俺はお前らとは違う

 「太宰治系」の人が大嫌いだった。今のSNSでは「鬱…文学…サブカル、そして冷笑。」と揶揄されているらしい。
 ブログでもたびたび攻撃してきた。狭義では、「金も権力もないから、文学や哲学や音楽などの高尚な趣味をセックスアピールにする男性」だ。掃いて捨てる程いる。
 「この人は自分と精神構造が似ている」と思う人を何人も見かけた。特徴は「自己肯定感が物凄く低いので、何かしらの武器を使って仮初の自己愛を肥大化させ、その自己愛で女を惹きつける男性」だ。「武器」はなんでもよく、文学、哲学、音楽、数学、金、詩、モテ、様々にあった。が、精神構造は同じだという直観があった。言葉の節々から「強がり」が見えた。生きづらそうだった。自分のことを天才だとよく言っていた。

 「太宰治系」の男に毎度引っかかる女性と話したことがあるのだが、近づくと何もなかったと言っていた。「何かがあるように見せるのが上手い」と言っていた。その通りだと思う。ヴェールがあれば、普通はその奥に何かがあると思う。ただ、ヴェールを剥いでも何もなく、空虚な凡人が突っ立っているだけだ。空虚だから「謎」を演出して「何か」があるように自己や他者を騙すが、多分本当に「持っている人」は「謎」や「影」を演出しなくても魅力があると思う。

 で、このような人達を死ぬほど憎んでいた。「こういう奴ら」になりたくないから仏教を始めたのに、仏教ですら「こういう奴らとの差異」を示すファッションになってしまっていた。どうしようもなく太宰治系だった。
 「近親憎悪」とか「投影」とか、概念は知っているし、頭でも「僕はこういう人は自分と似ているから憎悪しているんだろうな」と分かっていたが、心では納得していなかった。俺は違うと思いたかった。

 noteでも哲学系のナルシズムにうんざりしていた。「自己陶酔はダサい」と思っていたので、衒学的な文章や感傷的な文章は書かずに、平明な記述をするように心がけていた。それで「こういう奴ら」との差異を示しているつもりだった。

 が、フォロワーのセフレやnoteの自称哲学者を見たり、精神分析やトラウマ関係の本を読むと、認めざるを得なくなってきて、最近は少し鬱っぽくなった。さっき、瞑想中に「あ、僕は〇〇や××と同じなんだ」と気づいて認めると、物凄く不快になって、そのあと急に脱力した。「自我」と自律神経系はどうやら密接に関係しているらしく、筋肉が緩んで、胃腸の緊張感もなくなって、あくびがたくさん出た。認めると頭の中のモヤモヤがなくなって、思考の数が減り、「今」の解像度があがり、身体への同一化も緩んだ。心と体って不思議だなあと思う。どういうカラクリになってるんだろう?

L図

 最近はずっとラカンを読んでいた。ラカンは図があるので分かりやすい。このa-a'の線が、想像的という言葉で結ばれている。愛、憎しみ、嫉妬などの感情で繋がっている。「俺かお前か」という闘争関係にある。「鏡」の関係だ。「嫉妬」を感じる人を一人思い浮かべればその人だと思う。
 (初期の)ラカンはこの想像的な関係は虚しいという。だから、A→Sの線が示す、無意識から主体へのメッセージが重要なのだが、それを想像的な自我が邪魔をしてしまう。患者と分析者は想像的な関係ではなく、A→Sへいくような象徴的な関係にならなければならない。「対等」や「同類」といった関係になってはいけない。

 この「想像的な関係」は非常に厄介だ。「同類」に嫉妬や憎しみを抱き続けるのは苦しいし、やめるのも難しい。気づくのも難しい。「こいつらと同類だ」というのを認めるのが嫌で「憎しみ」や「嘲り」を行うのだから、通常は一人では気づけない。無意識の「否認」に自分で気づくのはほぼ不可能だ。だから精神分析というのは一人で行うことができない。

 だが、瞑想というのはその不可能を可能にするように思える。分析家の解釈や宣託がなくとも、思考をセルフチェックすることで、徐々に「本当の気持ち」が浮かびあがってくる。これを「智慧」と呼んでも構わないと思う。

 「僕はこの人達と同じだ」と認めることで、自己嫌悪と憎悪がなくなった。瞑想は無常や無我を知っていく作業だが、このように自己理解も深まっていくので楽しい。自己理解をすると、我が死んでいく。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。

道元

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