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8月6日、午前8時15分に黙祷を。


子どもに伝えたい。第二次世界大戦中の1945年8月6日。月曜の朝、8時15分。広島市中区に原子爆弾が投下されたことを。目を開けられないほどの激しい閃光、地を揺らすほどの爆音、爆風と熱線。それらが、半径2kmにあった何もかもを溶かし、吹き飛ばしたことを。そしてその後、広島に降った黒い雨のことを。



広島に生まれた子どもたちは、折に触れて平和と戦争について学ぶ。手法を変え、繰り返し、何度も、何度も。ミンミンとセミが命を削り鳴き続ける暑い夏、この広島に、日本に、何が起きたのかを。

多くの小学校では、平和学習で広島に落ちた原子爆弾の被曝者から話を聞く。原爆に耐え、その後の生きづらさに耐え、今を作り、生きる方々。後世に、その恐ろしさを伝える方々を「語り部」という。

原爆投下から今年で75年。語り部の方は、私の祖父、祖母世代から、その少し上の世代が多い。私が小学生の頃、被曝50年を経ており、既に語り部の高齢化が問題となっていた。絞り出すように声を出し、時に荒げ、震え、目は赤く、涙を流し、言葉に詰まりながら、命を削って恐怖を伝える。

戦争の、原爆の記憶は、思い出すと身も心もえぐられるようだ、と多くの語り部の方が言った。



小学校低学年の夏休みに「平和と戦争」を題材に文を書く宿題があった。祖父母の家に行き、当時の経験を教えてほしいとねだった。ひとり用のグレイのソファにどっしりと座っていた祖父は、困った顔をして笑った。祖母はお茶を準備する、と席を立った。

近衛師団だった祖父の客間には、いつも勲章と当時の写真が飾られていた。それを見ながら、祖父は話し始めた。シンガポールでの海上で爆撃にあい、臀部を撃ち抜かれたこと。船は沈み、数分前まで共に動いていた友人が、右足を無くし海に沈んで行ったこと。たくさんの浮いた死体をかき分けながら木の板を掴んだこと。3日間海を漂い、意識が混濁する中、たまたま日本軍の船に助けられたこと。終戦まで、どこに行ってもすぐ隣に死が転がっている世界だったこと。

「おじいちゃんより、もっともっと、大変だった人はいっぱいおるんよ。あなたたちの世代は、戦争せんでね」

祖父は10年以上前に亡くなった。ノートのメモは数行で終わっている。きっと、もっと、恐ろしい経験をしているだろう。優しい祖父は、幼い私に聞かせたくないことも、たくさん行ったのだろう。祖父の瞳の奥、まとう空気、時折りおとずれる沈黙。全てが目に、耳に焼き付いて、今も残っている。文献を読むだけでは、きっと伝わりきらない何かがそこにある。



何故、伝えるのか。何故、伝えなければならないのか。「戦争について調べなさい」「原爆のことをどう思う?」何度も学んで、考えて、時に退屈だなと思うこともあった。忘れていることだってある。けれど、小さな頃から繰り返し機会をもらえたことで、平和を願う気持ちが、大きく育っている。

祖父祖母の世代が、語り継ぎ、戦後を立て直してきた世代であれば、私たちは、語り継ぎ、平和を目指す世代。ただ願うだけでは、平和にはならない。

「平和」とは何か。戦争の無い世界か、核無き世界か。では、戦争も無く、核を持たない日本は、今、平和なのだろうか。答えはYESであり、NOであると思う。

「平和」ってなんだろう。人が持つべき人権を持つことか。心が貧しくならないことか。慈しみを持つことか。けれど、私にとっての平和は、誰かにとっての平和ではないのかもしれない。広島に住み30年以上経っても、未だ自分なりの答えを、明確に持つことができない。



世界で初めて、原子爆弾「リトルボーイ」で爆撃された街、ヒロシマ。今年も8時45分、高らかに鳴るサイレンとともに、亡くなった方への黙祷を捧げる。





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すごくすごく喜びます!うれしいです!