20200118 初恋とカフェイン

 初恋というものを思い返すと、ぐにゅぐにゅとした不定形の感情が踊り始める。僕にとってのそれは、今も鮮明なまま脳髄ドライブに記録されていて、いつまでも僕をぐにゅぐにゅさせるのだ。
 これは今の僕が作り得る限りの謹製文である。心して読んでもらいたい。いや、やはり読まなくても大丈夫だ。無理は禁物だ。

  ○

 最後の接吻といえば煙草のフレイヴァーがしたと万葉集の頃から残されている通り、そうと相場が決まっている。
 ならば、諸兄諸姉にとっての初恋の味とは一体どのようなものだろうか。甘酸っぱく、歯が軋むようなカルピスか。将又、突き抜ける青空の如き清涼感の檸檬だろうか。それらを想起できるのならば、得も言われぬ素晴らしき至上の経験があったに違いない。拍手喝采のグランドフィナーレを迎えたことだろう。諸氏の脳髄ドライブには高解像度のMP4ファイルが保存されているのではと邪推が首を擡げれば、羨望も湧く。可能ならば無上の思い出を胸に秘めたまま骨壺に入っていただきたい。
 しかし、僕は思うのだ。
「君の味蕾が感じ取ったものはマヤカシだ!」
 もしや、大衆がマヌーサにかけられているでは? と、懐疑的になってしまう。魔法にかけられるのはプリンセス・ジゼルだけで十二分に間に合っている。限られた人間だけが知り得る嘉すべき味など、失笑噴飯、噎せ返れば尻は捥げ、臍で茶は突沸する話だ。全てを覆い隠す程の厚化粧で拵えた磁気テープの本質は、靄がかかって到底見えやしないのだ。べろべろと舐めれば辛酸が口腔に広がる。
 僕が半生を賭した考察の末、やっとのことで辿り着いた初恋の味の正体は「キリマンジャロ・コーヒー」に他ならない。後を引く嫌味たらしい酸味と大脳を刺す苦味が、今でもありありと蘇る。貧乏舌が故の判断は馬謖くらいに早計やも知らないが、僕の中ではそうと裁定が下り、主文が言い渡された以上、今更になって覆せる筈がない。男としてこの世に生を受けたのなら、こうと決めたことを突き通さねばならぬのは世の定めだ。少年の頃に、父が教えてくれたことを守るのは子の役目である。
 どんなに勘が鈍くとも具にわかる通りに、僕の学生時代(無論のこと、現在進行形である)が至極真っ当であったことなど一秒としてなかった。その青は誤った希釈で薄く伸ばされていて、最早無色透明だったし、その春は枯れ木の間でハーメルンの虎落笛吹きが懸想人を拐かし、行進するような寂しい季節だった。青春の名を呼べば顔からは火が吹き出で、三斗の冷汗が消火をする。
「あの頃を思い返せば、忸怩たる思いが丹田の奥底から無尽蔵に湧き出でやがる! 何と嘆かわしいことだろう! 悔やまれることこの上なし。我が墓標には慚愧と彫ってくれ」
 とは、僕の辞世の言葉である。
 僕にとってのキリマンジャロ・コーヒーは唾棄すべきものに他ならない。心底辟易する。

  ◯

 点睛を欠いた鈍間なアバンで始まるこれを、私小説と呼ぶなど甚だしく、僕の慈愛と哀愁に満ちた回顧録は退屈やも知らない。勿論、毒にも薬にもならない。それでも、どうか諸氏にはお付き合いいただきたい。
 何故なら、僕が話したいからだ。どこかへ残したいからだ。それ以上も以下もない。
 一厘でも興味が湧いたのならば、まず現在時刻の確認をすべきだろう。有限貴重なその時間を無下にしてしまうのだから、暇に越したことはない。無碍なるままに書き連ねたこの先は長い。優先すべきことがあれば、直ぐ様にブックマーク機能をご利用いただければ幸いだ。どうにも興味が湧かないのならば、どうにかして湧かせてほしい。
 僕の便所の落書きの総決算が膾炙していくことなどありはしない(そして、あってはならない)けれど、誰かしらから手放しの称賛を頂戴できたのなら、その素敵なる貴方への返礼品として、僕からつぶらな瞳でのウィンクと投擲接吻をお送りしたい。不幸の手紙の要領で周りに喧伝してもいい。誰かの時間を躙り潰せること程の愉悦を僕は知らない。
 構想云十年、製作費云十億ドルの何部作続くかも杳として知れないスペースオペラと比べれば、負けて劣っての平々凡々たる独り相撲譚である。ここに僕の闘う姿がなければ、僕がフォースに目覚めるハイライトもない! 約束された大団円などない! 見所はない!
 二万字を超越する拙文は渺茫と続いていく。これは僕と諸氏との根比べだ。甘く酸いて塩辛く苦い思い出の語り部として誰が最も相応しいのかを決めよう、正にコンクラーベだ。
 僕のノンフィクションは、味気なくエンタメ性に多少の欠損がある。ほんの僅かばかりではあるけれど、脚色と虚飾を行うよう心掛けていくので、平にご容赦いただきたい。

 ◆◇◆

 今でこそ淀川の底くらいに汚れちまった僕にも、一般的なヒト科としての経験(矮小なものばかりだけれど)がある。無色透明の岩清水だった少年の心は、齢十を前にして淡い桃色へと染まってしまった。胸がキュルルンとしていた。染まり始めたら、伝播は止まらないのだ。僕のヘモグロビンもかなり薄まっていたに違いない。
 この回顧録の舞台は、大体が僕の地元である。この街は片田舎に違いないが、隣市に世界有数の大企業が本社ビルから工場までを構えている所為で、ベッドタウンと化しており、そこかしこには住宅街が点在している。

