見出し画像

見せかけ、形だけの男女平等

本当の男女平等とは何だろうか。

そもそも男女平等とは何だろうか。


人には「男」「女」という性別の違い以外にも様々な違いがある。

皆得意なことは違うし、この世の人間のそれぞれの得意なことがすべて均衡しているわけでもない。

それなのに平等平等と連呼する。


私が生きる中での意味や責務は何かあるのだろう。そして今この記事を見ているあなたが生きる意味や責務もある。ただ、私とあなたの「生きる意味と責務」はおそらく違うものだろう。そして得意なことも違うだろう。

そんな「私」と「あなた」が、何らかの拍子にいきなり謎の支配者が現れて「君たちは全て平等だ」といわれ、今後全く同じ立場で同じことをやって生きることになったとしよう。

そんなこと受け入れられるだろうか。ただしこれが平等というものだ。

まあいわゆる社会主義的なものなのだが。


ではそんな「私」と「あなた」が異性だったとしよう。すべて同じ立場ですべて同じことをして生きる。別に一緒に過ごすというわけではない。ただ単に全く別のところで生きていても「同じことをして生きる」のだ。今ご自身の性別はあるかと思う。その異性が、自分と何から何までまったく同じ立場で同じことをして生きる。そんなことが可能だと思うだろうか。


無理なのだ。

「みんな違ってみんないい」

よく聞くがどこが出典かよくわからないこの言葉。でも本当によく言ったもので、これは的を得ている。

みんな違う。得意なことも役割も苦手なことも、全部違うのだ。だからこそ意味がある。


それこそ極端に言えば、「女」の得意なことがあれば苦手なこともある。「男」も得意なことがあれば苦手なこともある。好きなことも大まかに違うだろう。その性として生きる上での機能も違う。でもだからこそ「意味」がある。


それを今、無理やり男女平等にしようとしているように見える。


先日新聞で見たのは、男女の議員数についてだ。

「議員 男女 割合」と検索して「ニュース」の欄を見るとこれでもかと「男女格差が大きい」「男女均衡遠く」「女性○○%」などと出てくる。

中には「女性5割弱」「クオータ性」などという言葉が入ったタイトルまで出てくる。


私は思う。女性議員はいる。立候補年齢も男女同じ。

つまり女性の議会参加の扉は開かれている。それだけで平等のはず。


大学入試で問題になった「女性を落とす」問題も話題になった。

でも議員については考えてみてほしい。議員を選ぶのは選挙区内の老若男女だ。どちらかに偏っているわけでもない。年齢も男女に差はない。


出馬した後の当選するかどうかはその人次第だろうと。


そもそも立候補の時点で女性が少ないじゃないか。そんなの当選議員も女性が少なくなるに決まっている。

「女は立候補するな」とも言われているわけでもなかろうに。ただ単に女性が立候補していないだけだ。それなのにメディアは議員男女差を問題に上げる。


これではまるで女性に対して「女はもっと立候補しろ」と言っているようなものではないか。

「男女平等」という形を体現したいがために、結局女性に「出馬強制」しようとしているだけじゃないのか?また女性に負担を強いているのではないか?

議員になりたい人もいれば、頼まれても絶対に議員になりたくないという人もいるだろう。

ただ単にその考えの差が男女差になっているだけではないのか?



企業でもそうだ。

管理職に男性が多く女性が少ない。だから女性を管理職にすればその企業は男女平等として優良企業と言われる。企業のイメージアップ。

しかし、管理職になりたい女性はどれだけいるのだろうか。今は男性であっても管理職になりたくないと答える人が多いのに。

少し古いが2020年の統計だ↓

『8割超の一般社員が「管理職になりたくない」と回答。その理由とは?』https://www.manpowergroup.jp/client/jinji/20200316.html

しかも女性の方が「管理職になりたくない」と答えている。

しかし男女平等を掲げているなら均衡(5-5)になるべきだ。


つまり「女性の意見を無視している」という事になる。

ちなみにうちの母は下の方の管理職になったが、それ以降鬱気味である。若くもないのに若い女性もいないし、無理やりならされたという。


組織が男女平等を掲げても、男女の差はある。思いも違う。得意なことも苦手なことも、生きる上での大変さも違う。


私たちは「違う」のだ。


それを無理やり体現し、話題に上げるとこうなる。↓

「男の方が大変だ」「女の方が大変だ」


これを見る度に非常に残念な気分になる。

なぜお互いの大変さを理解し合えず、「自分の方が大変だ」と被害者意識を持ってしまうのか。


私はこれが見せかけの平等の副作用だと思っている。


お互い大変なら支え合えばいいだけじゃないか。相手の苦手な部分を自分が補ってあげて、自分の苦手な部分を相手に補ってもらえばいいだけじゃないか。

お互い大変で、お互いに大変な部分が違う。だからこそ、その部分を御互いに補い合う「役割分担で支え合う」ことが必要なはずだ。


「平等」はこれを壊す。


「「俺」の「私」の辛さをお前も味わえ。」

「こっちが少ない、こっちが多い。だからもっと数を合わせろ」


得意なことも考慮しないで、ただ「平等」という「形」だけを作ろうとする。

男女でいがみ合う。

得意なことは違うのに、役割分担もさせてもらえないで、無理やり「平等」を作り出す。

そう、見せかけだけの、形だけの男女平等。



なんか社会主義になってない?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?