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心療内科も選択肢に入れてみてほしい_ 2020/10/10

【はじめに】自分の言葉で自分のことを書いてみる

気が利いていて気軽に読めるようなメンタルヘルスやセルフラブの文章はたくさんあってどれもすごくやさしい。ただ私には若干やさしすぎるようにも感じて「そんなことは言っても現実をだましだまし見ている自分がなんだかな〜…」とかえって途方に暮れてしまうことがあります。

だから自分の言葉でメンタルヘルスについて書いてみようと思います。なんたって10月10日は世界メンタルヘルスデーだそうで、きっかけをくれたTwitterのトレンドに感謝。心療内科の受診を検討している方とか、当事者が周りにいない方にちらりと読んでもらえたらいいな。でもいちばんは、自分が心療内科に通うことの意味を再確認したいという気持ちで書きます。


最初に記しておきますが、とても自分に正直になって書いたので文体がキツめかもしれません。笑 すみません。
でも私がメンタルヘルスについてポップに書いたり変に人の励みにしてもらおうとして書くのは無理があってですね、、、。はい、無理なんです。


社会的な場面では、落ち込んだり悩んだり考えたり体が動かなくなったり休んだりすることを、「やばい」「病み」「メンヘラ」「こじらせ」などの言葉で覆うことがよくあります。私にとってそのような言葉は、全く自分の現状を代弁してくれるようなものではなく、それらの言葉は、問題を問題として扱うことが面倒だったり、どうしたから良いかわからないという人が使うものだと思います。

「自分にとっては事実としてあるものをまるでないかのように振る舞う」必要性は本当にあるのか、あるとしても、自分はどうしたいのか。私が自分に問いかけたその答えは、「自分に正直でありたい」ということです。だからメンタルヘルスについて自分に起こったことを書いてみようかなと思ったのです。

この記事では私が考える心療内科への通院・カウンセリングの意義や利用するに至るまでの心理的経緯について書いています。

心療内科でのカウンセリング


2019年7月から心療内科に通っていますが、私は具体的な病気の診断や薬の処方は一度も経験したことがありません。月に一回〜二回、一回15分程度のカウンセリングのみです。


心身の障害を除去・軽減するための医療について、医療費の自己負担額を軽減する自立支援制度を利用して、一度につき診察代は400円です。交通費も入れて私は月に約600〜1200円程度のお金をメンタルヘルスに支払っています。

15分しかないのですが、慣れてくるといろいろまとめて話せるようになってきます。終始泣きながら話す日もあれば、先生と歓談する日もあります。また15分のカウンセリングを最大限利用するために、毎回話す内容をまとめてから臨み、先生の反応やコメント、自分が話した内容の振り返りも毎回10〜20分程度行っています。


困った時にだれに頼るか?


心療内科に通う前、私は自分が困った時に、だれに話せばいいのかわからないことが一番の悩みでした。だいいち、「話したい」わけでもない。取り乱したり泣いてたり不安なのをどうにかしたいとは思うけど、他の人がどうにかしてくれるわけではない。安心したいけれど、相手が私に安心を提供できるような安定した状況であるとも限らないし、かえって余計なことを言われたら傷つく。そういう自分の都合の良さから人に話すことができなかったのだけれど、大抵の人は不安になった時、いちばんに話す特定の相手を作って話をしているようだという気がしたのです。

私はとくに自分に恋人あるいはパートナーと呼べる特定の関係の人がいないことがすごくコンプレックスでした。「でした」と程よく言ってるけど、今でもいつでも気軽に連絡が取れたりあったりできる友人やパートナーがほしいなーと思っても中々そういう存在をつくろうとすることに前向きにはなれない。連絡を気軽に取ることを許してくれる人は本当にたくさんいるけれど、自分から頼ることができない。そんな難しいことではないはずなのに、すごく抵抗がある。何なんでしょうね、私もよくわからない。



だから友人と集まってその中で自分だけ彼氏がいないとき、自分が体験したことがない安心の在り方を友人が話しているとき、みじめな気持ちになってしまったり、悲しくなったりもします。でも友人にそういう関係の人がいること、関係を続けようとと努力している姿がうらやましいだけなんですよね。いいなと思います。でも一生懸命自分と向き合っているという点においては私も何ら変わらないと思って、気を取り直します

私はだれかにとっての「いちばん」じゃないとダメ?


