精神分析についての雑感

 17歳の頃にジャック・ラカンに惹かれて関連書籍を読んでみたのだが、意味不明だし恣意的な妄想としか思えなかった。最近読んでみて印象が変わった。
 「フロイト思想のキーワード」「フロイト入門」「現代の精神分析」「集中講義精神分析」「図解雑学フロイト」「人はみな妄想する」「ゼロから始めるジャック・ラカン」「ラカン派精神分析入門」「生き延びるためのラカン」「後期ラカン入門」「ラカン入門」「ラカンの仕事」「ラカンはこう読め」「精神分析学入門」「夢解釈」「精神分析の四基本概念」「イデオロギーの崇高な対象」「自我論集」「フロイト講義〈死の欲動〉を読む」を読んだ。

 基本的に解説書ではなくて本人の書いた文章を読んだ方がいいと思っているんだけれど、ラカンは最近岩波文庫で出た「精神分析の四基本概念」以外の著作が高価かつ難解すぎるので、こんなもんで充分かなと思う。ちょくちょく引用されている「エクリ」の文章が何回読んでも全く分からない。一回気になったら追求したいタイプなのだけれど、精神分析が本当に分かるためには精神分析を受けなければならないのがネックになる。日本で精神分析を受けるのはほとんど不可能に近い。

 マインドフルネスをしていると「無意識」が表に出てくることがあったので、無意識ってなんだろうと思って読んでみた。仏教には元々「無意識」に相当する概念が「阿頼耶識」ぐらいしか存在しない。ティク・ナット・ハンは現代人向けに仏教をアレンジする過程で「阿頼耶識」を活用していた。ただ、唯識仏教というのはセラピーではなく、悟るための思想なのでメンタルヘルスに繋げるのは難しいだろうと思う。
 ただ、テーラワーダ仏教のお坊さんたちも「抑圧」や「無意識」という言葉を現実には使っている。「無意識」も「抑圧」もフロイトが開発した概念なので、もう仏教以前の常識的な世界観になっているのだと思う。進化論とか地動説みたいな感じか。
 ラジニーシや西欧のスピリチュアル系の人も、ガンガンに抑圧や無意識という概念を使っている。「幼少期に満たされなかった思いが瞑想をしてくることで顕在化する」みたいな感じのことをよく言っている。瞑想をしている上で、確かにそのような感情や思考が現れることはある。

 精神分析は心の理論としては、とても優れたものだと思った。普遍性があるように思う。神話、夢、神経症などを統一的に扱うことができる。「謎の説得力」があるのが不思議だ。父親がどうの去勢がどうのインポテンツがどうのみたいなことを延々と言っているのだが、なぜか説得されてしまう。合理的な思考では意味不明なのに、謎の説得力があるのは、それが「臨床から練り上げられた理論」かつ「人間の心の構造にある程度の普遍性」があるからだと思う。多分受け入れられない人は受け入れられない。だから宗教みたいだと言われるが、あながち間違いでもないと思う。あらゆる宗教の「無意識」を読み解くことは可能だ。

 じゃあこの概念群をどうするのかと問われてもよく分からないが、引き続き勉強したい。精神分析は「哲学」「社会理論」「文学批評」「政治理論」など応用可能性が広いが、「心」という一点から学際的な理論を創れるのは凄い。仏教が扱うのも「心」であるし、「臨床の理論」というのも一致している。

 ユングやメラニー・クライン、ビオンといったフロイト以後の人の勉強をしたい。「瞑想をしてたらこんなものができました」というのが仏教理論であるけれど「自由連想をしていたらこんなものができました」というのが精神分析だ。心を直接取り扱うという意味でソックリだと思うんだけど、全然違う理論体系がある。どうにかこうにかならないかな?と思っている。

