否定神学的言語観 東洋 芸術 ASD

 芸術家のASDの友人が「幼い頃に"言葉というものがあるから母親とは絶対に分かり合えない"と悟った」と言っていた。僕はそこまで劇的な体験はないが、いつも「理解したい」「理解されたい」と思っていた(思っている)。言葉というものに信頼がない。なぜなのか、少し考えた。
 
 ASDの人間が「空気が読めない」と言われるのは凄く的確な表現だ。空気とは自明なものであるけど、その自明が分からない。呼吸とは無意識にするものだが、意識的に浅い呼吸や深い呼吸をすることもできる。ASDの人は無意識に呼吸ができない。
 定型発達の人は、生まれつきチェスのルールを覚えている。身体が無意識に駒を動かすことができる。一方で、ASDの人間は生きながら「この譜面のときは、こう打つ」というのを意識的に学習していく。僕も十代の頃は「こう言ったらこう言われるからこう返そう」と頭をフル回転させて喋っていた。今はチェスのルールブックが心の中にあるが、母国語じゃない。僕にとって日本語は母国語じゃない。生粋のASDだと思われる原口統三は

故郷はない。それなのに、僕は己の故郷以外の土地には住めない人間なのだ。

 と言っている。ASDの人間の虚無感や疎外感、故郷喪失感は「母国」が存在しないからじゃないか。

 そんなことは意識していなかったが、初めて手に取った哲学書が丸山圭三郎だった。あまり有名ではない人だが、ソシュール研究の第一人者で、後期は無意識と言語の関係など、ラカンみたいなことをしていた。その後、17歳の頃にラカンの本を読み漁った。今思うと、多分ラカンが否定神学をしているからだと思う。
 どの本か忘れたが、Amazonのレビューに「私は幼いころからずっと違和感を抱いて生きてきたが、ラカンと龍樹と荘子だけが自分を理解してくれた」というものがあった。僕も同意する。言語を取っ払ったところに「現実」があるというのは、僕の直観だった。

 前期のウィトゲンシュタインも同じような発想で、論理哲学論考を書いたと思う。「語れるもの」の境界を画定させて、語れない、言葉の外のものを「生」とか「神」とか「論理」などと呼ぶ。
 母国語じゃないから、言葉にリアリティがない。全部の言葉が嘘だ。そらごと、たわごとだ。

 禅も否定神学的だが、禅の語録はたくさんある。語れないものからこそ、言葉が奔流するのだと思う。タオが根底にある。

 憶測だけど、友人は「言葉は全部嘘である」という直観から芸術を志していると思う。一方で僕は、同じ直観から東洋の身体知を学んでいる。意識や身体は、嘘をつかない。

 「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というタイトルの詩と、そのタイトルと同名の本がある。友人に勧めるといたく喜んでいた。言葉なんか覚えるんじゃなかった。

始めに言葉ありき

ヨハネによる福音書

勉強したいのでお願いします