見出し画像

木の家、石の家、あるいは青空

建築というものに興味がなくもないのは、中学も高校も一緒だった仲のいい友だちが建築士になったということが明確に影響しています。うん。
彼のアトリエが我が阿佐ヶ谷団地の中にあったもので、生涯一無職、昼間っからぷらんぷらんの私はよく覗きにいったものでした。若き建築士たちがせっせと作業しているところに乗り込んでは、すまんが珈琲を一杯所望したい、なんぞと手を止めさせたり、あたふたと働いている姿を尻目に昼間から、いやはやこの洋行土産の陶器に入ったブランデー、たいそうおいしいものだね、あははは、なんて呑んだくれるなどして頻々と迷惑をかけるという交流があったわけです。彼らヤング・アーキテクトたちにしてみれば、あたたたたた、仕事の邪魔するおっさんがまた来よった、この忙しい時に何やねん、とはいえ、親分の友だちだし無視するわけにもいかん、ああ、鬱陶しい、という場面も少なくなかったろうけれども、まあ、それも運命。そういう経験もいつかは役に立つこともあるでしょう。役に立たない可能性の方が高かろうけれども。

……なんてなことも今は昔、彼らももはやヤングではなく立派な建築士さまになっていたりするのは素晴らしいことです。寿ぎましょう。立派になっていないのは、あんただけだぜ。しっかりしなはれ。いやいや、しっかりしないのも私の持ち味でござい、なんて。

カンボジア難民の人々に音楽を教えていたという話をちょっと前に書きました。その中に「よぉよぉ、兄貴よぉ」なんて気さくに話しかけてくる若者もいたわけですが、彼との話の中でびっくりしたことのひとつに災害なんぞで家が壊れても動じないというノリでした。ちょくちょく壊れるもんだし、ものが壊れるのはしょうがない、そのうちなおせばいいじゃん、ぐらいな感じで話していたんですね。家がなければそこらで寝ればいんだよ、みたいな口ぶり。そんなんで大丈夫なんだぜってなことだった。もちろん、これは日本に来る前の話ね。
カンボジアの人々全員がこういう感覚だったとは思わないけれども、少なくとも1980年代当時に私が接した何人かはこういう感じの家意識の持ち主であったのは確かです。
彼らの、なんというか、鷹揚で逞しい世界観というのはちょっと羨ましい気がしなくもなかった。おれって結構せこいことにとらわれているのかもな、なんて思ったり。いやいや、日本には四季があるわけで、真冬に家がないなんてことになったらおおごとだよ。そこらで寝ればいいじゃん、とはいかないわけで。

日本だって昨今の家はちったぁ頑丈になってきているとはいえ、江戸は火事早いので有名だったわけでありまして……っていうのは、落語で学んだ知識なのでどのぐらい本当なのかようわからんけれども……江戸の家はよく燃えて失われたりしたものだそうです。だとすると、下々のものは家ってものへの執着は薄かったかもしれませんな。木の家だったわけだしね。
日本にだって一千年以上も残っている民家もありましょうけれども、そんなのはレア中のレア。the rarest of the rare。こういうところに英語なんぞを放りこんでくるのが君の文章の気に入らないところなんだよ、と仰られるかもしれませんが、頭に浮かんでしまったのだからしょうがない。Rの発音って難しいよなあ、とここんところ気になっていたせいもあるかもな、なんて。浮かんでしまったからしょうがない? すると君は頭に浮かんだことを何でもかんでもただただ垂れ流すだけのマシンなのか。いや、そういうわけでもないんだけどね……って、話が逸れましたが、木の家ってのは、やはり、未来永劫持ち堪えるというイメージでは受けとめにくい。
そこへいくと、西洋の石の家なんざね、やっぱり長持ち感あるよなあ、と思うわけです。日本から一歩も出たことのない私ですから、映画や写真で見ただけのことで、そんなに信用してもらっても困りますけれども。

カンボジアの彼が語っていたよく壊れるから壊れても気にしないという家。火事早い江戸の木の家。ヨーロッパの石の家。わざとらしく並べてみていますが、こういうこともそこに住む人々の世界観を形成するのに影響してきているんじゃないかなとは思いますよ。これも難民のみんなと触れあって得た気づきでありますな。

日本文化の中核に儚さってものがあるよな、と最近よく思うんですね。考えてみれば、おれってさ、昔からそういう美意識というか、哲学というか、そんなものに拘ってきているんじゃないかな、なんて気になったりもしたわけですが、いや、それはちがう。「儚い」って言葉が出てくる歌詞を書いた記憶ってあんまりないしな。文章でもあまり使った記憶はない。やっぱり、あれだね、死にそこなったりして、自分がそう遠くもなく儚くなるお年頃になってきているということが影響しているんでしょうかね。佐藤家は六十代で世を去る人がほとんどだしなあ。
なんてなことを思いつつ、歌詞にもそういうイメージを織りこもうかなと、ふと考えるに、はて、英語で儚さにフィットする言葉ってないよな、と。フランス語の辞書にも当たってみましたが、fugaceが近いのかな、ぐらいで本当にぴったりするのかどうか、私の語学力では判断のしようもありません。そもそも、二つの言語が単語単位で一対一対応するわけなんかないんだけれどね。それにしても、私の中にある儚さ観が欧米にはないのかも?、というような引っかかりがあるわけです。日本とあちらの世界とに違いはいろいろあるし、それはもちろん、宗教観に支えられているところが大きいだろうなとは思うんだけれど、儚さ観に関しては、それだけでなく、木の家/石の家ってところにもそれなりの強さで依拠しているような気がしているんですよ。まあ、思いつきにすぎませんが。

木の家のはかなさ、石の家のとこしえ。そんな感覚。

この国でも、マンションだのなんだのの木じゃない頑丈な家に住む人が増えてきて……って、私もそのひとりですが……日本における儚さに対する感覚がじわじわと薄まってきているんじゃないかな、なんてことも思ったりしており、です。

衣食住、なんでもかんでも欧米化が進むと感覚もそれに引きずられるってことはあるよね。それはいいことなのか否か、はてさて。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?