 仏教と全く関係ない場所でも、学ぶことで役に立つことは結構あった。映画や文学など、そういった「心の産物」を見る時に、精神分析という角度からも見られるようになった。あと「症状の背後には無意識がある」という想定があると、メンタルヘルスの問題がある人との接し方も変わってきた気がする。「この人は父親の不在をいろいろな形で代理満足させているんだな」とか解釈をするような暴力チックなことはしないが、「無意識やトラウマがあるんだろうな」と思うことで、共感が生まれやすくなった気がする。
 あと、シュルレアリスムに興味を持つようになった。フロイトやラカンはシュルレアリスムの人たちと交友があったらしく、お互いに影響を与え合っているっぽい。芸術家の友人はシュルレアリスムの系譜で絵画をしているんだけれど、ラカンの芸術論を音読すると「凄くよく分かる」と言っていた。
 
 心理学の本を読んでも、実験とかばかりで全然面白くなかったのだが、精神分析は本質的な理論だと思った。哲学要素もあるし、メンタルヘルス要素もあるし、臨床要素もあるし、僕の興味にまるまる一致する。
 瞑想をしていて「無意識」の存在は確信していたけれど、あらためて理論を読むと「無意識」という観点が根付いた気がする。マジで重要な観点だと思う。「自分の〇〇なところが理解できない」とか「友人の非合理的な行動にムカつく」とか、「無意識」という観点を用いることで緩和できる。

 ほんとに雑感になってしまった。人間関係や物事を考える際の大きなヒントになりそうなので、まだまだ勉強したい分野だ。

 今日久々に映画を見たので精神分析に当てはめてみた 映画ジョーカーのネタバレ注意

 一見社会問題がテーマに見えるが、映画の本質は父性の喪失にある。主人公のアーサーは母子家庭で低賃金の労働をしている。父親が存在しない理由は明かされないが、アーサーが妄想の中でマーレに「君のような息子が欲しい」と言われていることから、アーサーが父親に対して複雑な気持ちを抱いていることを暗示している。アーサーは母親のペニーと近親相姦的生活を営んでおり、アーサーにとってアパートの一室が唯一の居場所だった。
 アーサーは母親ペニーの手紙を盗み見し、時期市長候補のトーマス・ウェインが父親であることを知るが、トーマス・ウェインにも冷たくあしらわれてしまう。「父」を様々な人物に転移させていくアーサー。なぜ父なのか?そしてなぜアーサーは道化なのか?
 
 母親ペニーの証言によると、アーサーは養子であり、当時の彼氏と虐待をしていた。そしてなすすべがないアーサーはペニー曰く笑っていた。父親による去勢=社会化を、笑いという手段によって否認している。だから彼は絶えず笑わなければならない。ペニーとの一体化という享楽にNOを携える父親が存在しない。父親は映画の最後まで登場しない。初めから存在しなかったかのようだ。フロイトのいう去勢不安を「笑い」によって置き換えた以上、彼は意図せず笑ってしまうという病気に憑りつかれる。明らかにハッピーではない息子を「ハッピー」と呼び続ける母親もこの父の否認の共犯者である。父の不在。故にアーサーは常に社会に適合できない。
 エディプス・コンプレックスが不在のアーサーは父親への同一化が行われていない。その末路が超自我の不在による殺人であるし、ペニスが存在していないので恋人を満足させることもできない。

 トーマス・ウェインに父親像を転移していたアーサーは、母親の精神カルテを見ることで、ペニーが本当の母親ではないことを知ってしまう。そしてアーサーはペニーを殺す。冷蔵庫に入る。本当の子宮に回帰する。
 
 ラストで、アーサーは最初に父親を転移していたマレーを射殺する。全てを奪った原父を殺害する。原父を殺害したことにより、ゴッサムシティは無秩序に包まれる。

 中期ラカンによれば「父の名」の排除によりパラノイアが出現する。初めから父の不在が強調されるこの映画において、ラストの「全て狂人の妄想であった」というオチは当然の帰結になる。

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