見出し画像

漢字と化学の融合がもたらす明るい未来 - 『漢字の略字デザイン:漢字のサイエンス』 長谷川正義(1995)

テクノロジーの襲来によって漢字が厄介者扱いされていた時代があった。未来の漢字の姿をどのようにすべきかを本気で考え、不可侵の領域である字体まで踏みこんだ人々がいた。そんな方々が残した書籍(以下、造字沼ブック)を読み、臨書し、その想いを味わう連載です。今回4冊目。

1995年、パソコンが一般家庭にまで普及する起爆剤となったWindows95(日本語版)が発売された年だ。日本語を書いたり、情報を扱う環境も進歩したことにより「漢字を電算機で扱えない問題」はテクノロジーによって表向き解決された。

これと時を同じくして『漢字の略字デザイン:漢字のサイエンス』と名付けられた1冊の書籍が出版された。今回、造字沼本として「21世紀に向けた漢字の姿」を説くこの本を紹介したい。

画像3

▲『漢字の略字デザイン: 漢字のサイエンス』(長谷川正義・著/1995年)

本書の構成は「漢字の歴史」「略字の必要性」「簡略化の方法」を経て、半分以上を字体見本に割いている。120ページにわたる漢字だけの本だ。平易な言葉で語られる漢字略字法はとてもわかりやすい。

早速、提示された字体を見てゆこう。

画像38

画像39

(『漢字の略字デザイン:漢字のサイエンス』より、以下字のサンプルは同署からの引用)

画像38

試しに組んでみた(ひらがなは源角ゴシック)

長谷川氏式 簡略化の要点

画像40

① 簡体字をとりいれる。
② 新字体のシルエットを優先。
③ カタカナの利用(形状/声符での利用)。
④ レスポンシブなパーツ(同じパーツでも構成により簡略化の方法が異なる)
⑤ 1字あたり8〜9画を上限に簡略化。
⑥ 横線を優先的に減少。点の省略。

新字体をベースとして、もとの漢字のシルエットは保ったまま、一部が簡略化パーツに置き換わっている。全体をまるっと置き換えたものは少ないせいか、そこまでの違和感がない(例外もある)。試作として掲載している字が整った活字になっているのも影響しているかもしれない(長野氏竹内氏も試作サンプルは味わい深い手書きだ)

パーツの簡略化法はいいとこどりだ。多くは簡体字から採用している(例:門/見/糸)が、新字体と比較して変化に違和感があるものは折衷案のようなものを採用している(例:金/食)。「隹」などは、本家簡体字ではほとんど簡略されていない部品であるが、長谷川氏式略字体では大きく変化させている。ここには字の構成や位置、他のパーツのと関係で柔軟に変化をするレスポンシブパーツを採用している。

個々の字の臨書の前に、まずは簡単に著者と時代背景をみてゆこう。

著者とざっくり背景

著者の長谷川正義氏もまた博士である。1917年東京生まれ、早稲田大学理工学部採鉱冶金学科卒、研究機関を経て、工学博士(専攻は材料工学)として長年にわたり大学で教鞭を執られていた。著書をみても「天職鉄鋼材料学50年のあゆみ」「噴射分散強化合金」「ステンレス鋼便覧」など漢字との関係は見受けられない。本著のなかでは、

これは繁雑な画数をもつ漢字、少なくともふだん汎用されている漢字を、もっと簡単にしようと提案したものです。このことは漢字の近代化につながるものと思います。(『漢字の略字デザイン:漢字のサイエンス』アブストラクトより)
漢字には情報の交換や記録のための符号という大事な役割があることも忘れてはなりません。(中略)鑑、襲、驚、騰、魔など20画を超えるものさえあります。しかしこれら個々の文字が表すわずかな意味(情報量)を考えると、なんとも大げさな符号という気がします。パソコン、ワープロの普及で、文字を手書きする機会は確かに減ったでしょうが、プリントされた文章に黒々と塗りつぶされたような部分が散在しているのは、どうみても近代的とはいえません

長谷川氏は「漢字の近代化」という言葉を使う。それにしても国字問題について字体にまで踏み込むのは理系/エンジニアの人が多い。

さてこの本は1995年の発行であるが、執筆されたのはいつごろであろうか?

