ロシア語をやり直してドストエフスキーを読破した話

先日、ドストエフスキー『罪と罰』を読了した。結果的に要した時間は3カ月くらい。今回は全体の取り組みの総括としてこの記事を書いている。『罪と罰』は、社会正義のために人を殺した主人公が、自らは考えもしなかった良心の呵責に苦しみ、ほとんど完全犯罪に近い形で殺人を遂げたにもかかわらず、最後は自首してしまう話だ。(ざっくりすぎでしょ)

『罪と罰』を原書で読むことになった経緯は、去年の夏に書いた。

まさか、この記事の半年後に読破してしまうとは思わなかったが、ロシア語を久しぶりに勉強し直して、原書が読めるくらいまで読解力が戻り、丁寧に読む時間を確保できたといういろいろな偶然が重なった結果の読了だった。

私がロシア語をやり直したのは去年の11月で、『罪と罰』の原書を読み始めたのが、その月の末くらい。本格的な文学に入る前の助走として100時間くらいロシア語の文法や語彙やその他もろもろのカンを取り戻すのに使った。そのときにやった具体的な勉強法も記事に書いた。

『罪と罰』は全体が6部とエピローグという構成で、それぞれの部はさらに5~8くらいの章に分かれている。私は一度に一章をだいたい1時間~1時間半くらいかけて読んでいった。読む精度を保つのにちょうどいい時間だった。
実際に原文を読んでいると、難しいと思う部分もあれば、流れるように文意が伝わってくる部分もあり、言葉の使い方に対して「上手い」とか「美しい」とか感じる部分もあった。なかなか馴染みのない表現に出くわして調べてみると、思いもよらぬ発見があったりもして、そのあたりは楽しんで読んだ。これから印象に残った文をいくつか挙げてみる。なお、日本語はすべて拙訳である。

Такова уж черта моя! Знаете ли, знаете ли вы, государь мой, что я даже чулки ее пропил? Не башмаки-с, ибо это хотя сколько-нибудь походило бы на порядок вещей, а чулки, чулки ее пропил-с! Косыночку ее из козьего пуха тоже пропил, дареную, прежнюю, ее собственную, не мою; а живем мы в холодном угле, и она в эту зиму простудилась и кашлять пошла, уже кровью. Детей же маленьких у нас трое, и Катерина Ивановна в работе с утра до ночи, скребет и моет и детей обмывает, ибо к чистоте сызмалетства привыкла, а с грудью слабою и к чахотке наклонною, и я это чувствую. Разве я не чувствую? И чем более пью, тем более и чувствую. Для того и пью, что в питии сем сострадания и чувства ищу... Пью, ибо сугубо страдать хочу!


これが私の性分なんです!あの、あのですね、あなた、私は家内の靴下まで飲んじゃいましたよ。靴ならまあ少しはあることかもしれませんが、靴下ですよ、靴下まで飲んじゃったんです!山羊の毛皮でできたスカーフも飲んじゃいました、もらいものでね、家内が昔からもってた、私のじゃない。私たちの部屋は寒くてね、家内はこの冬に風邪をこじらせて、ついには血痰まで出るようになってしまった。子どもは小さいのが三人、カテリーナ・イヴァノーヴァは朝から晩まで、床を磨いて、服を洗って、子どももきれいにしてと働き通し、なんでも小さい頃からきれい好きでいるもんですから、結核を患って衰弱した肺でね、それが私には分かるんです。分からずにいられますか!だから飲めば飲むほど、それが気にかかる。苦悩と情を求めて飲んでいるのです…とことん苦しみたいから飲むんです!

これは第一部第二章に出てくるマルメラードフのセリフ。彼は整理解雇された役人なのだが、自らの貧困に打ちのめされて、ひたすら酒に溺れた生活を送っている。普通、何かを忘れるために飲酒をするものだと個人的には思うが、筋金入りのアル中は違うようだ。もう事態が絶望的なのだから、いっそ一番下まで落ちてやろうじゃないかという自暴自棄になる心理を的確に描いている。滔々と貧窮を訴えるマルメラードフを自業自得でしょとは一蹴できないところが妙だ。私はあまり酒はやらないのだが「苦しみたいから飲む」というのは実際のところどうなのか、アルコールを嗜む人の意見を聞いてみたい。

Ни одного мига нельзя было терять более. Он вынул топор совсем, взмахнул его обеими руками, едва себя чувствуя, и почти без усилия, почти машинально, опустил на голову обухом.

