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唐帝国の衰退:安史の乱

中国歴史上には三つの大きな事件があります、それぞれは
秦始皇帝の天下統一(封建制度の終わりと中央集権の始まり)、
唐の安史の乱(中原王朝対外拡張の終わり)、
南宋はモンゴルに滅亡させられた崖山の戦い(相対君主制の終わり、絶対君主制の始まり)

755年〜763年、唐の節度使(地方軍区司令)「安禄山」と「史思明」が引き起こした大規模反乱です。

この反乱は中国歴史の行方を大きく左右した非常に重要な事件であり、強き唐王朝を衰退に導き、同時に唐王朝の西拡張も止められました。

安史の乱前まで、唐帝国はずっと西へ勢力範囲を伸ばしてきました、751年アラブ帝国との間で中アジア地域の支配権をめぐり戦争もありました。戦争の結果は唐の負けでしたが、それほど大きな傷ではありませんでした、唐軍は再戦の準備もできていました。

タラス河畔の戦い:唐とアッバース朝の間で中央アジアの覇権を巡って行われた天下分け目の戦闘

つまり、安史の乱までに、中国はずっと勢力範囲を対外拡張していました。しかし、安史の乱により精鋭部隊を国境から撤退させ反乱鎮圧に使われたため、中央アジアの維持ができなくなりました。

「安史」の反乱軍の戦闘力が非常に高く、「安禄山」は三つの節度使を兼ねて、18万精鋭部隊を所有していました、一方唐中央軍は12万人しかなく、しかも戦闘経験がほとんどありません。そのため、反乱軍はすぐ長安、洛陽を制圧し、皇帝が蜀に逃げました。

反乱軍と対抗するため、大量な国境精鋭部隊が使用された結果、国境地区が全て失い、西南4つの地域が全て吐蕃(チベット)に奪われ、中原民族の影響力が縮小させられました。

のちにこの地域は強くなった「回鶻人」の勢力範囲となり、しかもイスラム教に帰依しました、これも今日の中国西北部イスラム文明の影響力が強い理由です。

755年安史の乱が起き、907年唐滅亡までの百数年間、唐王家の力が弱まり有名無実な状態が続いており、後の「五代十国」の乱世に入りました。この一連混乱の始まりは「安史の乱」でした。



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