人間関係において順列や限定の言葉を使うとき、私は戸惑いを覚えます。

「いちばん」や「〇〇だけ」「親友」などの言葉です。特に「いちばんに話すべき/頼るべき相手」この表現がとても苦手です。この表現を聞いた時、多くの人はたった一人のだれかを想定し、その信頼関係に基づいたコミュニケーションの在り方を想像します。そして「いちばんに話した」「いちばんに話された」ということが関係をより強固にするのは事実でしょう。

でもその関係にヒビが入ったらどうでしょうか。自分でいちばんに話すべき相手と決めている人も、自分と同じようにゆらぎがあります。自分も困っている状況なのに、その相手のゆらぎを繊細に見極めている余裕が、果たして常時自分にあるのかと問われれば、私の答えはノーです。いくら名前がついた安定的な関係を前提としていても、「絶対」はありえない。その関係に期待しないことは、私にとってはお互いが心地よく関わり合うための希望なのです。

この考えは私自身の人間関係を構築する経験が乏しいことが影響しているのかもしれませんが、傷つけ合いすぎて関係が破綻するのは悲しいことだと私は思っています。そしてこの考え方自体を悲しいことと捉えたり、「そこまで極端に思わなくても」と捉えてたりする方もいるかもしれません。でも私は今のところこの観点をぼやかすことができません

だから私は誰にとってのいちばんでもなければ、誰かをいちばんにすることもしない。というかできない。強いて言うなら「いちばん」は、その時関わる相手や自分の状況で常に変化します。解釈として都合が良すぎるでしょうか…。でも相手も自分もある程度守りながら関わりを保つ方法がわからないから結果的にそう考えているだけで、心細くて仕方ないこともよくあります。



自分が弱いことを認めたまま存在していこう



現段階で私がわかっていることは、自分のことを出来る限り自分でケアしようとしたとしても、ケアしきれない状況にはいずれ必ず立ち会う、ということです。要は一人じゃ生きていけないから、人との関わり合いを自分から能動的に持てる、望むようになることが必要だということです。


私は自分が「ありたいようにあろう」とすること自体に無理が生じて自分を追い詰めることがよくあります。単純に現状に適応布団にうずくまって一日が終わることも正直珍しくなく、それが対処療法でしかないこともわかっている。でもそういう弱い自分を認めない限りずっとそこに居続けることになる。



そして私が真剣になればなるほど、周りの人は「そこまで考えなくてもいいじゃん」「考えすぎずに」と言う。それは私を思ってくれてのことですし、事実でもある。一人でジタバタしていたってしょうがない。これは、自分のありたい姿、周りにはこうあってほしいという理想や期待がかえって高すぎるということを意味しているとも捉えられます。でも私はちっとも納得できない。ある意味これも自分の弱みです。

私はこういう自分の弱みを認めるために心療内科に行きます



自分のことを自分の言葉で声に出してみよう


心療内科の先生は話を聞くプロです。お金を支払って話を聞いてもらうことで、長期的にみて淡々とした、安定的な信頼関係を築くことができます。それを冷たいと捉える人もいるかもしれないけれど、これは実に単純な支援の役割分担です。私を支えてくれる多くの人の一人として、病院の先生は医学的/心理的な専門知識と技術を持って対応してくれているというだけです。

また私はこの関係に明確な対価を支払っていますから、家族や友人、恋人同士の関係にありがちな空気を読む、気を遣う、申し訳なさや苛立ちを覚えることもなければ、大きな期待をすることもない。このように書くと、通っても効果がなさそうにも見えますが、私は自分の精神的健康を維持するために「通い続けている」という自信を得られるという点で効果を実感しています。また自分の身に起こっていることを、定期的に自分の言葉で話す機会を持っているという状況は確実に安心につながっています。何かあっても全く手の打ちようがないという不安からは解放されている。必要性が生じれば診断や薬の処方なども受けられる手段を持っているだけでも、かなり良いことだと思います。

何度か予約に遅刻したりキャンセルの連絡をすっぽかしたことがありますが、私はそれを病院や先生から追及されたことはありません。電話で一言謝罪して、また予約を取らせてもらいます。ラッキーなことに病院や先生との相性も良く、私は1年以上続けられています。

カウンセリングで先生に何かしてもらおうと期待していけば失望するでしょう。実際、先生はわかりやすい道を示してくれるわけではなく、話を通してクライアント自身が自分の問題を認識するのを手助けしたり、必要だと判断される診断や症状を緩和するための処方/処置を行うだけです。



「周りからどう思われるか」という当事者の不安と向き合う「寄り添い」とは

人に寄り添うとは、その人の在り方を認めることだと私は考えています。その相手がありたいようにいること、相手が自分自身をコントロールできない状況に陥っているということを認める。あるいは「こういうことがあったんだよね」と、当事者から見て語られた事実や経験、感情をそのまま見つめて「そうなんだね」と応えることです。


困っている人に対して、どんな言葉をかけて、どう関わっていくかは難しいのですが、自分ができることはただ一緒にいることかもしれないし、むしろ物理的にも精神的にも距離を置くことかもしれない。相手に何もできない/何もしない自分をとがめるべきではないと私は考えています。相手に対して自分が「何かをしてあげている」という気分になれない自分の状況を認められず、かえって相手にとって余計な言動を取ってしまう場合もある。ペース配分は人それぞれだし、自分一人だけが相手を支える存在じゃないんだから、相手が望んでいることの範囲内で自分なりに寄り添ったり向き合ったりできれば良いのではないか、と私は思います。



