古典を読む意義 回帰運動 流行

 真夏の夜の淫夢が好きだった。ニコニコ動画の「例のアレ」ランキングで、毎日MADを見ていた。程よいアングラ感と2ちゃん民的センスのコメントで信じられないぐらい面白かった。コンテンツが終わっていく過程をリアルタイムで観察したが「つまらない人(子供)」が寒い流れを作って終わった。面白い人が面白いことをすると、その周りに凡人が集まってコンテンツを終わらせるという説は正しいと思う。ビッグコンテンツに群がって、コンテンツを終わらせる人を「淫夢のひとたち」と呼ぶ。

 科学は進歩していく。科学の知は「積み重ね」で成り立っているから、個々の人間が死んでも科学は進歩する。一方で思想や文化というのは「積み重ね」ではないので、一直線に進歩することはない。蛇行する。
 
 昔の本を読んでいると、今では聞いたこともないような名前が出てくる。今読んでいるヘーゲルの哲学史講義では「テンネマン」という当時の大学教授がヘーゲルに攻撃されているが、そんな人はもう誰も知らない。当時は凄い人だったんだと思う。
 
 青空文庫の当時の作家一覧を見ると、見事に誰も分からない。

 淘汰されて、誰も古典になれなかった。東野圭吾とか村上春樹、原田マハや恩田陸、村田紗耶香や川上未映子なんかはどう見ても古典の水準にない。芥川賞の小説を勧められてたまに読むのだけれど、全然面白くない。現代小説を読むなら古典を読んだほうが絶対に良いと思う。僕は文学に凄く明るいというわけじゃないけれど、現代の文学で後世に残ると思ったのはカズオ・イシグロと進撃の巨人ぐらいだ。

 芸術家の友人に「アートが政治しかしなくてつまらない」とか「現代アートが本当にくだらない」と言うと「流行でしょ」と一蹴された。友人はシュルレアリスムの絵画をしている。いいと思う。くだらない流行を摂取したり乗っかったりするのは時間の無駄だし、感受性がつまらなくなってしまうと思う。現代アートは淫夢のひとたちしかいない。

 ドゥルーズ、レヴィナス、デリダなんかも淫夢のひとたちだ。時間の無駄にしかならない。
 最近はヘーゲルにハマっているが、ヘーゲルの後にもヘーゲル左派という淫夢のひとたちが現れる。シュティルナーとかフォイエルバッハとかは昔に読んだが、凄く退屈だった。同じことを繰り返すだけだった。ショーペンハウアーはなぜか人気だが、カントやヘーゲルの足元にも及ばないと思う。

 「凄いもの」は「回帰」を通して現れる。少し前までラカンにハマっていたが、ラカンは「フロイトへ帰れ」が標語だった。フロイトの死後、凄い思想に有象無象のつまらない人が集まって、コンテンツが終わりかけていたので、ラカンがフロイトを再解釈してコンテンツを再活性させた。
 こういう例は枚挙にいとまがない。
 「大乗仏教」という運動は「釈尊に帰れ」という回帰運動だ。ルターの宗教改革も「聖書に帰れ」という回帰運動だ。道元も、釈尊への憧れが物凄く強い。
 孔子は「周へ帰れ」が標語だったが、朱子学や陽明学は「孔子へ帰れ」が標語である。
 
 じゃあ僕たちは何に帰ればいいのか。僕は古典を読み漁って、初期仏教と禅とチベット仏教が優れた教えだと思った。だから瞑想的な生活を送ることにしている。
 西洋哲学では、ソクラテス=プラトン、ヘーゲル、ニーチェが飛びぬけて巨大だと思った。理由は今まで書いてきたし、今後書いていくと思う。

 現代社会は情報量が多すぎるので、良質な情報を取捨選択するのが重要になる。ジャルジャルのコントに「ちゃちい系」というワードが出てきて、その言葉も気に入っている。ちゃちい系や淫夢のひとたちに騙されず、良い文章を読み、よく考え、よく書きたい

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