人間であることの苦悩、人間であることからの解放、あるいは逃走 ー 映画『怪物』について
誰が「怪物」なのか。「怪物」とは何か。この映画は怪物を巡る問いに覆われている。「怪物」とは一体何だろうか?
一つだけはっきりしていることは、「怪物」は「人間」と対立する存在だということだ。非人間である存在を、人はときに「怪物」と呼ぶ。
「豚の脳の人間は人間か?」
冒頭でこのような問いがあった。
湊の母である早織は「人間じゃないんじゃないかな」というように答えた。
「人間」ではないのであれば一体何か。それは「怪物」ではないだろうか?
また、依里の父である清高は「息子の頭には豚の脳が入っている」というようなことを言っていた。そしてそれを治療するとも。これは「怪物」から「人間」に治療すると捉えられるだろう。
・「人間」と「怪物」の物語
「人間」と「怪物」を題材にした物語は古くからある。
例えば『美女と野獣』がそうだ。この物語は「怪物」が「人間」になる物語。「怪物」は段々と「人間」になっていき、最終的には姿までもが「人間」になる。「怪物」は「怪物」であるから愛されたのではない。「人間」になっていったから愛されたのである。そして「怪物」は消滅する。
SFの原点ともされている、メアリー・シェリーの小説『フランケン・シュタイン』はどうだろう。これは「人間」と「怪物」の脱構築のようにも思える。「怪物」に人間性があり、「怪物」は人間的な徳や幸福や愛を求めていた。そして「人間」に怪物性があるようにも思える。しかし、ここでも「怪物」であることは忌避されている。「人間」はもちろん「怪物」を忌避し、「怪物」も人間的な徳や幸福や愛を望む。また、「怪物」に人間性があり、「人間」に怪物性があり、「人間」と「怪物」の境界が揺らいでいるとしても、「怪物」はネガティブな要素として扱われている。
では、映画『怪物』はどうだろうか?
この映画では、「人間」であることの苦悩と、「人間」であろうとすることの執着がもつ怪物性、そして、人間からの解放、あるいは逃走が描かれていると、私は思う。
・「人間」であることの苦悩、「人間」であろうとすることの執着
早織からの質問をはぐらかし、事なきことを得ようとする校長や教員達は何にを保とうとし、何にしがみつこうとしたのか。
また、早織は校長や教員達にどうあることを望んでいたのか。
保利の恋人である広奈はなぜ保利から離れたかのか。
もう一度清高のことについて触れよう。彼は息子を何にしようとしていたのか。
依里の放火の理由についても考えよう。「お酒は健康によくない」確かこのような理由だった。放火は「怪物」の行為だろう。しかし、健康は実に「人間」の目指すところではないだろうか。
「人間」を「普通」と言い換えることもできるだろう。しかし「人間」と表現することは、「普通」と表現するよりも重いと感じる。「人間」と「怪物」という対立は、ある存在を人間ならざる者とするからだ。
誰もが「人間」ではなくなることを恐れ、「人間」であることに執着し、そして人に「人間」であることを求めている。
・「人間」からの解放、あるいは逃走
街から外れた山の廃トンネルの向こう側と、そこに放棄された廃列車、それが湊と依里の居場所だった。
これはどういう場所といえるか。それは、「人間」の外側といえるだろう。
街と山とでは、もちろん街が人間の居場所だ。また、「廃」は人間から捨てられたものである。湊と依里の居場所は廃トンネルによって「人間」の世界から隔てられている。スピッツの『ロビンソン』と『見っけ』を想起させられもする。
そこにはもはや「人間」も「怪物」も存在しないのだろう。
物語の途中で湊は葛藤するものの、この場所において湊と依里は「人間」から解放されている。
ただ、気になるのはラストだ。ラストでは湊と依里は死んでしまったと解釈することも可能である。「人間」からの解放、あるいは逃走が、死であることほど悲しいことはない。「人間」からの解放、逃走は生を肯定する為にあるべきだ。
・どうすれば「人間」から解放されるか。
大昔、恐らく私たちはただ生きているだけであった。ある時から「人間」という概念が発明された。それは今も必要なことであり、逃れることはできない。いくらかでも「人間」から解放されることはできないだいだろうか?「人間」と「怪物」の対立を超えることはできないだろうか?
この映画はクィア・パルム賞を受賞した。
クィアとは、「奇妙な」「風変わりな」「変態」など蔑称の言葉であった。しかし、当事者達はこの言葉を肯定の言葉として使用した。
ここに生を肯定する「人間」であることからの解放の可能性があるのではないだろうか。もしくは「人間」と「怪物」を対立させるのではなく、両立させることができるかもしれない。先程例として出した『美女と野獣』ならば、「怪物」は「怪物」のままということ。「怪物」は消滅しない。
・この映画は「怪物」的か?
しかし、この映画自体が「怪物」的ではないとも感じた。
それは、映画を美しくしようとする意図が、起因になっているのかもしれない。
依里は一般的な男子の服装とは違い、可愛らしい服を着ていた。いくらフィクションとはいえ、「人間」に治療すると称して虐待をする父親が、あの服を与えるだろうか?これは無理があるのではないかと思う。それもあり、依里には、特にマジョリティが抱いている、美しいマイノリティ像が反映されているように感じてしまった。
また、廃トンネルの向こう側、湊と依里の居場所についても、美しかったのだが、それは既存の美しさの概念に収まるような美しさだと思った。既存の美しさを揺るがすような、「怪物」的な美しさではなかった。
そういった意味では、この映画はトンネルの向こう側ではなく、「人間」の側にある映画だと思った。
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