創作の崩壊によるニヒリズムの深化

 ニーチェを読んでいると、よく「創造」という言葉が出てくる。今までの古い石板(価値観)を破壊して、お前だけの価値観を生み出せ、ということらしい。最近思うのは、ラジニーシやクリシュナムルティといった20世紀の西洋向けスピリチュアルリーダーは、ニーチェ化したブッダだということ。仏教から戒律をなくし、極端な禁欲主義を廃止し、中道を説く。東洋にはすでに「超人」がいるので、それをモデルにすれば良かったのだと思う。ニーチェの「オリジナリティの溢れる生の価値を創造せよ」というのは禅仏教と全く同じだ。仏に会ったら仏を殺せ。むしろ実践方法が明確な分、禅仏教のほうがラディカルだと思う。

 ニーチェもラジニーシもクリシュナムルティも「創造」を重視しているが、これは「個人の個人による個人のための創造」という18世紀あたりから始まったロマン主義を受け継いでいるのだと思う。
 「美的現象としてのみ存在と世界は永遠に是認されている」
 「告白。――僕は最後まで芸術家である。いっさいの芸術を捨てた後に、僕に残された仕事は、人生そのものを芸術とすること、だった。」

 僕はネットで様々な人間と通話をしまくっているのだけれど、話題に困ったら「煽りとかじゃないんですけど、なんで生きてるんですか?アンケートです」と言う。「死ぬのが怖いから」「生まれたから」「死ぬまでの暇つぶし」というのが多いが、「生きる意味を探すために生きている」というのも案外多い。これはニーチェのいう「価値の創造」だと思う。人生の芸術化。そんなに深く考えてはないかもしれないけれど、「俺の人生は俺だけが生きる」という意識は現代人に通底している気がする。

 それを象徴するのが「クリエイター」である。オリジナリティ溢れる「内面世界」を作品化して、確固たる個性を見せつける。岸田メルとかもそうだけれど、草間彌生とかダリとか、「創作者」自体が「個性」を衒っている感もある。「圧倒的なオリジナル」という役割を負わされている。

 で、AIによって創作は全部死ぬんだ。最近ニュースで「AIに脚本を書かせるな」というデモがあったというのを見たが、人間のクリエイティビティが侵されるのが怖いのだと思う。「俺の人生は俺の」を体現していたクリエイターが没落するのが嫌なのだと思う。僕はAIイラストになんの嫌悪もないのだが、死ぬほど嫌っている人がたくさんいる。「人間から創造性を奪ったら、ただのサルじゃないか?」

 個性的、創造的な偶像は死ぬ。人間から偶像を奪ったら何が残るんだろうか?快楽かな


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