり、毎日吐きそうになりながら学校にいっていましたが、この環境に耐え、やりぬくことができたことは自信になりましたし、いまの活動の原動力になりました。

2校目:多文化共生の学校

1校目だけでやめちゃだめだとなんとか続けて2校目。
全く違う学校でした。
怒鳴られないし、やっていることに納得ができるし、生徒一人一人、教員同士も大切にし合っていました。
教員の関わり方、雰囲気が生徒の雰囲気、学校を作っていくんだなと思いました。

外国籍の子が四割以上の学校で、違うことが当たり前で一人一人を尊重できる学校でした。

学級は生徒に助けられ、1校目よりおだやかに暖かく関わることができ、楽しいことをやろうと生徒と一緒にいろんな遊びや挑戦をして、かけがえのない日々をすごさせていただきました。

教員を辞めた理由

辞めた理由はこちらのノートに詳細を書きました。

教員はやめましたが、本当にやってよかったと心から思っています。
今の活動の原動力になっているし、学んだこと、得たことがたくさんあって、私の財産になっています。
教員をするという選択をあのときしていなければ今の自分はいなかったともいますし、たくさんの生徒と出会えなかったと思います。
楽しい社会科の授業もできて、ほんと授業たのしそうだねとよくいわれるくらい、授業はすきでした。

今でも生徒との関わりは続いていますし、たくさんの思い出、もらった言葉、プレゼント、大切に大切にとってあります。
かけがえのない出会いをいただきました。

⑤現在のお仕事

教員を辞めてからお仕事については上記の記事に書いています。
研修やイベントを企画したり、一対一で対話したり、人と人がつながり合うきっかけづくりがすきです。

・地域づくりのNPO職員(現在2年目)
・通信制高校職員、講師2校(現在2年目)
・子どもアドボケイト(現在1年目)
・そのほか業務委託

さまざまな仕事をして複業しています。
好奇心旺盛、飽きやすい私は毎日違うことができる方が生きやすく楽しいみたいです。

⑥学び

学ぶことは大好きで、知りたい!と思ったら調べたり、本を読んだり、人に会ったり、資格を取ったり、研修に参加したり、イベントに参加したりしてきました。

教育や福祉の勉強は新卒からしてきましたし、お金の勉強(簿記やFPなど)をしたり、心理学を学びたくて公認心理師を取得したり、キャリアコンサルタントの資格取得に向けて学んだりしました。

教員生活最後の一年は、半年間にわたるNGONPOを学ぶ研修をうけ、地域のnpoで土日にインターンをしていました。

とにかくなにか気になれば学びますし、学びを通してたくさんのつながりができたことも財産です。

今後もカウンセリングが実践できるよう研鑽したり、開業起業、地域づくりについてなど学びつづけたいです。

特別支援についても関心があります。

⑦プライベート

今は夫と二人暮らしです。それぞれやりたい仕事をしながら、家事もうまく分担しながら自由に生活しています。大学1年生の頃から付き合っていたため、10年以上一緒にいるのでお互い理解し合えてありがたいです。
お互い30歳になり、今後のキャリアを話し合いながら考えています。

子どもについてはこれまで流産するなど、いろんなことがあったのですが、前向きに考えて、親になることも経験したいなと今は思っています。

大好きな旅や散歩、ヨガ、読書はつづけたいです。

心の面では、昔よりは安定してきましたが、波がありますし、キャパをこえるとなにもできなくなり、無気力になり、ひきこもることはしばしばあるので、自分を大切に、無理せず、自分のペースですごしていきたいです。

⑧今後の目標

色々考え中ですし、基本的には偶発性理論で。
日々好奇心をもち過ごしていき、ご縁を大切にして、挑戦しつづけたいとおもいます。

やりたいこと

  • 誰もが自分らしくいられるような人の生き方に関わることをしていきたいと思っている。

  • 心や体のケアに関わり、人を癒すことができる仕事をしたい。

  • 教育、福祉、まちづくり、心のケアに興味関心がある。

  • 子ども、若者が自分らしく生きられる仕事をしたい。

  • 多様な人と繋がり関わることができる、人との繋がりをつくり、人と人をつなげる仕事をしたい。

  • 人にの笑顔や喜びを一緒に感じ、共有できる仕事をしたい。

  • 開業、起業をして自分のやりたいことを形にしながら労働者としても働き、複業したい。

  • キャリアや心のカウンセリングができるようにしたい。大学のキャリアセンター、サポステなどで働きたい。

  • 居場所づくりができる場を提供したい。古民家などでレンタルスペース、地域の方が主催のイベント、地域の方の思いの場になるような場を地域の人と一緒に作り上げていきたい。

今後の見通し

1年後 31歳

  • まちづくりNPOでの居場所が地域内のいろんな方の協力を得て広がっている。

  • NPOで事業化できる取り組みをする。

  • 持続可能な組織運営に向けて取り組む。

  • 研修事業を企画・運営し、学びとつながりを提供する。

  • 通信制高校などで講師依頼を受け、複数の高校でカウンセリングや授業をしている。

  • キャリアカウンセリングを実施している

  • 業務委託などでファシリテーターやキャリアに関する学びの場、子ども若者(子どもアドボケイト等)に関わる仕事を頼まれている

3年後 33歳

  • 子育てと仕事の両立子育ての居場所などにも参加

  • 専業主婦ではなく、専門性を活かしながらバランスよく働いている東京で暮らし働くが、地方に帰ったときに生かせる人脈と学び、スキルを得ている

  • 社会福祉士を取得又は勉強中、キャリアカウンセリング技能士2級を取得している

5年後 35歳

  • 地方でフルタイムで働いている子どもも一緒に地域づくりに参加

  • 個人事業が確立している

素敵な30代になれますように。


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