  ◯

 その頃の僕といえば、手の施しようのない馬鹿(正しくはそれ以前、以降も)だった。垂れる洟は青く、ケツも青い。膝小僧にはいつだって青痣があった。突き抜けるように高い青空の下では、僕らはジュブナイルの主人公を気取っていた。そう言えば、あの映画の舞台に2020年の描写があった気がする。小高い山の上を切り開いて建てられた小学校は、毎日僕らの遊び場だった。
 当時、僕らが夢中になっていたものは、同年代が屋上から真っ青な陳述を喚く姿や、実生活で使える裏技が舞い込む擬似家族の団欒だったり、お笑い第四世代のコミカルさや感性を煽るテロップ、それに付随する効果音や、第五世代で犇めく劇場風のセットだったり、平たい鼠色の家庭用ゲーム機が、黒く屹立した姿に変わって、「こんなの現実世界と同じじゃないのか!」と、興奮して鼻息を荒くしていたり、全てはブラウン管の向こう側だった。
 学び舎での生活といえば廊下を走り回るか、グラウンドに出てボールを蹴り飛ばすか、雲梯を一つ飛ばしで進むか、山を登って掘削作業に没頭するか、うんこやらちんこやらという安直下劣なワードに歓喜し、腹を抱えて笑い転げていたくらいだ。僕らは醜悪で純粋だった。
 小学校という閉鎖的な環境では、男子は男子と連み、女子は女子と連むものだと慣習法じみたものが暗黙の了解として施行されている。それは当時の友人らの行動に如実に表れていた。異性と会話をするアウトローを目敏く見つけるや否や、「おい、あいつ女子と喋ってたぜ!」と、迅速且つ大胆な密告をする。そして、「やい、この好色垂れのスケコマシめ!」と、謂れなき誹謗中傷に勤しみ、数日間はその話題で持ち切りになっていた。何ともかわいらしく、下らない光景は僕の原風景のひとつだ。

  ◯

 暗愚道を邁進する腕白小僧だった僕は小学五年生に進級した。義務教育でなければ、危うかっただろう。そうして僕の片田舎ラブストーリーは俄に動き出す。気分だけは織田裕二だった。あの日あの時あの場所で僕はあの子に出会うのだ。
 長かった夏休みが明けると席替えがあった。それは娯楽の少ない小童共には最良の催し物で、ややもすれば狂喜乱舞する気配すら醸し出される。僕は、「一番前の席じゃなければいいや」程度の願望を持ちながら、落ち着き払った風の表情で座席の決議を待っていた。学級長が、くじ引きの紙で一杯にした真っ黄色の通学帽子を持って回る。僕の番が来て、くじを引いた。紙に書かれた数字と黒板に書かれた座席表を見比べていると、
「はーい! それじゃあ、みんな番号の書かれた場所に移動しましょう!」
 と、学級担任の号令が鳴る。それを皮切りに生徒らは矢庭に動き始めると、教室は喧騒で満たされた。がたがたと机と椅子を運び、がやがやと思い思いに喚いている。僕も周囲と同様に移動を始め、窓際の後ろから二行目の席へ着いた。
 座席の並びには法があった。教壇を向いて、左から男女男女男女の順で列を作る。
 意味を持たない矜持で異性との交流を絶っていた男女が交互に座るのだから、大抵は知らぬ存ぜぬの女子が隣人となる。どんな人間でも構いやしない。
 がらと椅子を引く音がして僕は右を向いた。前述の通り、そこには女の子が一人座っている。僕の網膜が映しとった姿は、伊藤さん(仮名)だった。彼女は僕の方を向き、「よろしくね」と含羞んだ。男という哺乳動物は何と愚智蒙昧な生命体なのだろうか。僕はその一言で初恋の奈落へ落ちていった。
 実のところ、この席替えは実感を生んだ機会に過ぎない。僕は彼女のことをずっと前から知っていた。何となくだったけれど、既に淡い恋慕は芽生えていたのだ。
 それからというもの、僕は恋の奴隷と成り果てていた。
 いつも前髪を気にして弄る少女の仕草に、僕の視線は拐かされ、釘で強く固定されていた。
 後年の僕はこう語る。
「そりゃあもう、彼女の笑窪は落とし穴に違いないね。稚く笑う時に覗く右の弥歯を見たことがあるかい? 可愛いもんだろう? あれは、クピドの矢より深く僕の心の臓へ突き刺さったままさ。抜き捨てようものなら僕は失血して死んでしまうね。ヘラもアテナもアフロディテも霞んでいたさ」

  ◯

 伊藤さんと懇ろになるにはどうすればいい? 僕の頭はそればかりだった。級友の謗りなど気にしていられなかった。
「おはよう」
 と、挨拶を交わすだけで日々は過ぎていく。時々、何気ない会話をしていたけれど、気負いの所為で上手くできたようには思えない。そこで、僕は彼女に僕の魅力を伝えなければならないことに気づく。
 小学生男子が異性の視線を集めることなどいとも容易い。徒競走での俊足さえ発揮できればの話だ。しかし、僕の運動能力はどう足掻いて、どう転がっても平均並みを超えない。バタ走りの僕を贔屓に鑑みても、勝ち目はない。一輪車なら乗れるが、どうにもアピールポイントには弱い。ならばどうだと、僕は知的さのアピールを試みるのだった。単細胞生物に思い付く兵法は、「実は僕、難しい小説だって読めちまうんだぜ?」という愚策だけだった。
 僕は直ぐ様に休み時間に続けていた阿呆の振る舞いをやめた。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆になって堪るものかと僕は書物を手に取った。学級文庫では足らない。もっと格好のつくものをと伽藍堂の頭を捻り続けて、手当たり次第に読み耽っていた。当時、鈴木光司氏の「リング」と野沢尚氏の「真紅」を読んでいたことは明瞭に覚えている。言うまでもなく、ノータリンの頭には難解で苦痛を伴う読書だったが、いつしか未来のダーリンに、「それ、どんなお話なの?」と尋ねられる可能性を夢見ていたのだから止め時は疾うに失っていた。来る日も来る日も読み続けていた。
 そして、進展もないままにすっかりと読み終えた。

  ◯

 僕の権謀術策は終ぞ成果を上げはしなかったものの、持ち前の赤道直下型の陽気を武器に彼女に声をかけ続け、持ち得る限りのトーク力を駆使し、何とか「友達」の称号を勝ち得た。この頃の努力があったからだろう。現在を生きる僕は友人から「そこそこに話が達者で雑に人を煙に巻く奴」というレッテルを勝ち得ている。
 フィーチャーフォンが普及し始めたばかりの当時、連絡手段は限られたものだった。家庭用固定電話を使って、市外局番から始まる電話番号のボタンを順繰りに押すことには莫大な緊張を伴った。
 何とかして、一緒に遊ぶ口実はないものか、デートへのお誘いの口説き文句はどうしたらいい。僕は最早、懊悩の奴隷だった。
「今度、クラスのみんなで遊ぶんだけれど……どうかな?」
 と、たったそれだけで済ませられる筈なのに、そのそれだけがちっとも言えやしない。何度も彼女宅の電話番号を確認した。それこそ空で唱えられる程に。意を決して受話器を耳に当てても、僕の食指はボタンの上をなぞるばかりだった。もし彼女のご両親が電話口に立ったのなら何と言えばいい? 考えるだけで怯懦が僕を飲み込んでいた。咽喉の底で痞えたものを吐き出そうと口唇だけがぱくぱくと開閉する。僕の耳に届くのはツーという電子音だけだった。

