美 不可解 難解

 詩集を読むと、具合が悪くなるので詩が読めなかった。刺激が強すぎて吐き気がした。昨日久々に詩集を買って読んでみたら、とても甘美で美しく、洗われるような気がした。

 美学の本を読むと、昔は「美は比率である」とか言われていたらしい。黄金比ってのは眉唾らしいが、確かに均整のとれたものは綺麗に見える。が、美しさって均整に還元できるわけがない。

 川端康成が「美には霊性がなければならぬ」と書いていた。僕もなんとなくそう思っていたが、霊性ってなんだろうか。神性とも言ってもいいと思うが「人知を超えたもの」だと思う。
 中世や近代のキリスト教哲学者は、執拗に「世界の秩序だった美しさ」を神の存在証明にしようとする。確かに生物の身体は未だに解明されないぐらいに緻密に構成されているし、自然の美は言いようもなく美しい。これが「偶然」にできたものだとは思えない。世界の秩序や美についての「驚異」がある。「なぜこんなに美しいのか、神々しいのか」
 ここから「神が創ったから」という説が要請されるが、むしろ「なぜかそうなっている」と考えた方が驚異だ。「なんの理由もないのに世界は存在しているし、無比の美しさがある」というのは驚異である。
 詩人は「霊感」によって作業をしていると考えられていたらしいが、それは「美」が「人知を超えている」からだろう。そういう「仮説」を立てないと不安になる。「美」は人間の知性をはみ出しているので、ただの「詩人」が美を創出したとは考えられない。

 僕が美を強烈に感じるのは「自然」や「詩」だけれど、僕が今まで詩を読めなかったのは、美=驚異が怖かったのだと思う。なぜこんなに美しいのか全然分からないし、怖い。リルケの文章なんか本当に怖い。「神がかっている」とか「神業」という表現があるが、神がかっているとしか思えない。だから古代の人が神や霊感が詩人を作業させていると考えたのは道理にあっている。だってなんでこんなに美しいのか全然分からない。分からないことを神秘という。自然美の「不可解さ」には「神」を立てる。詩の美しさの「不可解さ」には「霊感」を立てる。分からないものは怖いから、仮説を立てる。

 美には理屈がないんだと思う。美に理屈があれば、その通りにやれば誰でも美が創れる。マクドナルドみたいに詩が書ける、絵が描ける。
 多分創っている本人にも理屈は分からないと思う。

 現代アートについての本を何冊か読んだ。あとさっき村上隆の動画を見た。なんか嫌な感じがした。
 「アート」は「美」ではない、むしろ醜悪であれ、みたいなことは岡本太郎やピカソが言っている。気持ちは分かるんだけれど、逆張りとしか思えない。人間は美しいものが好きだ。マゾヒストは「痛み」を通じて「快楽」を得る。似たようなもので、結局「醜さ」の中に「美しさ」を見ているんじゃないか。「自殺する人も幸福を求めている」という理屈と似ている。
 「資本主義時代の芸術は金儲けである」という理屈は分かる。中世は王侯貴族が注文して職人が絵を描いていた。聖書の絵を描く人もいる。ただその条件の中で「美しいもの」だけが後世に残るんじゃないか。「時代の制約」と「美しさ」は別のことだ。

 一部のコンセプチュアル・アートというのは「美は不可解」というのを「難解だから美」に履き違えているんじゃないかと思った。作家が頭をこねくり回して考えた概念を「作品」にする。もちろん「難解」である。でも美しくはない。説明できるものは美しくない。美は説明できない。「容易に説明できないほど難解」なものを作ることは、ある程度賢い人ならできると思う。
 「アート」と「美の探究」は違うんですよと言い張るならそれでいいと思うけれど、それはもう僕の興味ではない。くだらない空理空論だ。アートが美から乖離しているのなら、アートなんかしなくていいと思う。別の文脈で創作したほうがいい。
 文化って黎明期→爛熟期→衰退期ってあるけれど「アート」って完全に堕落してくだらなくなっていると思う。
 近代アートの堕落としての現代アートに美はない。人間っていつの時代でも美を探究しているけれど、現代は不作だ。自意識が介入する前の近代芸術や古代ギリシャ、日本だと水墨画の時代やらで美を探究できた人たちは楽しかっただろうと思う。

 「芸術とはなんぞや」ではなく「美とは何か」に回帰すべきだと思う。なんか本末転倒している。

 難解は美ではない。美は不可解である。

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