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シャツワンピースを着て試着室で泣いた話

 大学生の夏、バイトを終えた足で深夜バスの停留所へ向かった。
 前輪と後輪のあいだにぽっかりと口を開けたトランクルームがある。荷物を預ける乗客が長い列を作っていた。
 運転手が流れ作業のように長方形のトランクケースを次々に投げ入れているのを横目に、乗車口へ向かう。肩からかけたトートバッグはバスの中に持ち込むと決めていた。
 乗車口へ行くと、特有の匂いが充満していた。久しぶりだな、と思いながら数段のステップを登る。発車まで音を立てて唸るエンジンの匂いか、いつ乗っても新品のような内装品の匂いか。この匂いを嗅ぐと「旅」へ行くのだと胸が高鳴った。お金に余裕はなくても時間はある。大学が長期の休みに入り遠方へ遊びに行くときには、長距離バスを使うことが多かった。
 消灯した後も、しばらくイヤホンから流れる音楽を聴きながら窓の外を見た。流れるように走る民家の明かりは、窓に映る私を次々と突き抜ける。その光もだんだんと少なくなり、木の影と暗闇が同化した頃、私は完全にカーテンを閉め、目を閉じた。

 好きなブランドのデザイナーがニューブランドを立ち上げた。その旗艦店のオープンに合わせて東京へ向かった。
 北青山。地方に住んでいる私には聞いたことのない地名だった。あらかじめ印刷してきた地図を頼りに歩く。ほんの半日前、家にある古いプリンターで目的地までの地図を印刷した。ギイギイ鳴る印刷音以外は何も音がない部屋で、ゆっくりと吐き出される紙を見ていた。広島で生まれた地図が、夜が明けると800キロメートル以上離れた東京にある。不思議な気持ちだった。

 音楽とざわつきの中へ一歩踏み入れた瞬間、足が止まった。人が溢れる店内。親しげに話すスタッフと来店客。皆一様に憧れてやまない姿をしていた。
 みんなおしゃれ。FUDGEのモデルさんみたい。
 ごくり、と喉が鳴る。
 周囲を見渡すと、黒縁メガネにハンチング帽を被った男性と目があった。驚いて凝視したまま動けずにいると、片眉を上げて首を少しだけ傾げた。ように見えた。
 肩から上まで、体の中をじゅわりと熱湯が駆け回ったようだった。
 急に居心地が悪くなる。
 私はここへ来て大丈夫だったのだろうか。背伸びしすぎたかもしれない。ニューブランドのコンセプトは「清く、楽しく、美しく」だった。服、気に入ってるからってよれてるのにするんじゃなかった。服に合わせた化粧、変だったのかも。
 思わず下を向いた。丸めた背中から汗が吹き出そうだった。
 泳いだ目の先に地下への道があることに気づいたとき、吸い込まれるようにそこへ向かった。

 降りたフロアは明るく、幸いにも1階よりも人がまばらだった。誰もこちらを見ていない。集団の目線を追うと、その先にモニュメントがあった。地面に置かれた直径2メートル程のルーレットを、数人がくるくる回して笑っているようだった。おずおずと近づくと、巨大な人生ゲームのルーレットだった。
「こんにちは、回してみます?」
 ばっちりメイクした明るいスタッフさんに声をかけられ、反射的に「はい」と言った。
 さあさあと促され、数人がルーレットまでの道を作る。背中を丸めたままその道を通る。
 視線を感じながら中心の芯を回すと、音を鳴らして針が回る。勢いが落ち、緩やかになるほどざわついた。
「お、お、おお〜?」
 スタッフさんや来店客が笑いながら針の先を見る。ゆっくりと枠の間で針が跳ねて、数字を指した。
「い、1〜!?」
 声をかけてくれたスタッフさんが大げさに言うと、みんな笑っていた。私も赤くなる顔を抑えて笑っていた。なぜか拍手が鳴り、ペコペコと頭を下げてルーレットから離れる。ぱたぱたと手であおいで顔を冷ましていると、先ほどのスタッフさんが「ねぇねぇ」と手で招いていた。ついさっき私が回したルーレットでは、次の人が大きな数字を出したようで盛り上がっている。スタッフさんは内緒話をするように顔を近づけてきた。
「トートバッグ、宇津木さんがいらっしゃった時のものですよね、私も持ってる」
 ししし、と歯を見せて笑ったお姉さんの顔が子どもみたいで、私は涙が出そうなほど安堵した。

 服と、それにまつわるものがとても好きだったのだと思う。
 明確に自分が変わってしまったのは、子育てが始まってからだった。
 産む前によく耳にしていたような「動きやすい服」や「汚れていい服」を買うようになったからではなく、服を買うときに「選択すること」ができなくなってしまったのだ。
 例えばふたつのカットソーを目の前に出されたとき、どちらが自分が欲しいと思えるものか(そもそも買うか買わないか)を選べなくなった。
 夫が持ったふたつの服を前に、選ぼうとすると心臓がきゅうっと苦しくなった。どきどきして「もういい、やっぱり買わない」と逃げてしまう。恥ずかしいことに外出する時の服装も自分で決めることができなくなって、夫に毎回決めてもらっていた。
 娘を産む前は思いもしなかったけれど、私の場合、子育てをはじめて一番苦しかったのは“意思がわかりにくい娘の選択を代理し続け、結果がすべて自分に返ってくること”だった。
 食事、睡眠、おやつ、散歩、遊び、お風呂、歯磨き、寝かしつけなどの選択にすべて5w2hが付く(Whoは夫がいなければ私)。自分の選択よりも瞬時に、そして真剣に選び続けていたと思う。それでも過程や結果によって思い描いていた通りにいかなかったり、白紙に戻ってしまったり、マイナスに動いてしまったり、それどころか数日、後を引いたりする。
 気づけば、娘のこと以外で「選択」することが苦痛になっていた。

