ニヒリズムの研究集大成 死が怖い人

 フォローしてくれた人に、タナトフォビアの方がいた。「自分が死ぬ」という事実に覚醒して、死の恐怖で夜も眠れないらしい。母親に言っても分かってくれない。僕も全く同じ状況だった。
 ティク・ナット・ハン師の本に「心臓にマインドフルネスを向けてください」と書いてあったので、心臓に意識を向けてみると、鼓動が速くなって、急に死の不安が押し寄せてきた。懐かしい感覚だった。自律訓練法をする時も、心臓を意識するのは避けていた。心臓を意識すると「生きている」ということを意識してしまい、逆説的に「いつかは死ぬ」ということを考えてしまうので、心臓を避けるようにしていた。幼い頃はよく心臓に手を当てて「止まってないかな?」と確認していた。

 死を意識し始めたのは小学2年生の頃ぐらいだったと思う。自分の意識がなくなって、永遠の真っ暗闇に沈む。初めに考えた時は「本当だろうか?」と疑った気がする。「なんで今まで気づかなかったのだろう?」とも考えた。その夜は眠れなかった。
 小学校低学年の頃の記憶はあやふやなのだが、当時「自分は18歳で加齢が止まる病気なのだ」と思い込んでいた。心理学でいう「否認」だと思う。とても事実が受け入れがたいので、なんの根拠もないのに、奇病だと思い込んでいた。「そう信じたい」ではなくて、本当にそう思っていた。そう思わないと心が壊れてしまう状態だったのだと思う。中島義道氏は「死のことを考えるだけで卒倒したりした」と本に書いていたが、多分似たような状態だった。今思うと結構ヤバい精神状態だと思う。ネットでも本でも見たことがない。

 その思い込みが崩壊したのは、16歳の時に「利己的な遺伝子」を読んでからだった。その本には「人生には目的はなく、生物というのは遺伝子の乗り物であり、遺伝子というのは増えたから増えただけ」という事実が書いてあった。データ的にも論理的にも否定できない事実だった。同じ時期にカミュの「シーシュポスの神話」も読んだ。17歳の頃に「パンセ」を読んで、更にショックだった。恐ろしい真理が書いてあった。

ここに幾人かの人が鎖につながれているのを想像しよう。みな死刑を宣告されている。そのなかの 何人かが毎日他の人たちの目の前で殺されていく。残った者は、自分たちの運命もその仲間たちと同じであることを悟り、悲しみと絶望とのうちに互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。 これが人間の状態を描いた図なのである。

パンセ

これらの惨めなことにもかかわらず、人間は幸福であろうと願い、幸福であることしか願わず、 またそう願わずにはいられない。だが、それにはどうやったらいいのだろう。それをうまくやるには、自分が死なないようにならなければならない。しかしそれはできないので、そういうことを考えないことにした。

パンセ

 僕は哲学書を読んでいたので、若い頃はよく「現実逃避」だと言われた。僕は全く逆さまだと思った。「自分が絶対に死ぬ」という「絶対的現実」から眼を逸らして世間に埋没しているのはお前らの方じゃないか。神なき人間の惨めさ。
 虚無主義の本で優れていると感じたのは「人みな骨になるならば」「パンセ」「生誕の災厄」「懺悔」「生きるのも死ぬのもイヤなきみへ」「老師と少年」

 障害があり、身体も悪く、どうしようもなく絶望していた。自分で言うのもなんだけれど、本当に絶望していたと思う。精神安定剤を6種類飲んでいた。

 転機になったのは母の死で、46歳で死んでしまった。癌だったので、その死へ至る道をまざまざと観察した。母親は素朴な人で、僕が「人生に意味がないことがツラい」とこぼすと「人生に意味はあるよ」とか言ってたのだが、いざ自分が死に直面すると、狼狽して毎日泣きはらしていた。若くに亡くなったママ友が創価学会で、その死の様子があまり苦しそうでなかったので「宗教をしていればよかった」とも言っていた。
 フィリッパ・フットという人の「人間にとって善とは何か」という本を読んでいたら「〇〇はなんでも知ってるから死ぬのは怖くないんだろうね」と言われた。何も知らなかった。人間にとって善とは何なのか、1ミリも分からない。
 で、普通に死んで火葬された。死ぬときは穏やかだったとかはなく、普通に癌の痛みに悶絶しながら死んだ。悲惨だと思った。