「どうでもいい」と思われ、思うことについて


私は完璧じゃないけれど完璧でありたい欲が強すぎるので、他者にどうでもいいと思われることへの抵抗が半端ではありません。自分の考えていること、やっていること、存在そのものには価値があるのだと思いたいです。自分の大事に思っていることが、他人にとってはしばしばどうでもいいことに振り分けられ、判断されることはある程度仕方ないことではありますが、気持ちの良いものではありません。それが故に変に自分の考えにこだわったり、考えすぎてしまうこともあります。


だから私は仮に自分自身や自分の価値観を「どうでもいい扱いをされた」と感じたら、そのように感じたことを何らかの形で残して一旦おいておくことにしています。私の場合は日記を書く、スケッチやドローイングを描く、音声に残す、など。そうすればひとまず自分の外に出せて楽になれる。常に拠り所になる/物理的に関われる人間の存在が自分の近くになくても、このような方法さえ身につけていれば、いかようにも自分で自分の拠り所をつくって弱さを認められる。このnoteもそうです。こんなことをつらつらと書けるのが私の強さです。


そして私をどうでもいい扱いした相手の人間性に焦点が当たらないように気をつけています。このご時世、違和感を覚えた相手の言動について声を挙げることはとても重要なことです。「〇〇された」と被害を自覚することは時に必要で、私もやっていきたいとは思っているけれど、その場でその違和感について相手に伝えることに自信がありません。世の中には闘っている人もほんとにたくさんいて、尊敬します。


その自信を得るために今心療内科に通って、どうすれば自分の身を守りながら言いたいことをあきらめないでいられるのか、考えてるんですね。自分なりの闘い方を模索しているんです。絶望しても私は大丈夫だと安心して次に行ける活力をもてるように。少なくとも今の自分には「先に進みたい」という意思があるので、そうするためにできる行動の一つとして心療内科でのカウンセリングがあるだけです。


何より自分で自分のことを「どうでもいい」と思うことが私にとってはいちばん悲しく、その状況から抜け出そうとすることがいかに大変かを痛感しています。だから自分がヤバい状況になる前に自分から人に相談できたり、対策を打てることが重要なのです。月並みな表現ですが、本当に必要性が生じてから動こうとするのは、あまりに酷なのです。それをわかってもらえるような書き方ができないのも悔しいですが。

私自身、不安を覚えやすく自信がないので、自分の全てを説明しなくちゃいけないように勝手に思って、必要以上のコミュニケーションを取ろうとすることが未だにあります。ですが以前と比べて自分の思うようにいかないことについて、こだわりが少なくなり、「まあいいや」と考えられるようになったと思います。時に自分の身を何かに委ねることが効果的にはたらくこともあるのを日々学んでいるところです。また、自分自身にも理解できない、つまりどうでもいい他人のこだわりがあることなども知りつつあります。その内容について言うかどうかはまた別のお話です。



自分にとっての「普通」を知ろう



「普通」「標準」「多数」「メジャー」「みんな」などの言葉に覆われずに、まず自分にとっての「普通」を知ることから始めてみるのはどうでしょうか。私たちは弱いところは弱いままに、他の人に助けてもらってもいいはずだから。

心療内科やカウンセリングで大切だと私が思うことは

・当事者が自分と向き合う意思を持つこと
・周りの関わる人たちがどう関与し続けるかということ

私はこの場で「あなたは一人ではない」と不特定多数に向かって言いたいわけではないように感じています。「一人ではない」と言ったって人間は孤独であることに変わりありません。でも孤独はそう悪いものではなく、自分のことを良く知ることができると思います。知ることができればすべきことも見えてくる。それに私にとって心療内科でカウンセリングをすること、こういう文章を書くことは、ただがんばって自分のことを自分で満たそうとしているだけでしかないのです。だから「あなたは一人じゃないよ」とここでどこかの誰かに語りかけようとすることは、主旨として違う気がするのです。

でもこの記事でかえって心療内科やカウンセリングへのハードルが上がっていてもいやだな、、(わがまま、、)とも思うので最後に、、


シンプルに元気でいるための方法として、心療内科も主体的で前向きな選択肢の一つに入れてもらえたらいいなと思います。心療内科に通うことが自分を大切にしているという自信につながります。たとえば私は現段階で、ストレスの発散方法として運動は好んでやりませんが、選択肢としては「あり」だし、そのやりかたも色々知っているつもりです。自分にとっての「あり」な選択肢が増える程、できるだけ長い時間楽しく健やかにいられるならいいんじゃないかな〜と思います



※画像:World Mental Health Day
https://wfmh.global/world-mental-health-day-2019/

2020/10/10
zomychan

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