 ◆◇◆

 伊藤さんを一度も誘うことができないままに、気づけば僕は中等部にまでのし上がっていた。
 僕らの学区には、同じ名前を冠した公立の小学校と中学校から、高等学校までがある。高等学校に至っては当時有名な片田舎ヤンキースの巣窟であった。男子生徒らはいつだって屯ろし、悪さばかりを働いていたし、女子生徒の冬の制服は埴輪スタイルだった。一人の男子生徒が上下グレーのスウェットで登校を試みて、正面校門で教師による検問を受けて弾き返されているのを見たことがあるし、下校時に坂上にあった高等学校校舎から下ってきた男子生徒が、駐車してあった車に乗り込み、そのまま運転して帰るのを見たことがある。複数人の女子生徒らはいつも蹲踞の姿勢で校門前で喋っていた。ああはなってはいけないのだと、僕の行末について考えさせた。
 数年前まで身に纏っていた白菜のような青臭さは薄れていたが、打って変わって僕は加爾基臭さをむんむんと撒き散らす妖怪に変貌していた。無味乾燥の青(と、呼ぶにはあまりに薄く)春(と、呼ぶにはあまりに寒い)時代はこれ見よがしに続いている。
 しかし、そんなうらぶれた日々が一変する事件が起きた! 遂に、僕が携帯電話端末を手にする時が訪れた!
「おお、神よ!」と、浅薄な信仰心で僕は天を仰いで、仏壇にお菓子を供えた。
 中学生のド真ん中。当時に僕が徒党を組む連中といえば、ヤンキー風の奴ら(後に前述の高等学校へ入学し、彼らは完全なる不良へと変貌していた)や過激派の思想家ばかりで、好き勝手に遊び歩くものだから、放任主義という免罪符の不干渉を貫いていた両親(決して関係性が悪い訳ではない。寧ろ、仲はいいと思う。そういう家庭だっただけで、今ではその対応に感謝もしている)にも一抹の心配はあったようで、いつでも連絡だけは取れるようにと持たせてくれたのだ。友人一同は僕の知らぬところで不行跡に精励恪勤していたやもしれないが、僕は見事なまでに清廉潔白な身の上であることを念頭に置いてほしい。聞いた話では僕らの半世代上までは荒れに荒れていたようで、校舎内は原動機付き自転車のサーキットになっていたらしい。その名残は色濃く、数多の生徒に継承されていた。
 二つ折りのフィーチャーフォンは僕の心強い武器となった。鬼が金棒を握るくらいのバフ効果ではないが、人に重火器くらいの根拠なき自信が湧き出る。そいつを学生服裏、胸元の隠しに忍ばせた僕は、虎視淡々と意中の伊藤さんの連絡先を問い質す機会を狙っていた。

  ◯

 僕の脳内で繰り返し行われたシミュレーションは完璧だった。作戦はシンプルだ。綿密煩雑な作戦程、小さな誤算で脆くも崩れ去るものだ。
 内容はこうだ。伊藤さんが勉強で困っている瞬間に、透かさず僕が手助けをする。それだけだ。すかたんの中学生が矮小な脳みそを宙返りさせながら編み出したものにケチはいらない。
「どうしたの。悩んでるなら、そこ教えようか」と、僕。
「いいの? すごく助かる」と、彼女。
「うん、全然いいよ。そこ難しいもんね」
「そうなんだよね。定期テストも近いし、ちょっと不安かな……なんてねー」と、彼女は含羞む。
「あー、わかる。僕もそうだよ」と、僕は微笑み返し、「学校じゃなくても教えられればいいんだけどね」と、続ければ、
「じゃあ、教えてよー」なんて、彼女は悪戯っぽく笑うのだろう。
「任せてよ、と言いたけど手段が——」と、僕ははっとした顔をし、「——携帯ならあるけど……」
「そうじゃん! そうしよ、メールアドレス教えてよ!」と、言うに違いない。

  ◯

 そう、言わずもがな僕の脳内はお花畑であった。
 待てど暮らせどその瞬間はやってこない。僕は結果ばかりを深追いし過ぎるあまり重要なものを見落としていた。遅刻も早退も好き勝手にして、授業も碌に聞かずに居眠ったり、窓外を覗いて、「この世はなんて醜いんだ……」と澄み渡る快晴に毒突いてみたりに精を出しては、教師陣からの必死の指導を受けていた僕とは違う。彼女は品行方正で勉強だってお手の物だった。そんな彼女に僕の助力など無用の長物だ。いや、長くもない。ちんけな短物だ。
 夢見るベストタイミングは僕をじりじりと焦がしていた。辛抱堪らずに業が煮え千切れると、裸一貫の心持ちで伊藤さんに声をかけた。
「ねぇ、伊藤さん。メールアドレス、教えてくれない?」
 彼女は僕の顔を見て、
「いいよー!」と、快諾する。
 覗く弥歯は相変わらずにキュートなものだった。

  ◯

 僕が拗らせた懸想人への恋慕の情は、蝉の幼虫が如く腹の奥底で熟成発酵していった。思春期を迎えれば、我が恋慕の風船はヘリウムを鱈腹に呑んで破裂寸前となっていたし、浮揚力を得てふわふわとどこかへ飛んでいきそうな怖さがあった。義務教育最終年度の受験生へと完全変態が完了するまでは間近となっている。僕はいつまで経っても不足しっぱなしの意気地を補おうともしない我が身を捩り、懊悩煩悶の渦中でハムスターよりもぐるぐると回転していた。
 思春期というものは痴れ者を量産するのに十分なドラッグだった。
「なあ、同志諸君よ。今日、俺の家に集まらないか? 兄さんの部屋からとんでもない超ド級の助平デジタルヴァーサタイルディスクが発掘されたんだが」
 と、誰かが密やかに漏らせば、愚図愚図の淫猥少年らが一致団結する。彼らは戦士だった。全員が傘連判状に血判を押し、他言無用を決め込んだものだった。