もう一瞬たりとも無駄にできなかった。彼は斧をすっかり取り出し、両手で振り上げ、かろうじて意識を保ちつつ、ほとんど力もこめず、ほとんど機械的に、峰の方で頭に振り下ろした。

第一部第七章で主人公ラスコーリニコフが老婆を殺害するシーン。とにかく臨場感が半端ない。ドストエフスキーは人殺しの経験があったのだろうかと思うくらい、息のつまる犯行の場面。人を殺すところなのに文章が音読したくなるくらいにリズミカル。ちなみに斧の峰の方で殺したというのがひとつポイントで、老婆を殺した際に斧の刃が向いていた先のラスコーリニコフこそ、メタファーとして真っ二つになったのではないかという分析がある。実際、犯行後からラスコーリニコフは理性と感情、精神と身体が乖離しているかのような言動を繰り返している。

Я не тебе поклонился, я всему страданию человеческому поклонился

僕は君に跪いたんじゃない、すべての人類の苦悩の前に跪いたんだ

第四部第四章で、ラスコーリニコフがソーニャに対して言ったセリフ。この作品でも屈指の名言である。ソーニャはマルメラードフの娘で、貧しい家族のために娼婦に身を落とした少女。2024年に読むと、ソーニャは「パパ活で生計を立てざるをえないヤングケアラー」なのだと考えてしまうが、継母のカテリーナ夫人は毒親でこそないものの、没落した貴族で、生活能力がなく、かといって生活水準を下げることができないまま貧困に苦しんでいる。3人の子どもと病気の母を自分が支えるために春を売って糊口を凌いでいるという絶望的な状況にソーニャはいる。「なぜこの環境で自殺しないのか、正常な精神を保ったままでいられるのか」とラスコーリニコフでなくとも考えるだろう。彼は人々の苦悩を代表する人物としてソーニャの前に膝をついた。

неужели ж нет справедливости! Кого ж тебе защищать, коль не нас, сирот? А вот увидим! Есть на свете суд и правда, есть, я сыщу! Сейчас, подожди, безбожная тварь! Полечка, оставайся с детьми, я ворочусь. Ждите меня, хоть на улице! Увидим, есть ли на свете правда?

正しいことなんて本当に存在しないのでしょうか!私たち孤児でなければ、いったい誰を主は守ってくださるというのです?分かるでしょうとも!この世には裁きも正義もあります!今は待っているがいい、恥知らずめ!ポーレチカ、みんないっしょにいるんだよ、私戻ってくるから。外に出されてもいいから待っといておくれ!見てみようじゃないの、この世に正義があるかどうか?

第五部第五章から、カテリーナ夫人のセリフ。夫の葬式の後の食事で、ひと悶着が起き、大家から部屋を追い出されてしまったカテリーナ夫人が、まだ貴族だったころの伝手らしきものを頼って「正義」を探しに駆け出していくシーン。『罪と罰』が書かれた19世紀のロシアは農奴解放によって伝統的な社会の変動が起き、貴族が貴族でいられなくなりつつある時代。社会の変動に対応せず、あくまでも貴族的な方法で訴えるカテリーナ夫人は読んでいると憐れすぎてやりきれなくなる。

