原口統三と三島由紀夫はなぜ自殺したのか

 26歳の時に書いた文章が今の問題意識と重なるので、再掲した上でコメントをしたい。僕の問題意識はずっと「これ」なんだけれど、進んでるのか後退しているのか分からない。

 原口統三という詩人がいた。19歳で自殺をした。遺書を残していた。
 昔、他人の遺書を読み漁っていた時に、偶然見つけて、「僕がいる」と思った。僕より頭の切れる人が、僕と同じことを考えていて、しかも自殺までしていた。その事実に救われて、僕は思想的自殺はしないようにしようと思った。青空文庫で読めるのでぜひ。
 
 僕も19歳の時にこの本を読んで、今までずっとこの人の話をしている。今ではあまり人気がないのか、僕ぐらいしかこの人の話をしていない。今ではこの人の自殺理由を言語化できるようになったと思うので、試みてみようと思う。キーワードは「ロマン主義」「ニーチェ主義」「誠実さ」

 ロマン主義の定義は難しいが、個人の個性を発露して、その人独自の生を生きよう、みたいな文芸運動だ。「個人」を非常に重んじるため、次第に客観、自然は背景に遠のいていき、主観だけが残る。ヘーゲルのロマン主義のイロニーを引用する。

存在するものは自我によってのみ存在するのであって、わたしによって存在するものを、ふたたび否定することもできるのです。さて、絶対の抽象的自我から一切が生じる、という空虚きわまる形式に固執する限り、完全無欠で内部に十分な価値を持つ存在は一つもなく、すべては自我の主観性を経由します。自我がこの立場に立つ限り、おのれの主観性以外のすべてが意味のない空虚なものに見え、ひるがえって、この主観性そのものも、内容のない空虚なものになります。

ヘーゲル

おれは自我があるなんて信じたことはないよ。形式ということを考えている。フォルムがあれば自我だ。フォルムは個性でも何でもないんだ、フォルムがあればいいんだ。

三島由紀夫

 このイロニーに、原口の苦闘が全て含まれている。二十歳のエチュードから引用しながら、コメントをつける。太文字が引用文。

 告白。――僕は最後まで芸術家である。いっさいの芸術を捨てた後に、僕に残された仕事は、人生そのものを芸術とすること、だった。
 
この文章が冒頭に置かれているが、まさにロマン主義、自我主義の宣言である。しかし、芸術家である主観性は、ただの形式に過ぎず、よって人生という「作品」は空虚にならざるをえない。

  論理は、必ず逆襲できるし、破壊することも可能である。
  各自が異なった数学を持つ。僕には最も自分に誠実であるためには、いっさいの表現を拒否せねばならぬ、ということが最も確かなことに思われた。そこで、僕は既成の数学を疑って見ることができるようになった。
 
「論理」や「数学」の如き「客観」に見えるものも、自我という主観性の前では、破壊することが可能である。これを「取り消し可能性」と呼びたい。

 今日、僕は、自分の語ること、考えることが、皆目嘘八百にしか感ぜられぬのだ。
 
形式的な「自我」には内容がない。人格も歴史もない。無、ゆえにすべてを否定できるのだが、内容が欠落しているので、何も「本気で」語ることも考えることもできない。無からは何も生まれない。

 「考えるとは表現することである」現代の百科辞典にはこう書いてあるそうだ。
 表現はどんな風にでもあり、したがってどんな考え方だって存在しうる。
 思索とは表現の可能性に対して行なわれる精神の賭博である。
 僕の自意識は、思想のルーレットを己の意のままに廻すことができた。だが賭金などに用はなかった。
 
原口には、思想や人格といったものがない。だから何かにコミットメントすることができない。例えば、信仰、共産主義、詩人、といった思想にコミットメントするのは「賭け」にしかならない。どんな風にも考えられる、ということは、どんな考え方も「取り消すことができる」ということだ。

 倦きた。僕はいつでも勝利者だ
 そこで僕は賭博場を飛び出した。外に出れば寒かった。
 もはや僕の信ずるのは、自分の肌の感覚だけだ。
 
世界を恣意的に肯定したり否定する自意識を持つものは、いつでも勝利者である。「考え」には価値がない。肌の感覚、つまり肉体しか信じることができない。

 何故なら、「明晰さ」、は僕においては「潔癖さ」の度合いによるものだ。そして、僕の純潔とは、潔癖な自意識を最も忠実な使者とする、「精神の肉体」と名づけられるものへの形容詞であった。
 
この「精神の肉体」というのはヘーゲルのいう「絶対の抽象的自我」だと思われる。僕は「幾何学的な点」と呼んでいた。

 しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。
 ここまで到達した後に僕は死を決意した。僕は「より誠実であろう」とするものであって結果を恐れるものではない。僕はどうしても自分を許せなかったのだ。
 
「絶対の抽象的自我」から世界を見渡すことは、世界を批評することだ。しかし、絶対の抽象的自我は眼球のようなもので、己自身を見ることはできない。絶対の抽象的自我Aが絶対の抽象的自我Bを批評しているとき、絶対の抽象的自我Aは「許されている」。この妥協、甘えが原口には許せなかった。抽象的自我という安全圏にいながら他者を批評する自分が許せなかった。