  ◯

 伊藤さんの連絡先を手に入れてから、恋慕のアドバルーンはより一層膨らみ、僕の心情を喧伝するようになる。下るも下らないも度外視して、彼女へと日々のメッセージを送るようになった。パケット通信料は鰻上っていった。僕の血糖値は下がり続けていった。
 彼女からの、「じゃあ、もう寝るねー。また明日、おやすみ!」という電子メールは僕の眠気を吹き飛ばしていく。
 しかし、どうにも僕と彼女の距離が近づいているようには思えなかった。僕は夜毎、ベッドに寝転がっては、未だ顕現せぬ神や仏への救援通信を試みていた。
「メーデー、メーデー! やきもきのゲバルトが僕を襲い続けている! 僕の薄っぺらの装甲は内側から食い破られていった! 腹腔にぽっかりと空いた風穴から溢れるリビドーは、薄廃れの日常をオルグしている!」
 我慢強いことで両親に褒められていた僕だというのに、どうしたことだろうか。あんなに僕を支えていた堪え性が脱兎の如く逃げていく。泡食って追いかけたところで間に合う訳がない。僕は運動音痴だったのだ。
 程なくして、恋の奴隷としてのうらぶれた生活で培われたルサンチマンが、僕の意思を僭主としていた脳内国家でクーデターを企てる。自転車操業を続ける国家運営の操舵を一任されていた僕のイデアなど、いとも容易く打ち倒されてしまった。寝ても覚めても二の足を踏み抜くことに固執していた因循姑息派閥は衰退し、武闘派の急進勢力は破竹の勢いで植民地を増やしている。

  ◯

 それから情慾の箍が外れてしまった僕は、止め処ない僕のリビドーについて切々と語るべく、伊藤さんを放課後に呼び出した。僕は彼女へと愛について、これからの大日本国の繁栄について、再び愛についてを滔々と暴露した。
 勝機を見込んでなどいなかった。所詮、四方八方と路傍に散らばる凡庸、果ては野暮が代名詞であるかの塩辛いマスク(多少は鼻筋が通って、高めではあるけれど)だ。このような素っ頓狂人の蒙昧野郎が繰り広げたラヴが滑稽であることにも違いない。正気を失っているように見えたやも知らない。
 しかしながら「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったもので、私の想定とは裏腹に望外の返答があった。
 僕の鼓膜を震わせるのは、彼女が発した、「いいよ」の三文字だった。
 少し日に焼けた彼女の顔が、更に少しだけ紅くなっていたような気がした。前髪を弄りながら、含羞む。弥歯はその日も可愛らしかった。
「ああ、テュケーの微笑みに、どのような返礼をしたらよいものだろうか」
 僕は仏壇の前で跪いていた。

  ◯

 清く正しく美しく、初々しい男女交際を始めるに至った僕は有頂天になり、軽佻浮薄であった。あの日の僕は舞空術を会得していた。
 何でもない電子メールのやり取りは続いていた。ありふれた会話は以前と何ら変わりはない。それでもいいのだ。何と言っても、僕にとって伊藤さんは「彼女」になったのだ。その後ろ盾は強固だ。しかし、またしても僕は一つの壁にぶち当たる。一歩先を目指さねばならない。そう、彼女との熱烈なチッスを夢に見ていた。
「ああ、きっと彼女の口唇は柔らかいに違いない。僕が今まで触れてきた全てのものよりもそうなんだろう」
 そればかりが僕の脳を掻き乱していた。下劣。そう下劣で淫蕩を夢見る思春期なのだ。お目溢しいただきたい。下劣漢は夢見る少年じゃいられなくなっているのだ。
 何もせずに通り過ぎていく時間を、止めねばなるまい。学生らしくいじらしい思い出作りがしたくなった。
「テストの前に、一緒に勉強しない?」
 と、僕は彼女を誘った。口実なんか何だっていい。あわよくばチッスも、と淡い野望もありはしたけれど、僕はただ彼女と過ごしたかったのだ。これは嘘じゃない。
 それから数日後、彼女は僕の部屋にいた。ローテーブルで隣り合って座っている。彼女は既に復習を進めながら、苦手単元の克服に勤しんでいた。僕は先の見えない終着点を目指してしゃかりきに課題に勤しんでいた。幸い僕の地頭だけは、そこそこの出来だった。勉強時間に対しての学力は十二分なものだった。彼女のわからないところを解説しながら、頼れる男を演出するには十五分だった。神のキャラクタークリエイトに感謝した。
 勉強を一旦切り上げて休憩を取る。彼女はペットボトル入りのレモンティーを飲んでいた。その姿を僕は眺めていた。僕の部屋に流れ込む斜陽で彼女は煌めいていた。「キミも飲む?」なんて笑顔で手渡された僕の心中は想像に容易いだろう。どぎまぎが僕を漫ろにさせる。巧みにそれを隠しながら僕はブリキ玩具の動きで受け取り、ぎくしゃくの笑顔で、「えっ、ああ、いいの?」と、スマートにそれを飲む。勿論、味なんて判別できない。ただの水と変わらなかった。これは俗に言う「間接チッス」じゃないか! 僕の心拍は最高速度を記録していた。
 それから暫しの沈黙を経る。
 詳細については話すまでもないので、割愛させていただくけれど、僕は彼女との接吻を果たした。嘉すべき瞬間である。僕の数年間の発酵醸造された恋慕が悲願成就した上に、遂に下賤なる野望までやってのけたのだ。
「……初めてあげちゃったねー」と、彼女は俯きながら笑った。
 僕は不気味な笑顔を作っていただろう。
「レモンティーの味がするよ」と、僕を見上げて彼女はまた笑った。
 僕の頭は爆発した。

  ◯

 しかし悲しいかな、耽美なる日々とは得てして続かないものである。僕らは別々の高等学校へと進学した。気づいた時には既に遅い。偉い人はそれを破局と呼んでいた。
 以降、彼女とは目線どころか言葉すらも交わすことなく、僕はしんしんと雪の降り積もる真冬のような思春期を謳歌した。目も当てられぬ気息奄々の思春期である。セノーテ宜しく無色透明な青春がまたしても開演した。高校生活は何も覚えていない。無聊そのものだった。
 交際当時の僕は彼女を当たり前のように名前で呼んでいた。
 しかし、それからの僕は彼女を当たり前のように「伊藤さん」と呼んでいる。

