ニヒリズム 重さと色彩
ニヒリズムって一体なんなんだろうか?この世は虚しい、生きている価値はない。究極的な価値がなくても、人生を肯定するか否定するかの選択肢はある。
僕は以前までかなり否定的だったけれど、最近になってようやく生きていることを肯定できるようになった。病や老いなどが重なると否定的になるのかもしれないが、今のところはまだ大丈夫そうだ。僕は極端に否定的だったし、今はかなりの程度肯定的なので、比較して何が変わったのか書き記したい。
変わったのは「思想」ではなく「重さ」と「色彩」だ。思想は依然として「生存に究極的な価値はない」というものだけれど、世界の重さと色彩が変わった。
10代後半のうつ病真っただ中の時期にちくま新書の「レヴィナス入門」を読んでいて、凄く刺さった文章があった。
当時はよく分からなかったけど、自分の疲労によって「自分」が構成されているという実感があったのだと思う。レヴィナスもPTSDに悩まされていたという説があるので、似たような心境だったのかもしれない。
これ以上付け加えることもないのだけれど、本当に身体が重かった。体重はむしろ今より軽かったのだけれど、倦怠感がひどく、部屋から全く出られなかった。トイレに行くのもしんどかった。
シオランやパスカルも似たような断章をいくつも残しているが、なぜかレヴィナスが印象に残った。「疲労感」や「倦怠感」というあまり哲学っぽくない主題を哲学していたのが印象に残ったのかもしれない。
一方で、軽さというのはニーチェの思想だ。
重い生から軽い生へ。うつ病というのは生が重く、真面目に、厳粛になってしまう病気とも言えると思う。重さの病気だ。健康というのは軽さだ。
踊りと聞くと、一遍上人の踊念仏を思い出す。当時は「踊りながら念仏するって、布教のパフォーマンスみたいで嫌だな」と思っていたが、娑婆即浄土の一遍上人からすると、救済された喜びから踊らずにいられなかったのだと思う。阿弥陀仏が全ての「罪」や「煩悩」といった「重いもの」の「責任」をとってくれるので、人生が軽い。蝶々のような人生。
色彩が変わったというのは、世界に色があることに気づいたということだ。「世界が灰色に見える」という言い回しがあるが、本当にそんな気分だった。世界に色がついていて、しかもその色がこんなにも綺麗なことに気づいていなかった。赤色とか白色とか、全ての物質に色がついているけれど、色って全部綺麗だ。絵画なんか微塵も興味なかったけれど、画集を買ったりもしている。
数年前に友人が「死は白色だと思う」と言っていて驚愕した記憶がある。僕は死というのは真っ黒な闇以外にありえないと思っていたので、死が白だと表象する人が存在することに驚いた。死が光に見えていたのかな。「死」というのは「未知」なので、どんな理論でもつけられるし、どんな色でも塗ることもできるし、どんな物語でも語ることもできる。僕は「真っ黒な無になって何もなくなる」という漠然としたイメージを持っていたが、死というのはイメージ以外に存在しない。死の色は何色なんだろう?
仏教に「七覚支」という概念がある。悟りに至るために必要な要素を7つ挙げているのだが、その中に「軽安覚支」というのがある。瞑想を続けていると、この軽安覚支が開発されていくのだと思う。うまく言語化できないが、眼を瞑ると身体の概念やイメージが全て失せて、身体感覚だけがある。重さがない。身体に何も詰まっていないような感じがする。禅の人が「体は空(から)だ」とダジャレを言っているのを見たことがあるが、自我イメージが落ちると身体のイメージも落ちて、軽くなるのだと思う。
この世に意味も価値も目的もないんだけれど、世界や人生の軽さや美しさを楽しむことはできる。
思想なんかあてにならない。昨日久々にお酒を飲んだら腹痛が酷くて1時間ぐらいトイレに籠っていたのだが、根っからの無神論者だったはずの僕が有神論者になってしまった。さっき神社に散歩に行った時も、なにか感じた気がした。思想って理論で言葉で、灰色だ。
身体感覚や生きた言葉のほうがよっぽど重要だと思う。