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どこまでも踏み込んでくる人への対策は「話せばわかる」の限界を知ることなのかも

この1か月。あることについてずっと考えていた。

どうして私はこんなにも昭和の価値観の男性と上手くやれないんだろう。昭和の価値観の男性?男性性の強い人??極端に言えば「女性は賢い必要はなく、黙って若く可愛く男性の言うとおりにしておけばいい」的な振る舞いに対して、どうして私はこんなにも毎回つまづいてしまうんだろう?と。

昭和の価値観。
戦争を生き残った大人によって教育を受けた人たちが、まだまだ年功序列に従って、会社や社会の上位を占めている今の日本では、「長いものに巻かれる」「お上が何より正しい」というような、軍人体質?体育会系?のような精神性がまだまだ無意識の中に深く深く残っている人もいる。

もちろんそうでない人もいるけど、今は時代の過渡期で、そういう前時代的な人達が権力のある立場に多く居る事は仕方ない。そして、会社を辞めても社会と何らかの形でかかわっていかざるを得ない以上、そういう人から逃れることは出来ない。

じゃあどうする???
その方法を考えることにした。

私がうまくいく人との関係は、踏み込めないサンクチュアリがお互いにある人かもしれない。大好きだから、いい意味で「これ以上は敢えて踏み込めない。」というサンクチュアリがお互いにある感じ。それは敬意や尊敬と同義かもしれない。

逆に私が昭和を感じる相手は、自分の利益(それが金銭的なものだったり、時間やストレスをぶつけるなど無形の物も含む)の為に、どこまでも踏み込んできて、こちらが妙に振り回される感じがする。

途中で「それはちょっと・・・」とこちらが言っても、立場の差やマシンガントークや「体育会系だからそういう話し合いの文化は無い」など様々な理由で結局踏み込んでこられて、結局、譲歩し続けたり、金銭的にも時間的にも気力や体力的にも必要以上に自己犠牲を払ったり、違和感を持ちながら相手の言う通りにし続けたり、疑問があるのに、質問する事が許されずにモヤモヤしたりして、我慢し続けるしかない自分の不甲斐なさに凹んだり、振り回されて疲れたり傷ついたり、振り回されたり傷つく予感しかなくて逃げざるをえなかったり。

どうしてそういう関係になりがちなのかと考えると、やはり私に隙があるからなのだと思う。

「隙」と表現すると、自虐的に聞こえてしまうかもしれないけれど、言い換えると、自分の中に「話せばわかる」という前提条件が無意識のうちにあったのかもしれないな、と思った。

私は子供の頃から好奇心が強く、自分と違う物や考え方に触れるのも刺激的と感じて比較的好きで、学生時代の授業も民俗学や文化人類学が一番好きだったし、今でも民藝等の土着の文化も大好きで、海外にもとても興味があるし、たいがいのゲテモノも割と食べられる。だから誰かとお互いの意見が違っても「へぇ♪そういう見方もあるのか―、面白い!」と捉えるのが普通だと思って生きてきた。

けれど、改めて自分が誰かと上手くいかないパターンを振り返って大別してみると、世の中には、話し合ったら「常に偉い人の意見に統一しなければならない」とか、「例え丁寧でも断られたり、条件を提示されるなど、自分の意見がそのまま通らずに話し合いの場を持たれること自体、相手から舐められている証拠」とか「常に自分が正しくて他の人が間違っている」と思う人もいるし、思考を深めることや気持ちや考えを言語化する事自体、難しかったり嫌だと感じたり慣れてない人もいる。また、全くの別パターンでは悪気なく見事に地雷を踏んでまわる人もいる。

これまでの私の中にずっと頭では分かりつつも、そういう風に無意識で振る舞う人達もいるのだ、という視点が腑に落ちる所まで行かないまま、今までズルズル来てしまっていたかもなぁ、と今回改めて気がついた。そして気がついたらなんだか妙にスッキリして、怒りやモヤモヤや自分の不甲斐なさへの落ち込みが徐々に晴れてきた気がした。

これまで私は昭和の価値観の相手に対し、私は入ってしまった人間関係のヒビをどうにか修復しようと、必死で話し合い、自分の気持ちや考えや状況を言語化したり図解化したり、自己開示してみるなど、どうにか話し合いで解決しようとしていた。・・・そりゃ、こじれるわ😂

そして実際、私がもがけばもがくほど相手に私の情報を与え、結果、ツッコむ余地を与えてしまう。そうして論点がズレたまま重箱の隅をつつかれるような展開になったり、そうでなくても、私が言語化したことが言葉尻を捉えられてやぶへびになったり、話し合いの場を持ったことによって、ますます泥沼化し、私自身、どんどん傷を深めて傷つき疲弊していく、というのが毎回の失敗パターンなことにふと気が付いた。

「話し合う事の限界を知る。」少し前に書いた「戦略的ミステリアス」にも繋がる部分があるけれど、話し合う事の限界を知っておくこと。そしてそういう不条理や割りきれなさや混沌も含めて「世の中」であり、「人生」なのだということ。話し合う余地が無い人に自分の情報を与えない為に敢えてミステリアスでいる事。そういうポジティブな意味での諦め。

「あはは!秘密ですww」「どうでしょう。難しいですね」なーんて敢えて濁したり、悪気なく地雷を踏む人から言われた事をいつまでもクヨクヨ気にしても意味がないわけで、例えば「あ、今ムカつきながら凹んでるなぁ」等、一度自分がどう感じているかに集中したら、後はもう何も考えない」など、敢えて正面から向き合わない選択肢を複数持ち、もっと積極的に使っていくことも、全然不誠実では無いし、むしろ処世術においては結構大事な手法なのかもしれないなぁ、と改めて思う😝

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