  ◯

 あれから幾星霜が過ぎ、僕は大学二回生になっていた。伊藤さんとのラヴリーでステディな関係がお釈迦になってから、二人だけ別の女性とのお付き合いをした。一人はソフトボール部エースの女の子で、僕より背が高かった。もう一人は元レディースという途方もないヤンキーだった。訳のわからない遍歴である。
 成人式後の同窓会で僕は伊藤さんと再会をした。
「久しぶり! 全然変わってないねー。元気にしてた?」
 と言う彼女は数年前に見たあのままだった。
 私の網膜が焼き焦げるくらいに凝視したあの弥歯も、あの癖も変わっていなかった。懐かしいような、新しいような摩訶不思議な心持ちであったのを覚えている。何よりも纏っている雰囲気が変わっていなかったことが嬉しかった。あどけないのに、どこか大人びて見える。しどけない我が身が気恥ずかしかった。
 彼女の魅力は筆舌に尽くし難い。語彙が足らず訥弁が故に、諸氏へとその魅力について届けられないことが非常に悔やまれる。多少でもご理解いただけたのならば、僥倖である。人心を弄ぶ彼女は飛縁魔なのだ。近い内に彼女のコケティッシュを世に知らせるための公聴会を開く心算であるので参加を奮ってご検討いただきたい。
 僕の中で、疾うに過去の遺物として箪笥の肥やしとなった筈の恋慕の情が、性懲りもなくじわりじわりと滲み出し、「オヤ、そろそろ出番かな」と僕の柔く脆いところをせっせと責付いていた。過冷却された水のように一度揺らせば反応してしまいそうになる。
 しかし、「最近どう?」なんて出涸らしの詰まらない文句を、僕が言ってしまのが運の尽きであった。大学での話とか、友達の話を聞いた。そして、彼女は言った。
「最近彼氏ができたんだ。すごく幸せだよ」
 それから僕の記憶は飛んだ。気づけば厠で吐瀉物を流していた。
 たった一度だけ、僕が偶発的に触れてしまった彼女の小ぶりな胸元を、どこの馬の骨かわからん野郎が貪っていると思考を巡らせば、酒を呷るのに足る事由になった。
「あんな酸いた葡萄を食う奴がいるもんか!」
 僕の悪態は厠で渦となって流れていった。

  ◯

 僕と伊藤さんの関係は友人へと成り下がっていた。
 友人などという間柄は酷く歯痒い。その位置づけに一度落ち着いてしまえば、アタックチャンスは遠退くばかりだ。恋い焦がれの青少年にはそのことをどうか肝に銘じてもらいたい。「まずは友達から」というのは愚策中の愚策なのだ。弄するだけ苦労をするぞ。
 世俗では男女間での友情は成り立つか、成り立たないかの論議が度々勃発している。僕にすればそんなものは一笑に付す瑣末な話題であり、鼻息ですら吹き飛ぶような薄っぺらな議題であった。答えなぞどうでもいい。興味がない。と、強がっている時期もあった。その筈であったが、場合が場合である。問題点は男女間の友情ではなく、僕と伊藤さんの友情についてだ。成り立つとか成り立たないとかじゃあない。事実、僕らは友人の位置で落ち着いていた。結局のところ本人たち次第、という畜生も食わない腹立たしくも粗末な結末があった。
 ならば、友情という達磨さんをすっ転ばすために、始めの一歩を踏み出すにはどうしたらいい。頼れるものは何もない。僕は見栄も矜持も屑籠に投げ入れた。雑誌から、インターネットから、あれやそれやまでの恋愛に関するアンケートやコラムを貪るように熟読していたし、神にも縋る思いで毎朝の血液型やら星座の占いまでもに目を配る有様であった。等数に分配される運命の馬鹿馬鹿しさも意に介していられない。僕は腹が捻じ切れる程に占術を笑ったけれど、自身の戦術には笑う気力すら削がれてしまった。
 過去の交際とやらは霧散した夢想であったのだろうか。彼女は思い出の中の伊藤さんそのままに僕に接し続ける。霧散している筈の過去の栄光のためだろうか。またしても僕は彼女との距離感を上手く掴めないままに、逡巡の迷路の真っ只中で取り残されていた。
 それでも僕は満ち足りていた。時々に、共通の友人らと一緒に夕餉を共にして、酒を呑んだり、近況報告をし合った。それだけでよかった。当時の昼行灯が見逃した青春というものを拾い集めているようだった。僕が頓珍漢だったことを忘れていた。
 それでも、もしかしたらどこかに千載一遇のチャンスが転がるのでは? という下卑た期待があったことは否定できない。しかし、それと同時に、僕の瘋癲と与太を転がしていくずぶずぶの手遊びのような生活が始まるまでは秒読みとなっていた。当時の僕は完全無欠のバンドマンだったのだ。詳しくは別途詳細が書かれている記事をご覧になっていただきたい。探せば直ぐに見つかる筈だ。
 あれやこれやとしている間に、時計の針はぐるぐると回り、日捲りはびりびりと破かれていく。
 僕が、「アッ」と言う間に数年が経っている。

 ◆◇◆

 型落ちも型落ちのラップトップ型旧式マッキントッシュのキーボードを、何か思い出してはぶっ叩き、何も思い出さなくてもぶっ叩き続けている訳だけれど、僕という人間はやはり惨めなのだと再三、再四、再五と痛感させられてしまう。僕の歩んできた轍はどれも礼節から外れているし、鈍間なものだ。
 僕の惨めさを再認識する度に僕は言うのだ。
「ギャフン!」

  ◯

 この世は悲しいかな、映画や演劇ではないのだ。ドラマチックな展開がある筈がない。予め備え付けられた筋もトも書かれてはいないのだ。放蕩無頼な生活は、僕が如何様に足掻き藻掻いて、死にかけの成虫宜しくじたばたと暴れたところで、僕の手を離してはくれない。ドラマチックなチックフリックは、水平線の向こうよりも遠くからこちらへと嗤笑をお届けになるのみだ。
 僕は瘋癲を商いとし、与太に飽きない身の上へと完全変態を遂げる。故に、僕は張るような見栄も、切るような札も持ち合わせがなかった。
 僕がみだりがわしい男であることは重々承知なのだ。
 そして、無為徒食が何よりも愛おしかった。
 僕が伊藤さんにそぐわない男であることも重々承知なのだ。
 そして、こんな自分自身が何よりも酷く厭おしかった。

 ◆◇◆

 ずうっと続いてきた、鍛冶工が懇切丁寧に仕上げた銅板のような、冗長に冗長を重ねた薄っぺらで平坦の話もこれで最終章である。ここまで読み進めたのならば、その忍耐力に敬服するばかりだ。そして、最早読了も目前である。いや、そう言っても過言ではない。
 これまでは論文めいた堅苦しい言い回しだったと思う。大学校での専攻学部のお陰で卒業論文を書かずに済ませた僕には論文が何かわからないけれども。思えば小学校の時の夏休み課題にあった読書感想文も三年間くらい同じものを出し続けていた気がする。
 趣向を凝らしてここからはストーリーテリング形式でのお伝えをしていたきたい。最終章開幕を前に、僕の両の手の指間接に備わったモーターは準備万端と唸らせている。電力代わりのレモンサワーもしっかりと飲み干した。

