ニイチェ・無常という事

 ニーチェ系の自己啓発本にはよく「今を生きる」のようなことが書かれている。確かに永劫回帰の思想からはそのような帰結が出てくる。
 永劫回帰という謎めいた思想には様々な解釈がなされているが、僕は「時間に永遠を刻印する」という言い方が分かりやすいと思う。「全てのものが全く同じ通りに無限回反復される」という「信仰」を持つことで、自分の人生がそっくりそのまま「永遠化」される。「この瞬間は、過去に無限回存在したし、未来にも無限回存在する」という思想を持つことで、瞬間が途方もなく尊いものになる。瞬間=無限だからだ。これはヘラクレイトスの思想とパルメニデスの思想を(プラトンとは別の形で)止揚させたものと言えると思う。

 ニーチェはこれを「最高の肯定の思想」と考えたが、僕はこんな妄想よりも「無常」の方が肯定だと感じる。なぜか。
 
 最近はブログにあまり書いていないが、瞑想修行は相変わらず続けている。「全てに実体がある」という邪見が溶けてきて、「全ては無常であり実体がない」という正見に変わってきた実感がある。科学的に言っても宇宙は無常であるし、人生が無常であることなんて常識の類だ。だが、人間という生物はこの「無常」を認識できない。地道に無常を観察していると、徐々に腑に落ちてくる。全ての現象が無常なのだから、何を観察しても良い。

 「感情や他人や人生は全て無常だ」という正常な認識ができるようになると、全てに「どうでもいい」と感じるようになった。お腹のあたりに鬱々とした感情があっても「無常だからどうでもいいや」と思うし、人間関係でうまくいかなくても「無常だからどうでもいいや」と思う。
 「どうでもいい」という感情は一見「無関心」や「倦怠」のように見えるかもしれないが、僕はこれが最高の肯定の形式だと思う。
 「どうでもいい」というのは「どうあっても良い」ということで、もっとかみ砕けば「人生や世界がどういう形であっても、それを受け入れて肯定する」と言い換えられる。「どう」というのを英語の「how」と考えると分かりやすいかもしれない。沢木興道老師は「一切のものにケチをつける必要はない」という表現をしていた。
 「どうあってもよい」というのは「優しさ」だとも思う。人はどうしても、他人を変えようとしてしまう。友人は自分と同じ意見を持ってほしいし、恋人には様々な要求をしてしまう。けれど、どうあっても良い。どうせ無常なのだから。

 「無常」というと、どうしても悲しいイメージがある。桜が散って切ないし、愛している人と別れてしまうし、自分もいつか死んでしまう。けれど、無常を心に染み込ませると、「無常であるから、どのような世界でも受け入れ、肯定できる」という心境になる。愛している人と別れて悲しくても、哀しみは無常だから、どうでもいい。もちろん哀しみは存在するが、根底に「どうでもよさ」「どうあってもよさ」という「正見」が確立される。

 悟りを開いたわけじゃないけれど、仏教に沿って修行をすると、徐々にこういった心境が開発されてきた。「永劫回帰」なんて大仰なことを言わなくとも、いつでも存在している「無常」を心に染み込ませるだけで、人生を肯定できるようになる。「まあいいや」が確立される。

 全ては良いんだ。ニーチェのような強がりの歪な肯定ではなく、東洋的な、自然な肯定がある。
 仏教は世俗の執着を全て捨てるという悲観的な教えだと思われているが、僕は肯定の教えだと思っている。テーラワーダ仏教の合理的な修行法を取り入れつつ、大乗的な人生肯定の態度を持って布教するのが仏教の現代的な在り方なのだと思う。

アーナンダよ。今生は美しい。人生は甘美なものだ。

ゴータマ・シッダールタ
涅槃経

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