 哲学なんかやってる場合ではないと思い、仏教の本を読み始めた。アーチャン・チャーという人の「無常の教え」という本が転機になった。「人は死なない」という驚くべき教えだった。「悟った人は地水火風の四大が散じるだけだから、本当は"人"というものは存在せず、誰も死なない」と書いてあった。美しいロジックだと思った。「魂は永遠だから神を信じましょう」という腑抜けた話ではなく「初めから誰も存在していないから誰もしなない(不生不滅)」という知的良心も満足できる優れた教えだった。
 そこから浄土真宗へ傾倒したりしたのだが、結果的に瞑想をすることにした。インドの聖人の本を読み漁ったり、辞書を引きながら英語圏のスピリチュアルの本を読んだりもしていた。悟りたくて仕方なかった。

 僕は、今は解決したと感じている。気晴らしや誤魔化しでなく、本当に解決した。ニーチェとハイデガーと仏教が導きの糸になった。

 まず「ニヒリズム」というのは正常な状態だ。ニヒリズムという病根があり、そこから派生する症状が「宗教」だ。ニーチェは「キリスト教はニヒリズムである」と言っているが、民間信仰やイスラム教や通俗仏教や科学主義も変わらない。「ニヒリズムに耐えられないから、何かに縋る」という構造がある。そういう意味で「政治思想」や「テクノロジー礼賛」や「世俗的成功」も変わらない。この生には全くの意味や目的が欠けているのに、政治をやっている人の意味が分からなかったが、別に僕と変わらない。「ニヒル」に向き合うのが怖いだけだ。「癌」を宣告されれば政治どころではなくなるだろう。人類は全員「癌」なのだけれど、そこから眼を背けるように様々な工夫をしている。政治、宗教、スポーツ、労働、恋愛、哲学、科学、趣味…。

 仏教に死随念という修行法があるが、ハイデガーの存在と時間も同じようなものだ。「自分は確実に死ぬ」ということを念じる。すると存在が全くの無根拠だったことに気づく。

 ハイデガー哲学は、完璧にニヒリズムの克服をしていると感じたが、それよりも自身の説をまずは書きたい。

 世界の「無根拠性」が耐えがたいのは、「懐疑」という感情があるからだ。「これは一体なんなんだ?」という怒りの状態がある。訳も分からずに生まれて訳も分からずに苦しんで訳も分からずに死んでいく。意味が分からない。理不尽だ。これは一体何?
 「無根拠性」から「怒り」が生まれる。怒りというのは3つの根本煩悩のうちの1つで、強い苦しみである。もしくは「恐怖」という形で懐疑するかもしれない。懐疑というのは「分かりたい」という強い衝動のことで、その衝動によりデカルトから近代哲学が花開いた。分かりたいのに、分からない。だって存在は無根拠だから。

 ネルケ無方さんの法話を聞いた。ネルケさんのいる安泰寺は「悟りはない」と謳っているのが特徴で、ネルケさんもその考えを継いでいる。彼も「生の意味」に悩んでいたという。ある時、接心という5日間ぶっ通しで坐禅をするキツい坐禅行をしていると「もうドイツに帰りたい。でもドイツに帰ったところで生きる意味は分からない。もうここで死んでしまおう、有名な寺にお墓がたてばそれでいいや」と思い、本当に死ぬつもりで坐禅をしたらしい。すると嘘のように楽になって、以後は「悟らなくてもいい」ということが腑に落ちたという。
 曹洞宗というのは薄目で壁を見ながら坐禅をするが、それってまるで意味が分からない。一体何がしたいのか?「分かりたい衝動」が心で暴れ回って、最後には死んでしまうのだと思う。普通に生きていれば「無根拠な人生の意味」を「分かりたいのに分からない」という状態なので耐えがたいが、「分かりたい」の部分が落ちてしまう。
 