  ◯

 実のところ僕と伊藤さんの間には、所謂「いい感じの雰囲気を醸している間柄」というものへと変貌する兆しが、顔を覗かせる瞬間があった。
 それは僕が大学校での修学過程を終えて、晴れて卑しき身分へと転落したばかりの頃である。
 とある日に、僕と伊藤さん、共通の友人らでの細やかな飲み会があって、その帰路の途中で彼女は言った。
「今度さ、二人でご飯はどう?」
 僕は仰天した。不意を衝く彼女の言葉に、「ギョッ」と呻きそうになった。僕の切れ短かの双眸は、目尻を千切らんばかりに開いたことだろう。肺のびくつきを殺して、彼女を見た。稚く笑いながらこちらを覗く彼女の視線は、僕の全てを見透かすようだった。夜だというのに彼女の瞳は光を集めて輝いている。一体全体どこを探せば、この申し出を断る謂れがあるのだろうか? 腑抜けそうになる表情を、内頬を噛んで引き締め直す。僕は紳士となって応える。
「うん、いいと思います。どこに行こうか」
 なんとも白々しい二つ返事で快諾をしたものだと、自嘲気味になる。僕の脳髄の回転数が上がっていく。アルコールの燃料を得たそいつは鈍麻に出鱈目に空回っている。ほら、遅いぞ、電気信号! と僕は鞭を打った。ああ、そうだ。安っぽい居酒屋は止そう。ちょっとハイカラなくらいが丁度いいだろう。ああ、そうだ、それがいいに決まっている。きっと彼女は、僕に微笑むぞ。少し上気した顔で僕の顔を見る。ややもすれば、伊藤さんと僕の関係は好転するのではないだろうか。言うんだ、歯が浮いて踊るくらいのニヒルな口説き文句を暖めておかないと——。
「それじゃあさ……。私の家、おいでよ」
 想定の遥か上空を錐揉みしながら飛んでいく彼女の言葉に、僕は首筋を痛める程に振り向いた。「ヘアッ?」と胸にカラータイマーを仕込んだ、M78星雲産のスーパーヒーローの如き音になって呻きが漏れた。驚天動地の好機に僕の肺はきゅうと締め付けられる。僕の声帯は機能不全に陥ったらしい。僕はただ彼女を眺めていた。俯いている彼女の表情は読み取れない。気の利いた、瀟洒な言い回しをしなければと僕の口唇が開いて、息を飲む。彼女がふっと、こちらを見た。
「ごめん、嫌ならいいんだ——」
「——ううん、それでいいよ! いや、それがいいよ!」
 僕は前のめりになって、彼女の言葉を遮った。
「そっか」と、伊藤さんは呟いた。
 ぽつねんと佇むばかりの街灯では判別のつけようがなかったけれど、少し、ほんの僅かに彼女は嬉しそうに見えた。