 僕ほど、嘘をつくことの巧みな人間はあるまい。
 そして僕ほど、嘘つきの嫌いな人間もないだろう。

 純粋なる「自我」には生命の匂いはない。僕における「精神の肉体」とはこの「自我」ではなかったか。
 われわれは精神の王国の祭壇の前に脆坐する時に、もはや、彼の、「必然性」の豊富な影を宿した「生命」に拘わることはない。
 何故に僕の認識は血を流さねばならなかったか。
 いかにも「精神の肉体」はすべての生温い、生命の匂いの前に身をすくめた。
 ありとあらゆる「許容」の汚れを拭いさること、それはついに「生命」を拒絶することであった。
 僕の最後の誠実さは、止めの一刺を心臓に向けねばならないのだ。
 
コメント不要

 「われわれが『生きている』と感ずるためには、いささかでも『自我』の祭壇から発する自意識の眼を持たなければならぬ。人間とは、生命なき『精神の肉体』の冷酷な眼を、多少ずつ備えているところの生物である」という考えから、
「最も強く『生きている』と感ずることは、最も強い自意識を所有することである。しかして最も強い自意識とは生命なき『自我』を完璧に、損わぬことである。それゆえに、人間は、全き死滅の中において、最も豊かに生命を感得する」という論理へ。 
 
抽象的自我というのは形式であり、全く「生命」を欠いている。その抽象的自我を最も強くするということは、全き死滅をするということだ。

 「表現は所詮自己を許容する量の多少のあらわれにすぎぬ」
「誠実さは常に全き孤独の中にある」
 この箴言の前に、謙虚であろう。
 それはこのエチュードを止めて抛り出すことだ。そして、僕をも含めてすべての人に貼りつけたレッテルをはがしてしまうことだ。
 僕はもう自分を誠実であったとも言うまい。
 沈黙の国に旅立つ前に、深く謝罪しよう。
「僕は最後まで誠実ではなかった」と。

一九四六・十・一  赤城山にて

 僕は、原口は誠実だったと思う。存在するものは自我によってのみ存在するのであって、わたしによって存在するものを、ふたたび否定することもできるのです。という自我の専制が、彼には許せなかった。何を語っても「取り消し可能性」がある。ふたたび否定することができる。「人生の本質は愛だ」と語った舌の根も乾かぬうちに「さっきのは冗談で、本当は金こそが人生だよ」と言うこともできる。この遺書だって、「こんなの血迷って書いた若書きだよ」と否定することができる。取り消せる可能性があるということは、嘘である可能性があるということ。自分の言葉を信じられない原口は、すべてが嘘に思えた。この遺書も嘘を書いたんだろう。そんな彼に行える唯一の誠実な行為は絶対に取り消せない行為、即ち自殺しかなかった。

 引用ここまで

 近代の「疑われることのない前提」に「自由」が存在するが、内容のない「形式的自由」を手に入れたと思い込んだ意識は「虚無」に陥らざるを得ない。自由が堕落すれば恣意に陥り、恣意を推し進めれば虚無に沈む。「自由とは何か」を答えられる人は一人もいないのにも関わらず、「自由は絶対に正しい」という前提で社会が動いていく。「何をしても良い」という恣意の意識は不実になり、自壊する。この辺はヘーゲルが精神現象学の「自意識」の章に詳しく書いてある。

ここでは「自由」とはいっても、ただ自由の概念であるにすぎず、生き生きとした自由そのものではない。ここでいう自由にとっては、ただようやく思考一般が実在であるにすぎないからである。思考一般とはつまり形式そのものであり、そういった形式は事物の自立性から離脱して、自分のうちに引きこもってしまっているのだ。〔中略〕それはじっさいには内容のひろがりへと到達することがまったくありえない限り、ほどなく退屈を感じさせるはこびとなるのである。

精神現象学

 恐らく原口も三島もヘーゲルを読んでいない。それなのにこの「自我の形式性」や「退屈」の符合は驚くべきものがある。恐らく両者はニーチェ主義に毒されていて「自我の万能性」を信じていたのだろうと思う。全き自由である自我。ただその自我には「内容」がない。三島由紀夫はそのことに薄々気づいており「行動学入門」というエッセイを書いているが、意識があまりにも過剰すぎて、右翼ごっこでは誤魔化せなかったんじゃないだろうか。

 ヘーゲルは「自由」のこの問題性に気づいており「法の哲学」の序論には「恣意は自由ではなく、複数ある欲望の規定性を対自的に選択するのが自由である」という定義をしている。人間には複数の「欲望」があり、その欲望の選択に自由がある。その他にも「無制限の自由」への戒めとして普遍性=共同体を考えている。

 ニーチェの「超人」にはなんの「規定性」もない。故に、狂気か虚無に沈んでしまう。サルトルならば「対自意識は即自=過去に規定されている」といって、自由の恣意を回避するだろうと思う。

 原口と三島については今後も考えていきたい。自由が虚無と自殺を産むという、近代批評意識の悲劇がある


勉強したいのでお願いします