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独我論と愛と欲望

 愛とは理解である。正確にいうと、理解しようとする姿勢だ。それ以外にない。

 元恋人に「あなたのことは何でも理解している」と言われて、悲しかったことがあった。理解しようとすることを放棄したんだと思った。その人と最近チャットをしたのだが「他人って理解できないから、彼氏に幸福を預けるのは怖くないか」と聞いたら「人は理解できる」と言われた。

 人というのは、過去だ。思い出と傷だ。僕は「あなた」の思い出も傷も全く知らない。知りたいと思うが、全て知ることはできない。共通の思い出を作りたいと思うが、同じベッドで見る違う夢に過ぎない。

 自分の尺度で相手を「完全に理解」することは、他者を同化することだ。吸収すること、植民地化することだ。もはや他者ではなく、もう一人の自分でしかない。自分の理解できる範囲の相手というのは自己だ。他者は理解できず、コントロールできないからこそ他者なのであって、その前提を否定すると、何も生まれない自己愛に過ぎなくなる。

 欲望、というのも独我論的だと思う。男性が恋愛において何を愛しているのかというと「自分の男性器」である。露悪的な表現だが、恋愛の本質がセックスである以上、仕方がない。相手の身体を経由して、自己の性器を愛することを恋愛という。恋愛ってアンジャッシュのコントだ。

 他者を同化することをやめ、他者を手段にすることをやめる。そのための方法としては、今のところ「対話」ぐらいしか思いつかない。馴れ合いの対話ではなく、腹を割って、ギリギリまで切っ先を突き付ける必要があるように思う。ただ、対話で相手を理解したとしても、まだ理解できない「残余」が残る。その理解不能な残余こそが、私の世界観、独我論を粉砕する鍵となる。
 「もう何考えてるのか全く分からない…」と頭を抱え、理解と欲望が挫折した時、人は真に他者に触れることができるんだと思う。

勉強したいのでお願いします