  ◯

 それからの予定調整はとんとん拍子に進んだ。半月と経たずに深窓の令嬢たる伊藤さんのワンルームアパートへと足を踏み入れる手筈が整った。
 この頃の僕は大胆不敵であり、豪快な男であった。当時、僕はレンタルビデオショップでのアルバイトをしていた。彼女との約束の日までの僕は、意気揚々で精励恪勤そのものだった。来る日も来る日も返却されるアダルト光ディスクを並べ直し、並べ直したアダルト光ディスクを貸し出していた。毎週の頭に30本を越える作品をレンタルしていく壮年や、色取り取りのどぎついショッキングピンクに眩暈を起こしてフロアに倒れていた初老、禁貸借のモザイクアート作品の窃盗でへまをこいた高校生、アンドソーオン、と数多の思い出がそこにはある。その思い出については、いつか詳細を書き残させていただきたい。勤勉なる働きによって僕は店舗長からの厚い信頼を得て、好き勝手な労働を許されていたのだから、居心地のよさがあまって低賃金を気にせずに続けられた。
 店舗長に、「お前のその鬱屈とした髪がよくないよ。頭の上がどんよりしているように思えるね。多少の明るさは欲しいよね。そんなだから、声が小さいんじゃないのかしら?」と大変な不評を買った。質実剛健の権化である僕は、不評を好評へ変えねばならぬと、直ぐ様に行動へ移した。自慢としていたさらさら艶々だった黒髪は赤茶け色へ染め変わった。そして、翌日に出勤すると、「どうした。頭が錆びているじゃないか!」と彼の朗笑を掻っ攫ったのだった。「いや違う、髪を切れと言っているんだ」とも店舗長は付け加えていた。
 領土侵犯決行夜、僕は道すがらに缶ビールと、伊藤さんの所望した新発売の缶チューハイらを購入した。それらの重みと、頭髪を染色した事実による後悔を引き摺りながら彼女の元へと歩みを進めていた。知らない街の知らない景色も大体が夜に紛れて見えやしなかった。ぽつぽつと続く外灯がどこまでも続いている。この先に待つのは一体どんな結末なのかとか、まずはなんて言おうだとか、そういえば、歯が浮き踊るようなニヒルな台詞はどうした? ああ、何も考えてなかったなとかに思い巡らせていれば目的地はそこにあった。彼女の住むアパートは、僕の住む町の最寄駅から各駅停車の列車で四駅上った先で降り、歩いて五分程の位置にあった。暗雲立ち込める僕の胸中と、彼女の部屋の窓から漏れ出る橙の明かりがそこに相対していた。
 しかし、どうにも腑に落ちない。どうして、今こんなタイミングで。とも嫌味な推測が目蓋の裏を過ったが、据え膳並ぶちゃぶ台をひっくり返すことはできない。それはもう目の前に控えているのだ。
 僕は鉄扉の前に立った。伊藤さんから教えられた部屋番号と表札を見比べて、呼び鈴を鳴らした。錠が外れる音がして、ドアノブが回るとやおら鉄扉が開き始めた。内側から伊藤さんが顔を覗かし、目を合わせると彼女は笑った。
「こんばんは」と、僕。
「どうぞ、入って」と、彼女が僕を招き入れる。
「邪魔するね」
「大丈夫? 道、迷わなかった?」
「大丈夫、すぐわかった。欲しいって言ってたのこれで合ってる?」
「それ! ありがとー。それじゃあ、適当に座ってて」
 僕は促されるままに絨毯の上に座ると、部屋を見渡した。華美ではなく、綺麗に整理整頓された部屋は彼女らしかった。部屋の隅には彼女の好きなキャラクターのぬいぐるみが並んでいる。遂に私は憧憬を抱き続けた桃源郷に辿り着いたのだ。
 伊藤さんは、「大したものじゃなくてごめんね」と、含羞みながら肴をローテーブルに並べると、僕の向かい側に座った。各々のアルコールの封を開けて、小さな乾杯をした。「これ、気になってたんだけど、すごく美味しいよ」と、彼女は僕に言った。「そうなんだ。どんな味かわからんけど、美味しかったならよかったよ」と、僕が言うと、「一口飲む?」と、彼女は僕にそれを手渡した。僕はそれを一口だけ飲んだ。「あ、めちゃくちゃ飲み易いね」と、僕は嘯いた。やはり味なんかわからない。意図していないであろう彼女の行動も、やはり僕を漫ろにさせるのだ。
 僕も大人になった。平静を装うことなど造作もなくなっていた。普通に、普通に、と呪詛のように脳内は繰り返していた。
「髪、染めたんだね」と、彼女。
「……ああ。うん。色々あったんだよね。いや、ごめん。変だよね」
 勝手に口を吐いて出た、独り善がりな謝罪が恥ずかしくなって目を伏せた。
「何謝ってるの?」
 と、意地悪く笑う彼女に、殊更の羞恥が溢れて苦い笑いが漏れた。
「ううん。その色、キミにすごく似合ってると思うよ」
 僕は安堵すると同時に酷い面映さを感じていた。
「あ、そういえば煙草吸うよね。ベランダに灰皿あるよ」
「あれ、煙草吸ってたっけ」
「私は吸わないよー」
「そうだよね。煙草大丈夫なの? 嫌じゃない?」
「あんまり好きじゃないけど……。ただ前の彼氏のが残ってるから。キミが使うと思って置いておいた。気にしないで使っていいよ」
「ああ、そうなんだ。ごめんね、それじゃあ、少しベランダ借りるね」
 僕は彼女に断りを入れるとベランダに出た。
 桜の花もすっかり散り散りとなる春粧の候であったが、時折に吹く風は些かの冷たさを乗せていた。僕は煙草を咥えて火を点ける。ふらふらとした線を引きながら、夜の風に流れていく青白い煙を呆然と眺めていた。伊藤さんの過去にあるジョン・ドゥの面影に、僕の中でじりじりとした苛立ちが湧くのがわかった。苛立ちの所為で深く吸い込まれた煙草は、一分ともたずに根元までを灰にした。僕は見ず知らずの男への敵意を込めて、灰皿の中へと燃えさしを躙り捩じ込んでやった。唾棄すべき遣る方なき忿懣を吐き出すために二本目の煙草に火を点け、再び煙を吸った。血中を巡るニコチンが僕のささくれを窘めていく。吐いては夜に滲んでいく白い煙は、いじらしくも消えまいと抗っているようだった。消えかけの煙を彼女の記憶に残っているあの野郎に見立てると、僕はふうと息を吐く。どうだ、貴様を散り散りにしてやったぞ、と一瞬の充足感を得る。そして、「僕は何をやってるんだろう」とより一層の惨めさを噛み締めた。僕の知らない声音や、表情や、誰それのためだけに見せる褥での姿や、そこにある思い出を考えるだけで、口先に灯った明かりは強く輝き、口腔はぴりぴりと痺れていた。
 一抹の享楽を噛み潰して、室内に戻ってからの僕と伊藤さんの会話は在り来たりなものだった。彼女の職場での愚痴や、旧友との思い出やらの話を聞いた。垂れ流れているテレビ番組も時折見ながら、思い思いに感想を述べたりなんかもした。
 気づけば酔いは回り、目も回る。壁に掛けられた時計は午前二時を回ったところだった。僕の脆弱な腎臓はアセトアルデヒドに連戦連敗であったけれど、伊藤さんのそれは僕のもの以上に随分と弱いようだった。彼女の頬は紅が差し、重みを増している瞼との格闘をしていた。
 その嫣然が化けたような愛らしい姿が今でも僕の網膜に焼き付いている。伊藤さんと共有する時間で図に乗った僕が軽率短慮にも呷りすぎた酒の所為か、熱を持った体温が戯れついては僕を打ちのめしていた。
「眠くなってきたし、そろそろ寝てもいいよね」と、彼女が言った。
「そうだね。何か掛けられる毛布とか借りてもいいかな」
「気にしないでいいから、ここ使って」
 彼女がベッドに手を置く。僕は間に髪を容れず断りを入れる。
「いやいや、それはないでしょ。伊藤さんに床を使わせるなんて申し訳ないよ」
 麗しの令嬢に寝床を使わせないなど紳士の風上にも置けない所業である。そのようなことをできる筈がない。天地がひっくり返ろうとも、前後不覚になる程に酩酊しようとも容認できない申し出であった。
「別にさ、一緒に使えばいいんじゃないかな」
 僕は絶句した。彼女と二人で過ごせるだけで軽佻浮薄になった僕に、青天の霹靂が襲いくる。流石の紳士である僕もこの申し出には周章狼狽したし、あんぐりと開きっぱなしの口は塞がることを忘れていた。男女同衾など、コンプライアンスが許さないのではないか? 何かの弾みで、何かの誤作動で、何かの何かで姦通しようものなら、と僕の思考は堂々巡る。
「と言うかさ、伊藤さんって呼ぶのやめてよ。前みたいでいいのに」
 と、彼女は消え入りそうな声で呟いた。僕は聞き漏らさなかった。何か言わなければ、そう思っていたのに、僕の口は微動だにしない。酸素の供給をすることで手一杯になっていた。
 茫然自失のままにあれよあれよと僕は言い包められて、彼女のベッドの上に横たわっていた。不純にもいい匂いがするだとか考えてしまった自身の為体に嫌気が差した。「それじゃあ、消すね」と、彼女は部屋の明かりを落として、僕を乗り越えていく。僕は赤面するような、ばつの悪いような、焦燥と喜悦と期待と不安と貞操観念と据え膳を攪拌気にかけたようなまぜこぜの気持ちで彼女に背を向けた。布団が揺れて、彼女が横になるのがわかる。正に手に汗握る時間が流れ始めた。
 暫しの沈黙があった。僕の背後から伊藤さんの声が聞こえる。
「ねぇ、キミも眠かったの?」
「……いや、僕はそんなに」
 また沈黙が訪れる。僕の呼吸と遠くの高架を走る自動車の走行音が耳障りだった。
「僕が言うのもなんだけど、気にしないで寝て大丈夫だからね」
 僕がそう言うと彼女は、「そっか……」とだけ残し、それからは何も言わなかった。私は繁華街の喧騒ほどに高鳴る鼓動を気取られないよう、身体を鞠躬如として、浅い息を繰り返していた。僕は彼女が置いてけぼりにした言葉たちの意味を考えていた。
 轆轤首程に待ち焦がれていた好機が、葱を背負ってやってきた。鴨を捕まえるどころではない。寝返りをうてば触れてしまう距離に、無防備にも寝転りながら到来している。文字通りの目と鼻の先に飾られている据え膳に、我先にと喰らい付かぬ不届き者がいるだろうか。ところが僕はそんな腰も腑も抜け落ちた不届き者だった。
 僕があれやこれやと、遅疑し狐疑し躊躇し逡巡し右顧し左眄して、やはり据え膳は食わねば! きっとこれは合法的な誘引に違いない! 己やれ! と自身に発破をかけた結論を付けた頃に、気づけば彼女の静かな寝息は僕の背中を柔らかく叩いていた。捨て鉢の情慾を剥き出しにして彼女に触れることなども造作もなかった筈だった。しかし、僕は何もしなかった。否、否だ。何もできやしなかった。ただそれだけのことだった。紳士がどうのという能書きではない。僕という一人の貧弱な人間がそれを許さなかったし、その度胸が、意気地が足らなかった。優柔不断さ、というよりも自信がなかったのだ。
 それから次第に僕の目は暗闇に慣れていった。薄ぼんやりと部屋の形が見えるようになって、壁掛けの時計は三時を差しているように思えた。カーテンの隙間から一筋の境界が部屋に引かれている。自重で圧迫されて血液の循環が滞り始めていた右半身を解放しようと、僕は身を捩る。月明かりの中で微小な埃が舞っていた。
 僕は予てより間の悪い男だった。降水確率が四割もあれば出先で雨は降る。一度眠りに落ちてしまえば、この終わりなき連想ゲームから降りることができるのに、普段は昼夜問わず、しつこいくらいに付き纏っていた睡魔がこの時ばかりは僕を見放していた。あんなに缶を開けた筈なのに、僕の体温は冷え冷えになっている。酔いは疾うに醒めている。ロヒプノールに代替する安寧はここにはない。悶える僕を、俯瞰で見る僕は嘲笑っているに違いなかった。
 首を擡げて、視線だけ振り向くと伊藤さんは僕と対照の姿勢で眠っていた。彼女の肩が小さく揺れる。どこを探しても眠気は杳として見当たらなかった。焦れていた僕は、彼女を起こさないように静かにベッドから降りた。細心の注意を払いながら窓に手をかけ、ベランダに出た。
 外ではより冷たくなった夜風が吹いていた。矮小で臆病な自身への辟易とした思いを抱えながら、僕は煙草を咥える。欄干に背を預けて窓外から彼女の背を眺めていた。僕は吸って吐いてを繰り返しながら彼女のことを考えた。そして、室外機の上に屹立として乗る憮然とした灰皿に話しかけることにした。
「お前の所為だぞ」
 灰皿は何も言わない。僕が声を掛けたというのに無視をするとは何とも不躾なスチール缶である。こちらに一瞥くらいくれたらどうだ。
「お前の所為で僕の意志が鈍るんだよ。前の彼氏とやらとは幸せにやっていたのか。終わりを迎えるまでの顛末は知らないが、それまではどれくらいに幸せだったのだろう。多分、僕には人生を賭したとしても、推し量ることもできない程なんだ。なあ、お前はここで見ていたんだろう。どんな風に笑っていた? どんな風に睦言を交わしていた? どうな風に時間が流れたんだ? 考えるだけで腸が煮えくり返るな。くそっ、僕の憤怒を食らえ」
 灰皿に燃えさしを捻じ込む。舌打ちをするが早いか、二本目を咥えた。身体を翻し欄干に肘を掛ける。市道の切れかけた明かりがちかちかと侘しく明滅していた。
「僕にそれらを越えられると思うか? いや、僕には自信がない。それでも手に入れたいとも思ってしまう。愉快だろう? 僕は不愉快だ。不愉快が極まっている。免許皆伝だよ。こんなにも無駄な論議があるか。それでもこの論議は続くし、終わりはないんだ。与野党の思惑の方がまだ擦寄ることを知っているだろうね。それなのに、こうしてこれを朽ちるまで続けるんだろうな。もう十年以上も続けているんだから。馬鹿馬鹿しいだろ。腹が立つなぁ。安心してよ、お前にじゃあない。僕自身にだ。みだりがわしくも、未練がましい僕が嫌になる。八つ当たって申し訳ないとは思っているんだ。でも、今日ばかりはお前にも責任の一端があるのだから。僕の妬みと嫉みを食らえ」
 僕は再び灰皿に燃えさしを捻り込んだ。次の燃えさしを捻じ込める隙間はなくなっていた。
「大丈夫、これが最後だ。今のが必殺技だ」
 僕は部屋を出た時と同じように細心の注意で以って、物音を立てないよう部屋に戻り、ベッドの上に寝転がると瞼を落とした。何故だかすんなりと件の睡魔は僕に襲いかかってきた。

