見出し画像

雨の日に遊びたい

朝の登校時に雨は降っていなかった。3時間目の途中に音がして窓の外を見ると、景色が白くなるほどの雨が降っていた。言われるままに傘を持ってきてよかった。
今日はドッジボールだな。
紺堂翔吾は、社会科の間ずっと消しゴムのカスで遊んでいた。この数日間、少しずつ集めて丸めることで大きくなったそれは、今は翔吾の親指ほどの大きさになった。もっと大きくして、クラスメイトに自慢するのだ。

4時間目の算数を終えると、お腹が空いた、ドリルのページが多い、そんな声で一気に教室が騒がしくなる。
「翔吾、今日ドッジボールだろ?」
無邪気な声に振りむくと、短い髪の毛がツンツンとしているクラスメイトの顔があった。
「うん、だな」
「ボールが新しくなったんだって。モチモチのやつ」
嬉しそうに言い残して給食当番の準備に向かっていった彼に、軽く舌打ちをする。
クラスでリーダーのような存在の翔吾は、昼休みに大人数で遊ぶときにはチーム分けや仕切りを任されていた。翔吾にとってそれは自然な流れであったが、毎回当然のように翔吾に頼ってくるクラスメイトを見ているといらいらすることがあった。特に雨が降って体育館で遊ぶ日は、限られた空間にほとんどの学年が遊びに来るため、場所取りが命だった。正直、面倒くさい。

配膳の列に並んでいると、後ろに並んだ奴が翔吾の顔をじっと見つめていることに気が付いた。
「何だよ」
「翔吾君、怒ってる」
普段は全く翔吾と話すことのない奴だった。西山涼だ。そういえば、一緒に外で遊んだ記憶がない。
「怒ってないけど」
「そう?この後体育館に行くから、怒ってるのかなって」
意味が分からない。涼を睨みながら、翔吾は自分が苛立っていることに気が付いた。涼に対してではなく、さっきのあいつに対して。体育館の場所取りに対して。
「最初に体育館に行くのは、翔吾君の仕事なの?」
「そうだよ、俺が一番そういうの上手いから」
「決まっているわけじゃないんでしょ」
決まってはいない。それでも、翔吾がクラスで一番強くて人気があるから翔吾の仕事なのだ。
「他の奴、高学年に勝てないしさ」
「そうかな」
にこにことこちらを見る涼が、背伸びをして翔吾の耳元に口を寄せた。涼は平均より少し背が低いが、それ以上に翔吾は背が高い。
「何で、って言ったらいいんだよ」
「は?」
「高学年の怖そうな人ってね、大体は適当に怖そうなこと言ってるだけなんだって。だから、それに何でですかって返したら困るんだって」
「嘘だ、ボール投げてくるぞ」
「それにも何でって」
「それどこで聞いたんだよ」
図書室の先生、と言う涼が、翔吾には恐ろしかった。普段は大人しい涼に、何かを言う度に「何で?」と返される場面を想像する。かなり面倒くさい。
「で?どうせそれを言うのも俺なんだよ」
涼がふふっと笑った。こんな笑い方をする男子は、翔吾の友だちにはいない。同じクラスにいても、涼の存在が気になったことはなかった。
「翔吾君、図書室に行こうよ」
「嫌だよ」
図書室なんて、夏休みの前に渋々本を借りるときにしか行かない場所だ。読書も静かな場所も、翔吾は興味がなかった。
「お願い。そうだ、いいものがあるんだ」
いいものと聞くと、つい気になってしまう。おもしろいもの、楽しいものが翔吾は大好きだった。
「何だよ」
「図書室にあるから、ね」
4時間目の終了直後に翔吾に話しかけたあいつの、生き生きとした顔と声を思い出す。鬱陶しい気持ちはあったが、翔吾がいないと他の奴らが遊べないのではないかという心配もどこかにあった。でも、翔吾は涼が言う「いいもの」が気になってしまった。
「しょうがないな、お前友だちいないんだろ」
照れ隠しでそう言うと、涼はにっこりと笑った。
「うん、だから人気者の翔吾君に声かけちゃった」

