儀式とASD 役割 なりたい

 ゴフマンという社会学者の本を読んでいて、あるエピソードを思い出した。この本では「自分の役割を信じ込んでいるパフォーマー」と「全く信じてないパフォーマー」の極があるとするんだけれど、ASDは役割というものが欠落していると思う。僕の場合は自分の顔と名前が「自己」という感覚が全くない。「この人」の役割を僕がやっている感覚がない。ASDの人に同じ質問を何回かしたことがあるが、自分の名前と意識が一致しない人は一人だけだった。

 母親の葬式で、一滴も涙が出なかった。僕があまりにも普通に突っ立っているので、祖母に「もっと母さんの顔をよく見なさい」と言われた。あの時なんで泣かなかったんだろうとずっと気にかかっていたのだが、「母親が癌で死んだ息子」の役割が分からなかったのだと思う。
 「儀式」は分からない。日常生活の役割(障害のある息子)はなんとなく身に着けたつもりだったが、儀式は1回キリなので学習の機会がない。葬式は泣かなければならない。泣き女という職業があるように、葬式では絶対に泣かなければならないのに、全く泣かなかったので親族に不審がられた。結局「急すぎて感情が追い付かなかった」という解釈をされた。

 あくまで僕の友人のASDの人の話だけれど、人生でやりたいことが分からない、みたいな人が多い。例えば芸術家のASDの友人がいるが、社会に媚びる俗物的芸術家にもなりたくないし、自分を貫く天才みたいな芸術家にもなりたくないらしい。多分「なる」ということが分からないんだと思う。社会的な役割から疎外されている。

 自分が何かになっている姿が想像できない。なったとしても、常に役割との距離があると思う。

何だって?あれが偉人だって?自分の理想を演じている俳優にしか見えないが。

善悪の彼岸
フリードリヒ・ニーチェ

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