 「公案禅」などはもっと分かりやすい。「片手の拍手の音は何か」という意味不明な問いを考え続ける。すると心がショートして「分かりたい衝動」がなくなる。
 
 カミュの「シーシュポスの神話」には、何もかも理解したい理性と、何も分からない世界との相克が「不条理という感情」だと書いてあった。だから「こちら側」を落とせばいい。

 「分かりたい衝動」がなくなればどうなるのか。どうせ死んでしまうじゃないか。どうせ世界の意味は分からないじゃないか。生きる理由もないじゃないか。

 神を「根拠」と定義したい。全ての根拠。全てを創り、全てを支配している絶対者。子供が「じゃあ神さまは誰が創ったの?」と聞く。誰も答えられない。哲学者は「神は自己原因」だと苦しい言い訳をする。実際は、神は無根拠だ。無根拠だからこそ、根拠になれる。
 古東哲明氏の分かりやすい説明を引くと、ビンの底には底がない。底が底だからだ。底の下にはもう底がない。神も同じだ。

 神は全ての「根拠」なのだから、必然的に神自身は「無根拠」だ。それで、神は死んだのだから、全ては無根拠だ。全ては無根拠なのだから、全てが神だ。
 「無根拠」に存在しているという「法外さ」「奇跡」が神の神々しさの理由だとすれば、神なきあとの、この人生も全てが無根拠で全てが法外な奇跡だ。それが「観えない」のは、「分からないものを分かりたい」という「こちら側」の事情だ。「無根拠な人生」に、なんとか「根拠」を見つけたいという焦燥が、「無根拠を無根拠として観る」ことを邪魔している。「無根拠なのに存在している」という奇跡に、別の「何か」を加えようとする。それを迷いというんだと思う。

 「人生に意味はあるか」という新書がある。諸富祥彦というカウンセラーの方の本なのだけれど、結局「なんか部屋に入ったらスピリチュアルを感じた、同じような人は多い」みたいな結論で、なんじゃそれと思った。でもある時突然に、そういう神秘体験をする人は多いらしい。神秘体験といっても、存在していること自体が神秘であったと気づくだけだ。それを人工的に起こすのが坐禅や瞑想といったものなのだと思う。
 友人はちょっと奇特な人で、この前ずっと日本を車で1か月ぐらい旅行していたのだが、その時「圧倒的な自然」の前で「お手上げ」になり、「人生があがった」と言っていた。環境問題だとか、そういった人間的なごたごたなど、自然の前ではなんの意味もない。人間なんてたかが知れていると諦めがついたらしい。
 個人的な体験でいうと「強烈な美」でも同じことが起きる。うつ病真っ盛りの時に、久々に海を見た時、何か凄みを感じた。三島由紀夫の「仮面の告白」やドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んだ時、観てはいけないものを観てしまったような気がしたけれど「俺はこれを読むために生まれてきた」と思った。小林秀雄が「本当の美は人を黙らせる」と書いてあったが、この「沈黙」は、「心の沈黙」なのだと思う。「分かりたい」という心がぴしゃっと沈黙したとき、世界の法外さが開示される。

 唐木順三の「無常」という本に、「無常を研究するには無常を徹底するしかない」と書いてあって、その通りだと思った。ニヒリズムも徹底しなければならない。ニヒリズムの懐疑や不安を誤魔化さずに求め続けていると、いつか無根拠の法外さが分かると思う。道元は「霧の中を歩く」と言っている。霧の中を歩いていると、何も前が見えないが、いつの間にか服が濡れている。ニヒリズムの暗がりを歩いていると、いつのまにか晴れている。僕は瞑想や坐禅が近道だと思うので勧めたいが、別の道もあるのかもしれない。

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

マタイによる福音書7章7節

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