国語・漢文重視の教育環境の中で幼少期を過ごした著者などには、50年を経た今でも、漢字に対するある種の崇拝の念があり、(P.23)

幼少期を10歳ぐらいまでと考えると1980〜90年ぐらいであろうか。本著掲載の図版(テレビ番組表 P.9)は89年(平成元年)である。世は日本イケイケの好景気、最新事務機器で漢字が使えない問題も技術で解決し、端末も普及期。その時期に長谷川氏はあえて「漢字も近代化」を訴えるのであった。

なにが問題だったの?簡略化の必要性

長谷川氏は、複雑な漢字の問題点として、以下の点をあげる

①習得するのに時間と努力が必要なこと
②手書きのするときにむだな時間と労力がかかること
③印字や映写されたとき、文字がつぶれて汚くなること、および読みにくくなること
④その結果、文章の流れの中に障害物が散在したような印象を与えること
(P.7)

①②は昔からよく言われる。③④は印刷やモニタで「読む」ときの問題点。きちんとした活字は当然美しいのであるが、当時の新聞やFAX、複写機で印字されたものをみると印刷機の貧弱さのため確かに読みにくい。また画面表示用のビットマップフォントは、苦心して複雑な字を再現している。

私たちは当たり前に読んでいるが、筆で書かれていた字を、新聞のように8pt程度の文字サイズに縮小して同じように読むというのは無理があるのかもしれない。かの時代ではスクリーンのような新しい環境で、以前よりも小さな活字(しかも印字/表示の品質が若干低い)を読むことを求められていたのである。そのような環境に必要な漢字の姿を追い求めたのが長谷川氏式略字体である。

ここでは一人のエンジニアによる、図形的な略字デザインとして提案しておきます。(P.11)

臨書して味わう「長谷川氏式略字体」

では、長谷川氏式略字体を臨書して簡略化のエッセンスを味わってゆこう。前述の6つの要点にそって順にみてゆく。

① 簡体字をとりいれる。
② 新字体のシルエットを優先。
③ カタカナの利用(形状/声符での利用)。
④ レスポンシブなパーツ(同じパーツでも構成により簡略化の方法が異なる)
⑤ 1字あたり8〜9画を上限に簡略化。
⑥ 横線を優先的に減少。点の省略。

①簡体字をとりいれる

長谷川氏式略字体は、簡体字からパーツの採用が多い。採用基準は「極端に略され、日本人に馴染みにくいものはNG」「在来の文字と衝突するものはNG」「形声の声符が置き換えられたものはNG」などはあるが、もとの字を想像しうる簡体字の部首や部品を多く取り入れている。

「簡体字パーツ」+「新字体パーツ」の組み合わせ等、多少のアレンジもいれて工夫がみられる。

画像4

画像5

画像6

次の「縁」は「簡体字版糸偏」+「新字体の旁」+欠画アレンジしている。

画像8

中国では廃止された第二次漢字簡化方案からの採用もある。

画像8

② 新字体のシルエットを優先

シルエットを活かすのは、日本における簡略化の王道である。さすがに簡体字は行き過ぎだと判断したものは、やや控えめな簡略化に留めている。外郭を維持しつつ、内側の線分を省略を行う。

画像9

簡体字では「」の旁は「又」に置き換えられるのであるが、行き過ぎた簡略化と考えたのか「艹」を付与して「⿱艹又」で雰囲気は保っている。

画像17

画像17

画像17

画像17

画像17

画像17

画像17

画像17

③ カタカナの利用(形状/声符での利用)

カタカナの利用は、長谷川氏式略字体案の大きな特徴の一つである。形が似ているものを置き換えるのではない。パーツの一部を抜き出した結果でもない。形声の声符のようにカタカナを利用するのだ。略字として書かれた「機」を「⿰木キ」と書くイメージだ。

長谷川氏は、漢字から生まれた「カナカナ」「ひらがな」を高く評価している。

かな文字はいわば究極の略字であり、外国から移入した漢字を素材として、多量生産向きの材料に改良した知恵は、なにか現代の日本の工業技術と一脈通じるものがあるあるように思います。(P.18)
これほど徹底した簡略化が1000年も前に完成していたことと、現代にも十分通用する洗練されたデザインであることは、今後の漢字の簡略化に対して、いろいろな示唆を与えていると思います。(P.37)

このようにつくられた文字を見てゆこう。

画像18

画像19

カタカナが入っていると、なんとなく目に入ってしまう。ただし「セン」とは読めないのが気になる点だ。「鵜」を「⿰ウ鳥」とするのは、略字としてありそうである。

画像20

画像21

「魚」を「ソ」に置き換えるのは荒技であるが、インパクトがあり勢いで「ソ」と読んでしまいそうである。

画像22

「漢」は「⿱艹又」なので、「灘」も同様、または「又」でもよい気がする。ここでは「ナ」を声符にするためか「ナ」を採用している。そのおかげで画数も10画に抑えられている。

画像23

画像24

画像25

画数が多く複雑なパーツを(声符として)カタカナ1字で置き換えることは、日本人であれば許容できるかもしれない。ただし、そのように作られた字は逆輸入ができない。また、又とヌのように既存の簡体字と衝突する可能性もあるので注意が必要である。

④ レスポンシブなパーツ(同じパーツでも構成により簡略化の方法が異なる)