То-то наплевать! Изверились, да и думаете, что я вам грубо льщу; да много ль вы еще и жили-то? Много ль понимаете-то? Теорию выдумал, да и стыдно стало, что сорвалось, что уж очень не оригинально вышло! Вышло-то подло, это правда, да вы-то все-таки не безнадежный подлец. Совсем не такой подлец! По крайней мере, долго себя не морочил, разом до последних столбов дошел. Я ведь вас за кого почитаю? Я вас почитаю за одного из таких, которым хоть кишки вырезай, а он будет стоять да с улыбкой смотреть на мучителей, — если только веру иль бога найдет. Ну, и найдите, и будете жить. Вам, во-первых, давно уже воздух переменить надо. Что ж, страданье тоже дело хорошее. Пострадайте. Миколка-то, может, и прав, что страданья хочет. Знаю, что не веруется, — а вы лукаво не мудрствуйте; отдайтесь жизни прямо, не рассуждая; не беспокойтесь, — прямо на берег вынесет и на ноги поставит. На какой берег? А я почем знаю? Я только верую, что вам еще много жить. Знаю, что вы слова мои как рацею теперь принимаете заученную; да, может, после вспомните, пригодится когда-нибудь; для того и говорю. Еще хорошо, что вы старушонку только убили. А выдумай вы другую теорию, так, пожалуй, еще и в сто миллионов раз безобразнее дело бы сделали! Еще бога, может, надо благодарить; почем вы знаете: может, вас бог для чего и бережет. А вы великое сердце имейте да поменьше бойтесь. Великого предстоящего исполнения-то струсили? Нет, тут уж стыдно трусить. Коли сделали такой шаг, так уж крепитесь. Тут уж справедливость. Вот исполните-ка, что требует справедливость. Знаю, что не веруете, а, ей-богу, жизнь вынесет. Самому после слюбится. Вам теперь только воздуху надо, воздуху, воздуху!

それこそが唾棄すべきことですよ!あなたは自信を無くしたから、私が下手におだてたと考えるんです。あなたはどれだけ長いこと生きてきました?多くを理解しているんですか? ある理論を考え出したが、ごくごくありきたりな結果に終わったので恥ずかしくなった!卑しいのは確かだが、あなたは望みのない卑怯者ではない。そんな卑怯な人では断じてないのです!少なくとも、長いことぐずぐずしていないで、一度に最後の柱まで到達した。私があなたをどのような人間に見てると思います?もし信仰か神を見出せば、たとえ腸が引きちぎられても、立って迫害者を笑って見てるような人物だと私は考えているのです。さあ、見出しなさい、そして生きるのです。あなたには、まず、とっくに空気を換える必要があったのです。なに、苦しみもまたよいものでしょう。苦しみなさい。ニコライも、もしかしたら、苦しみを望むのは正しいのかもしれません。信じてないのは分かっています、でも小賢しく考えないで、人生をそのまま委ねなさい。心配いりません、ちゃんと岸に着いて足場を用意してくれます。どんな岸ですって?私に何が分かります?私はただ、あなたにはまだ多くを生きなければならないと思っているんです。あなたがわたしの言葉を今や棒暗記した説教のように考えていることは分かっています、しかしもしかしたら後々思い出していつの日か役に立つのかもしれない、そう思うからこそ話しているんです。あなたは老婆を殺しただけだったからまだよかった。もし別の理論を考えていたら、まだまだ一億倍もひどいことをしでかしていたかもしれませんよ!それだけでも神に感謝しないといけません、もしかしたら神はそのためにあなたを守ってくれたのかもしれません。あなたは偉大な心をお持ちだから、恐れるものも少ないでしょう。これから来る偉大な行いに恐れをなしたのですか?いえ、ここで尻込みするのは恥ですよ。このような一歩を踏み出したからには、踏みとどまりなさい。そこに正義があります。正義が要求することを遂行するのです。あなたが信じていないのは分かっています。大丈夫です、自分でもそのうち肌に合って来ますよ。あなたには今、空気が必要です。空気、空気ですよ!

この小説で一番といっていいほど好きなところなので、下手な訳を承知で載せた。第六部第二章でのポルフィーリ―のセリフ。老婆の殺人という罪を犯したラスコーリニコフには物的証拠がないが、予審判事のポルフィーリーは彼が犯人に違いないと考え、様々な手を駆使してラスコーリニコフを追い詰めていく。この場面はポルフィーリーとラスコーリニコフの三度目の対決のところで、これまでラスコーリニコフを散々挑発し、愚弄し、煽りに煽ってきたポルフィーリーが、罠にはめて言質を取るのではなくて、ラスコーリニコフの今の精神状態や将来を思えばこそ、自白しなさいという真向勝負で説得にかかっている。「信じてないのは分かってます」と何度もいうところにポルフィーリーはラスコーリニコフに過去の自分を見てるのではないか。このセリフのあとに、ラスコーリニコフが「あなたは何者なんです?」(Да вы-то кто такой?)と尋ねていて、それに対してポルフィーリーは「私が何者かですって?私は終わってしまった人間です。それだけです。感じもし、同情もするし、なにかしらの知識もあるかもしれないが、もうとっくに終わってしまった人間です」(Кто я? Я поконченный человек, больше ничего. Человек, пожалуй, чувствующий и сочувствующий, пожалуй, кой-что и знающий, но уж совершенно поконченный)と答えている。ポルフィーリーの過去が気になる。スピンオフ希望。 

Иду. Сейчас. Да, чтоб избежать этого стыда, я и хотел утопиться, Дуня, но подумал, уже стоя над водой, что если я считал себя до сей поры сильным, то пусть же я и стыда теперь не убоюсь, — сказал он, забегая наперед. — Это гордость, Дуня?