友だちには、図書室に向かうことを知らせなかった。「6年生と遊んでくる」と告げると、彼らは羨ましそうな顔をしながらも一緒に行くとは言わなかった。
図書室は、翔吾たちの教室がある校舎の隣の建物にあった。渡り廊下を通って3階の端の部屋。
「遠いな」
「意外と近いよ」
涼と並んで歩くことが新鮮で、どんなことを話していいのか分からない。涼は、教科書より小さい本を二冊持っていた。
「マンガとかないの」
「あるよ、歴史とかお仕事の」
うへえ、という顔をする。やっぱり、図書室はマジメな場所だ。
「涼、は何で一緒に遊ばないの。俺らって怖い?」
初めて涼の名前を呼んだことに気が付いた。
涼は首を横に振っただけで、さっさと階段を上り切ってしまう。ぎゅっと本を抱えて歩く後ろ姿は、大人しいというより頭がいいという印象だった。それが、翔吾には少しだけかっこよく見えた。

図書室は静かで、臭くはないけれど変な匂いがした。想像以上に人がいたが、話している人はほとんどいない。
「先に返すから、こっち」
小声で涼がカウンターを指さした。知らない顔の上級生が、コの字の机に囲まれて座っていた。
本を返した涼は、小さい本がびっしりと詰まった本棚へ歩いていった。興味を引くものがないため、翔吾もそちらへ向かう。
「これ何?」
「小説。ここからここのファンタジーのシリーズをもう一回読むんだ」
「一回読んだのに?」
涼が示した本は、シリーズで6冊あった。これを全て読もうとするだけで信じられなかったが、読んだことのある本をまた読むというのが翔吾には理解できない。
「だって、好きな歌は何回も歌うでしょ」
確かに。いや、そうだろうか。歌と本では違うのではないか。首を傾げる翔吾をよそに、涼は左の二冊を抜き取った。そのまま再びカウンターへと歩いていく。
カードを取って何かを書きこむ涼を、翔吾は本棚の前から眺めていた。涼は、こうやっていつも図書室にいるのか。翔吾が外で騒いでいる間に、こうやって静かにしている人もいるらしい。

「翔吾君、こっち」
涼が図書室の奥、本棚のせいで迷路のようになった場所へ誘う。窓際のそこからは、カウンターも入り口も見えず、驚くほど静かだった。
「いいもの、ここから見えるんだ」
いいものの存在をすっかり忘れていた。秘密めいた雰囲気に、翔吾は一気にワクワクする。
「翔吾、でいいから」
嬉しくなってそう言うと、涼は強く頷いた。そして、翔吾の目をじっと見ると、くるりと窓に向き直った。
「たくさん動くとね、ここがドキドキするから」
ここ、と胸を拳で軽く叩いた。
「マラソンの後にもなるよな」
翔吾の声に、涼が小さく頷く。翔吾は、涼がマラソンの授業を最近は見学していることを思い出した。
「いいものは?」
かすかに見えた時計を確認すると、昼休みはあと10分しか残っていない。いいものがもし気に入ったら、10分では足りなくなるかもしれない。
うん、と言った涼が窓を開けた。
ザーという雨の音が大きくなった。

「聞こえる?」
振り向いた涼の肩が、雨粒でどんどん濡れていく。紺色の制服は丈夫だから冷たくはないだろうが、4年生になっても綺麗なままの涼の制服が濡れてしまうのが気になった。
「雨だろ」
涼の隣で窓辺にもたれかかると、ひんやりとした空気の後に雨が翔吾の顔を濡らした。気持ちがよくなって窓から顔を出すが、さすがに頭が濡れすぎるのでやめた。
ふと、雨の音の向こうにぼんやりとしたざわめきが聞こえてきた。その音を認識すると、今度は笑い声やキュっという音がしっかりと聞こえた。翔吾はこの音をよく知っている。
「うそ、何で」
翔吾や涼の教室から図書室は結構な距離があった。雨の日、教室から走って体育館までは数十秒で、体育館と図書室は全然違う場所にあるはずだ。
「あそこ、見える?緑っぽい色の屋根」
涼の目を追うと、古びた緑色の屋根の一部が見えた。そういえば、体育館の屋根なんて意識したことがないから、どんな色だったか覚えていない。
「意外と近いんだな」
「言ったじゃん」
「こんなに聞こえるんだな」
実際には音はうるさくなかったが、一階の職員室にはもっと響いているのではないだろうか。
でも、と翔吾は眉を寄せた。普段、こんなに音は響いていただろうか。確かに体育館と図書室は近いが、教室からの方がはるかに近い。
「雨だと、こうやってよく聞こえるんだ。晴れだと体育館を使っていないから分からないんだけど」
へえ。耳を澄ますと、短髪のあいつがいくぞー、と叫ぶ声が聞こえてきた。もやっとした嫌な気持ちが広がっていく。翔吾だけ、こんなところにいる。
「あいつら、普通に遊んでる」
出てしまった声は想像以上に情けなかった。
「翔吾、責任感が強いもんね」
隣で涼の顔がこちらを向いた。翔吾は窓の向こうから顔を動かせなかった。セキニンカンって。
「何だよそれ、難しい言葉使うなよ」
え、という涼の声。馬鹿なのにここにいる自分のことが恥ずかしくなった。耳を塞ぎたくなる気持ちと体育館の音を聞いていたい気持ちで、翔吾は焦りだしていた。
「みんなの面倒を見る、しっかりした人ってこと。絶対に翔吾の仕事じゃないのにちゃんと最初に体育館に行ったり、心配したり」
翔吾はふっと笑うとサッシに額を付けた。汚くても冷たくて気持ちがいい。
「嘘だ。俺、元気とか強いとか、そんなのだし」
「うん、でも友だちをいじめたりしないじゃん」
いじめは、しない。そんな発想さえなかった。他のクラスではいじめがあると聞くが、そんなの面倒ではないかと翔吾は思ってしまう。
「そうだけど。俺、一緒に遊んでる奴らにいらいらすることもあるし」
あと4分。
体育館のざわめきが一層大きくなった。

