属性、倫理、敬意 生きているだけで偉い 苦しみ

 社会問題についていろいろ考える。よくいえば原理的、悪く言えば極論で考えてしまう。

 社会問題というのは特定の「属性」の人に「倫理」的判断をすることで「敬意」を失うことだと思った。
 弱者男性の本のあらすじに「40代後半でカネもない 独身のおっさんに 人権なんてないんです。 そこにいるだけで 怪しくて、やばいんです」と書いてあった。中身は読んでないけど「人権」という言葉が気になった。「人権がない」というのはネットミーム化してる感もあるが、精神疾患持ちの人や無職の人と関わるとよくこの言葉が出てくる。
 僕は学校で「人権というのは生まれつき与えられている人として生きる権利」と教えられた。普通にフィクションだが、近代社会は「人権」が存在するかのように回っている。「人権がない」と呟いている人は「お前は生きている権利がない」というまなざしに曝されている。

 「属性」と「倫理」が結びつくのが、諸悪の根源である。精神疾患、男性、女性、ゲイ、レズビアン、障碍者、不細工、異教徒、貧乏、不登校、低学歴、老人、独身などなど。例えば不登校や無職は「怠惰」という倫理的判断をくだされる。女性は「感情的でよくない」と倫理的判断をくだされる。ゲイやレズビアンや障碍者は「生産性がない(から悪い)」と言われることがある。
 市民が「白い目で見ていい人」は犯罪者だけであるように思う。ただ僕は理想を言えばそれすらも怪しいとも思う。「事情」がいろいろあるから。

 「状態」や「属性」というのは「倫理」とは関係がない。それが暴力的に混ぜ合わされてしまう。そして「疎外」される。社会の中に居場所がなくなる。
 
 何が大切なのかなあと考えたけど「敬意」かなと思う。「人生は苦しみである」という釈迦のテーゼから考えると、出生から今まで生きているだけで充分に苦しんでいる。「生きているだけで偉い」というのは「人生は苦しみである」の言い換えだ。だから「人生は苦しみである」という「真理」を自覚している人は、それだけで偉いと思う。

 「人生は苦しみである」という真理を体得すると、自分にも他人にも敬意を持てるようになると思う。属性などは関係なく、「生き延びてきた」という事実に敬意を払えるようになる。「人生は苦しみである」。これが仏教が今の殺伐とした社会に与えられる真理の一つだ。

勉強したいのでお願いします