「行くよ。すぐに。そうさ、この恥辱から逃れようと僕は川に身を投げようとしたんだよ、ドゥーニャ、でも川を見下ろして立ってたとき、こう思ったんだ。これまで自分を強い人間と見なしていたのなら、今さら恥辱を恐れることはないじゃないかって」ラスコーリニコフは先回りして言った「これが誇りなのかな、ドゥーニャ?」

第六部第七章でラスコーリニコフがドゥーニャに話したセリフ。「行くよ」の目的地は警察のことで、彼が自首へと向かう際に起きた心の変化が垣間見える。この時点でもラスコーリニコフは自分が罪深いことをしたとは考えてないようだが、傷ついた自尊心は回復し始めている。

まだまだ気に入った場面はあるのだが、このくらいにしておく。少し話は変わるが『罪と罰』を読み終わったあとに、youtube に上がっていたこの作品のドラマを見た。



原書読んですぐ見るとおもしろい。ラスコーリニコフの部屋がそんなに狭くないように思えたりとかラズミーヒンの言動がザ・陽キャで笑ってしまったとか、スヴィドリガイロフがけっこう常識人に見えたりとか、ロージャのお母さんが美人すぎたりとか、ポーレンカが可愛すぎたりとか、本を読んでるときとは全然違う感情が沸き上がって来て楽しかった。原作に忠実ではあるが、終盤は息が切れたのかちょっと端折り過ぎではと思わないでもなかった。

最後に、原書を読むために必要な語学力について考えたい。原書を読むという行為は、かなりの力を必要とするのには間違いないが、極端な話、スピーキングやリスニングやライティングのスキルはなくても読めるので、リーディング一点突破で原書を読むのは可能かもしれない。必要なのは大きく分けると、文法と読解力、そして語彙だろうか。文法に関しては参考書を一冊体系的に知識を押さえておくのは絶対に必要で、その上に自分で訳読をするトレーニングもいる。例えば он の造格が им であることが知識として分かっていても、ロシア語の文中に им が出てきたら、они の与格である可能性もある、ということを読解の経験の中で身に付けなければならない。文法知識の定着とその運用は別だ。語彙についても、どの程度知っていればいいのかという問いは難しい。別にちゃんとした辞書さえあれば、語彙はなくてもいいというのは極論だが、ざっと読んで一文に辞書を引かなければまったくイメージが浮かんでこない語がいくつあるかというのが一つ目安になる。「辞書を引く」という行為の煩雑さが挫折の原因になりやすいが、義務的な気持ちにならずに辞書を引いているときは、まったくこれが読書を阻む要因には思えない。むしろなんとなくその語のイメージはある(日本語で訳語がひとつは浮かぶ、けどこの文脈では適当ではなさそう)語を辞書で引くと新たな発見が多くて、どんどん引きたくなる。だから「読めそう」と思ったときの語彙力が読破に必要な語彙力だ、と答えになっていない結論にしかならない。一つだけ言えるのは「分からない語があるから原書はまだ読めない」という態度でいるといつまでも原書が読めない。むしろ辞書を使い倒すくらいの勢いで引きまくるくらいの気持ちでいる方がいい。

『罪と罰』を原書で読むために再開したロシア語の勉強も、ひとまず目的は達成した。一度読んだだけですべてを理解したつもりはないが、ここ数年「そのうちいつか」と考えてきたことを死ぬ前に達成できてよかったと思っている。今後ロシア語は続けていくかもしれないし、やらないかもしれないが、勉強を継続するとしたら、目的を先に設定はしたいかなと思う。ただし、無理矢理目標を立ててもしょうがないので、何かロシア語が原語の海外文学を読んで、原書も読みたいと思ったときが、次にロシア語に取り組むときかもしれない。

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