涼が窓を閉めた。図書室の静かな何かがぐわんと襲ってきた感じがした。
「ここでね、こうやって体育館でみんなが遊んでる声を聞いてたんだ」
「一人で?」
「うん、こっそり」
体育館でドッジボールをして遊んできたとき、翔吾はそれ以外の場所で遊ぶ人のことなんて考えたことがなかった。体育館の熱気だけが全てだった。
「楽しいのか、それ」
寂しくならないのか、とは何となく聞けなかった。
「うん、ワクワクする。あ、翔吾が誰かに当てたな、とか音だけで想像するのおもしろい」
「涼も次、雨が降ったらドッジボールしようぜ」
わざわざこんな場所でこそこそしていないで、一緒に遊べばいい。本を読むのが好きなのかもしれないが、たまにはいいだろう。
「ううん、俺はいいよ」
「いや俺、涼とも遊びたいわ」
涼がきゅっと口を小さくして笑う。
翔吾たちと遊ぶのが嫌なのだろうか。翔吾は声を大きくする。
「つまんねえな」
しぃ、と涼が周りを見渡した。ここは図書室だった。
そろそろ教室に戻らなければならない。
「あのね、翔吾」
再び涼が窓を開けた。
「俺と翔吾って全然違うよね」
「俺の方が友だちが多いし、人気者だろ」
「そうだね。だから、俺が楽しいのはここで本を読んだり、みんなが遊ぶのをいいなって聞いてるのなんだ」
羨ましいなら、どうして。翔吾は、体育館から聞こえる音に耳を澄ませた。誰かが絵具セット忘れた、と叫んでいる。
愛おしいという言葉は知らなかったが、何だかいいなと思った。
「うん」
チャイムが鳴った。静かな図書室では、こんなにチャイムがはっきりと聞こえるのかと驚く。
チャイムの音に重なって涼の声がした。
「だから、またあっちで遊んでね」
しばらく思考が停止する。その間に図書室は再び静かになった。雨の音が耳に届く。
こくんと頷いた。翔吾の中に広がっていくこれは何だろうか。嬉しくて頑張ろう、そんな気持ちだ。
「俺、図書室とか無理だわ。やっぱドッジボールだな」
そう言って窓を閉める。
しんとした本棚を抜けると、図書委員に早く出ろと急かされた。本を抱えた涼の背中を押すと、二人で足早に廊下を歩いた。
予鈴から5分後に5時間目が始まる。


冷たい雨が降る日、昼休みに翔吾はドッジボールをして遊んでいた。どんなに盛り上がっても、体育館の床からは冷気が伝わってくる。
今日も翔吾が体育館に走ったおかげで、一番人気のステージ前の一角を確保できた。

不思議だ。相変わらずクラスメイトは翔吾のことを当てにして高学年と交渉しないし、ここでドッジボールをしていたら静けさなんて感じられない。
たくさんの声と音が響く体育館で、翔吾は意外と近い図書室や、学校中の教室を思った。
静かに本を読んでいる奴、集まって喋っている奴ら、他には何をしているのだろう。何でもいいや。
ここは、電気のオレンジ色でいっぱいなのに少しだけ暗い。
体育館にたくさんある扉から薄暗い外が見えると、気持ちが楽になった。




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?