一貫していないといえばそれまでであるが、同じパーツでも位置や他のパーツとの兼ね合いで省略方が異なるのが、長谷川氏式略字体の特徴だ。特に顕著なのは「隹(ふるとり)」である。その変化は目まぐるしい。

画像26

画像27

画像33

「隹(ふるとり)」の変化は、基本形は「イヌ」だ。領域が狭い場合、縦横比で、横が長い場合は「ヒ」。縦が長い場合は「カ」としている。それでもエリアが小さいときは「〃」まで簡略化している。

⑤ 1字あたり8〜9画を目標に簡略化。

常用漢字であれば平均11画。これを9画程度に収めるのを目標にしている。単純な字はそのままに、画数の多い文字は大胆に簡略化する必要がある。29画の「鬱」は20画も削減する必要がある。

画像28

画像29

9画にはおさまっていないが、20画超の字でも10〜13画に集約している。シルエットを活かしつつ、中身の線を削減することにより違和感なく簡略化を行っている。

画像30

同じ字の繰り返しで構成されるものは「記号」で置き換えられる。

⑥ 横線を優先的に減少。点の省略。

書道では楷書でも、少しの線や点は省くことが許される(P.29)

長谷川氏は漢字の構成線画の頻度について分析し、横線が多すぎることが漢字を複雑化していると指摘している。既存の文字の構成要素を分析した。

横線43% 縦線24% 斜線15% 曲線6% 点12%(P.26)

複雑化の原因である全画数の43%を占める横線を積極的に削減した。

画像31

画像32

「乙」の採用は、画数が1画になりつつ、横線も削減できる一石二鳥の案である。ほかの字にも積極的に採用されている。

こんな字体ができました。

長谷川氏式略字体は合理的だ。日本人でも許容できる簡体字のパーツを採用することで多くの漢字を簡略化。同様に日本人に馴染みのあるカタカナを図形的なパーツや形声の声符として使うことによって、行き過ぎた変形の一歩手前に止まっている。字体の外郭を活かすことで違和感をあまり感じさせない。

歴史的な変遷の延長線上に置くのではなく、新字体を起点に図形的に再構成することを選んだ。過去とは分断されたとしても、スクリーンを通じて字と向かい合う時代において、素早く字を判別しうる適度な複雑さ持ってるのではないだろうか。

画像34

カタカナが入るものは特徴的であるが、どうしてもそこに目がいってしまう。漢字本来の形状や読みに結びつけにくくなりそうである。ただし「隹(ふるとり)」は「イヌ」の印象が強く、忘れえぬ簡略化となりそうである。

難題山積

画像36

画像37

画像41

試しに組んでみた(ひらがなは「源角ゴシック」)。本に掲載されている活字見本はとても綺麗だ(荒くトレースしたものであるが、元の字のバランスはいい)。抜け感があり、著者の指摘する下記の

プリントされた文章に黒々と塗りつぶされたような部分が散在しているのは、どうみても近代的とはいえません

はクリアされるのではないかと思う。

むすびに

技術の進歩は私たちの予想をこえることがしばしばある。AppleのRetinaディスプレーような網膜の解像度にせまる高画素密度の表示ができるようになった。以前はドットで描かれていた、駅の運行案内表示の文字も鮮明になった。画面の文字が潰れて汚いと思うことも滅多にない。文字の表示環境はどんどん良くなっていく。

文字はコミュニケーションの符号であるがゆえに、すでに獲得したツールを簡単に放棄するのは難しい。漢字には符号とともに文字自体に意味(や意味に通じる字源)が備わっているためか変化させることに抵抗が大きい。各々が自由に略した字を使うようになれば混乱は必死である。

漢字は集約と拡張を繰り返す記号であり、今までの歴史的変遷に法則性を見出すのは難しい。そこに規則性をみつけだし、漢字のすべて理解したいと思うのは人の好奇心ゆえだろうか。シンプルな数式に美を感じるように、よりシンプルな字体で、その字が意味を理解させることができることを目指す。それは効率や機能をこえた、漢字の本質の追求なのかもしれない。

この終着点のない漢字の形はどこへ向かうのか、魅力的な漢字を眺めながら見守ってゆきたいと感じさせる書籍であった。


---

画像1

『漢字の略字デザイン: 漢字のサイエンス』
・著者: 長谷川正義
・発行:1995年
・頁数:120ページ
・出版:朝日新聞出版サービス

----------------------

ここまで、お読みいただき誠にありがとうございました。
次回もよろしければご覧ください。

バックナンバー




この記事が参加している募集

読書感想文

サポートいただいたものは、文字本の探究と取材のためにありがたく使用させていただきます。まだ埋もれている先人たちの英知と葛藤を残して、必要とする誰かに受け渡すことを目的としています。 書籍もネットの情報も永遠ではないので、たまに掘り起こす必要があると考えております。