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ひかげのたいよう#8

“言いなりになるしかなかった私”

 私たち四人を私立の中学へ進学させたがった両親は、私たちを近所の塾へ通わせた。両親のこの選択が私を苦しみの闇へと導いてゆく。この闇の入口が、奇しくも歌との運命の出逢いを果たした小学三年生の時だったのだ。この闇は一体どれほど深いのか。それを知るには、しまい込んでいた過去の記憶を呼び起こす必要があった。
 一つ目は、再婚によって姉弟になった、出来の良い弟との関係だ。姉弟である私たちは、学校へ行けば同級生にもなる。血の繋がりのない同い年の姉弟に、そんなことを知りもしない同級生たちは、自分がどれだけ不躾な質問をしているのかも知らずに
「同い年なのに双子じゃないってどういうこと!?」
とよく聞いてきたものだ。最初は包み隠さず全てを話していた。そのうちに毎回同じ話をするのが面倒になり、似てないけど双子だと言い張るようになった。
「兄弟なのに全然違うな。」
と言われるたびに、そりゃそうだと心の中で相槌を打った。たまたま私の方が誕生日が早いから姉になっただけのこと。好きで姉をやっているわけじゃない。頭も良く人当たりもいい弟との関係性が、私の性格を余計に捻じ曲げていった。
 二つ目は、塾と受験だ。何故その学校へ行かなくてはならないのか。何故塾へ通うのか。何の説明もなく、言われるがまま始まった塾通い。最初はついていけていた。問題が解けることに喜びも感じた。けれど学年が上がるにつれて授業数が増えていき、難易度が高くなる。私の頭では追いつかないレベルに到達すると、表現しようのない感情に全身が引き裂かれそうになっていく。テスト結果が全ての世界だ。結果が出せない私は落ちこぼれでしかない。窮屈な毎日に嫌気が差していく。
「弟はできるのに。やっぱお前は出来が悪いな。」
 ありもしない周囲の視線を勝手に作り上げ、自分自身に突き刺した。自ら作り上げたプレッシャーに押し潰されそうになるのを、なんとか堪える毎日だった。
 六年生にもなると受験勉強も大詰めで勉強についていけなくなってくる。受験は戦争だ。勝つか負けるか。それだけだ。置いて行かれないように必死にくらいついたが、小学校最後の冬休みを迎える頃には、その必死さも通用しなくなっていた。どれだけ勉強が嫌いでも、“あの人”にやれと言われればやらざるを得ない。今にもはち切れそうな全身に走る強烈な痛みに耐えながらも
ーなんでこんなに勉強しなきゃいけないんだろう。
 そんな漠然とした疑問が頭から離れなくなった。心も頭もこんな状態では、勉強にも身が入らない。自分の置かれている状況を把握しようと、必死でその答えを探すのだけれど、その姿さえも“あの人”にはやる気がないように見えてしまう。
「もうすぐ受験なのにやる気あんのか?何の為に高い金払って塾に行かせてると思ってんだよ。」
 歌も、友達と遊ぶ時間も奪われた私には、やる気なんてあるはずがなかった。命令されたことにただ従っているだけだ。そんな私にどうしてやる気があると思うのだろう。“あの人”の言葉にはいつも驚かされる。それはそちらが勝手に決めたことですよね?お金を出すと決めたのもそちらのはずですよね?そう突っ込みたくなる気持ちをぐっと堪えた。ここでやる気がないと言えば、炎上は必至だ。そうなれば自分の身に危険が及ぶことはわかっていた。さすがの私もそのくらいは学んでいる。本音をぐっと押し殺して
「あります。」
 虚偽の発言をした。精一杯本音を隠したはずだったのに、思っていることが顔や態度にでやすい性格が仇となる。声が小さいだの、表情が気に食わないだの、結局“あの人”の怒りは大炎上するのだった。
ーああ、また始まった。
 今日は何時間コースだろう。夜ご飯食べられるかな。怒られながらも頭の片隅ではそんなことばかり考えた。それ以降、勉強する時は父の監視がつくことになった。私の父親になったばっかりにこの人も大変だな、と同情すら覚えた。我が家の運命はいつだって“あの人”の手中にある。歯向かって家全体が殺伐とした空気に包まれるよりは、心を殺して言われた通り従ってるほうがましだ。けれど流石にこの時ばかりはシャーペンを握った手も動く気配をみせず、そればかりか、この状況に納得がいかないと文句を並べた。
「勉強したくない。やりたくないけど、勉強しなきゃ“あの人”に怒られる。でも勉強したくない。わかんない。」
 この時の私の脳みそは、パンク寸前だ。やりたくない。でもやらないと怒られる。でもやりたくない。でも、でも、でも。堂々巡りだった。そんな埒が明かないことをぐだぐだと言い続けた。すると次の瞬間、痺れを切らした父が珍しく怒鳴り声を上げた。
「いつまでそんなこと言っとるんだ!」
 その言葉の勢いのまま、力を込めた右手を私めがけて振り下ろした。滅多に怒らない父のカッとなった姿に、私は言葉を失った。父のビンタの威力はすさまじく、鼻からはぼたぼたと血がこぼれ落ち服を汚した。鼻を押さえる両手は一瞬で血まみれになった。あまりにも突然のことに驚き、言葉にならない声で泣き喚いた。血も涙もとめどなく溢れる。だんだんと呼吸が苦しくなり両手が硬直し始めた。指先を動かそうとしてもびくともしない。一体どうなってしまうのかという恐怖が私を襲った。私はその場を離れて洗面所へ向かった。泣きじゃくりながら鼻を摘まみ、洗面台に滴る血を水で洗い流した。そこへ帰宅した“あの人”が目の前の状況に呆気に取られていると、後ろから慌てて現れた父が一部始終を説明し出した。あまりにも勉強したくないと言うものだから叩いてしまった、ついかっとなったと。意外にもこの時“あの人”は怒らなかった。鼻血は止まり、頬の痛みも徐々に引いていく。しかし頬よりも痛んだ私の心は、いつまでも癒えることはなかった。
 大好きな合唱団の練習を諦めてまで勉強をさせられている理由を、私は知らなかった。高いお金を払って、やりたいことを我慢してまでも行く価値のある場所なのだと説明してくれていたら、勉強に向き合う姿勢もちょっとは変わっていたかもしれない。けれど“言いなりになるしかなかった私”には、その理由を探し出す猶予など与えてもらえない。
ー本当はあっちの道に進みたかったのに。
 そんな叶わない望みをいつまでも抱えたまま、“あの人”の支配下を生きていかざるを得なかった。

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