 「選ぶ」ことは体力がいるらしい。それを知ったのは、スティーブ・ジョブズが毎日同じ服を着ていた理由が「決断疲れ」から来るものだと聞いたときだった。
 スティーブ・ジョブズのような輝かしい成功を収めているわけではないけれど、娘の分、増えた「選択」が私の少ないキャパシティを超え、疲弊してしまっていたのだと思った。仕事復帰した後も仕事に関する「選択」の増加で、服を選ぶ心の余裕がなかった。
 夫に伝えると、
「子どもを育てるっていうのは、アップル社でアイデアを出すのと同じくらい大変なことなのかもね」
 と言ってくれた。恐れ多いなぁと思っていると、続けて、
「そんなにしんどいなら、選ぶのは任せてくれていいよ」
 そう言ってもらえたので、甘えすぎであることは自覚しつつも、ずいぶん楽になった。

 育休から仕事復帰して、そろそろ2年経つ。娘は4歳になろうとしている。
 先週、夫と娘とショッピングモールへ行った。
 ショウウィンドウに飾られた服を見て、足が止まった。
 歩くとひざ下の裾がふわりと揺れるシャツワンピース。まっすぐ落ちるスクエアシルエットは、産後悩まされ続けている(もう産後は関係なさそうだけど)体型も隠してくれそうだった。白と水色のストライプ。
 春だ。
 春は出会いと別れの季節。
 そう頭に浮かんで、心がすこし震えた。
 夫に試着したいことを伝えると驚いていた。娘が「えー!つまない(つまんない)よー」と不服を漏らすと、「久しぶりだから、ね、ね」と、絵本を渡しながらたしなめてくれた。

 タグのついた服を着て、鏡に映る自分を見る。正面、右、左、振り返って後ろ。シャツ生地はパリッとはられたのりでまだ固い。ひとりきりの試着室。仕切られたカーテン越しに聞こえる店内の音はひどく遠い。動くたび耳をかすめる衣摺れの音が懐かしかった。
 体の奥から泡立つように「欲しい」気持ちが湧き出て、涙が溢れた。どんよりとした長い眠りから目覚めたようだった。

 それと同時に、10年以上前、北青山にオープンした店舗を訪れた日を思い出したのだ。
 試着しているシャツワンピースは違うブランドだけど、あの頃にもらった気持ちはずっと私の中で生き続けていたことを知った。
 アルバイトをして貯めたお金。交通費を削って一着でも多く買いたいと思った。あの日買ったデニムも靴もTシャツも、とうの昔に履き潰した。デニムだけはどうしても捨てられなくて実家のクローゼットに眠っている。
 社会人になった私は、あの頃の店員さんの気持ちが少しわかるようになった、気がする。地図を片手に固まっていた私を見て、緊張をほぐそうとしてくれたスタッフさんは元気だろうか。たくさんお客さまがいたのに、一緒にコーディネイトを考えてくれて、最後には手を振って「ありがとうございました」と笑ってくれた。
 あの日の思い出は、あのブランドや服そのものとともにある。


 試着室のカーテンから顔を出す。ソファで娘の好きな絵本を読んでいた夫が、「出てきて見せて」という。
 えー、昔より太ったし、どうかな、服はかわいいよね、でも似合うかな、と言い訳めいた言葉が次々に漏れる。カーテンを開けてなおぶつぶついう私を黙って見ていた夫は、いいね、似合う。と言ったあと、
「この服、着たいって思った?」
 と聞く。隣で絵本を読んでいた娘が顔を上げ、
「かか、新しいおようふく、にあってるね」
 と言ってくれた。「それ、娘ちゃんが試着したときに私が言うやつの真似っこだなー」と言って3人で笑った。
 一呼吸置いて、うん、着たい。と伝える。夫は「よし、買おうよ」と言って、娘の頭をゆっくりとなでた。

 カーテンを閉めて、試着していた服を脱ぐ。自宅から着ていた服に、もう一度袖を通すことを戸惑うほどだった。2シーズン目にして首元がよれてきたグレーのカットソー。洗濯や干し方を気にすることもなかったから当然だ。春だというのに、どんよりとして見えた。
 もう一度試着室のカーテンから顔だけ出し、
「これ、着て帰りたいんですが……」
 と伝えると、横で待ってくれていたスタッフさんが「もちろん、いいですよー」と朗らかに笑う。
 あの頃と違ってみんなマスクを付けているけど、やさしい音が波紋をつくり、体の芯がじいんとした。洋服屋のスタッフさんは、どうしてこうもやわらかいのだろう。
 「ありがとうございます」と伝えながらもう一度泣きそうになるのを、カーテンを引いて隠した。

 ショッピングモールを歩く足取りは軽い。娘はしきりに振り返り、
「いいねえ、新しいおようふく、かわいいねえ」
 と褒めてくれる。その度「ありがとう」と返した。
 夫が、あ、そうだ、とつぶやく。
「もう少ししたらそれ着て桜見に行こうか」
 そう言って、私と娘を見ながら笑った。
「いいねー、桜、娘ちゃんも見たぁい!」
 娘は元気よく両手をつき挙げた。

 4年ぶりに手に入れたお気に入りの服を着て、夫と娘と3人で桜を見に行く。
 桃色の桜を背に、きっと白と水色のシャツワンピースは、ひらり、ひらりと楽しげに舞う。





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