  ◯

 この頃の伊藤さんは僕のことを憎からず思っており、「いい感じの雰囲気を醸している間柄」というものを受け入れる備えをしていたのではないだろうか。諸兄諸姉には僕が思い上がりも甚だしい素っ頓狂人に映るやも知らないけれど、どちらが正解か不正解かの論議に価値はないし、確かめる術もないのだから、一旦保留をさせて欲しい。今は、僕の推論(伊藤さんが僕のことを憎からず思っていた世界線)にどうか合わせ、僕の言葉に耳を傾けていただきたい。
 僕はただひたに蟻地獄のような怯懦の渦中で少しずつ確実に飲まれていた。僕には彼女を手篭めとするための、振り翳せるようなエゴも給与も持ち合わせてはいなかったし、彼女の寂しさから生まれたであろう罅割れに付け入ることもできなかった。僕のような社会に適合するつもりも、能もなかった出涸らし男には、彼女を幸せにすることなど不可能だと、荒唐無稽な夢であると思っていた。独り善がりに僕だけが福音を聴くのは僕の心が耐えられそうもなかった。レンタルビデオショップの一店員に甘んじていた僕に彼女の幸せは荷が重すぎた。これがただの逃避に過ぎないのは承知の上で、僕は折角築いた関係性が崩れてしまうことが恐ろしかった。僕にとっての伊藤さん自身が愛しさのあまり不可侵の人となっていたのだろう。

  ◯

 翌日、目が覚めると時計の針は正午手前を指していた。伊藤さんは、「よく寝てたね」と笑いながらそう言った。僕は、「あー、ごめん」と苦笑しながら言うとベランダに出て、煙草を吸った。春の柔らかな日差しが心地よい昼間だった。僕は何度目かもわからなくなった燃えさしを灰皿に差し込んだ。あれほどに窮屈そうにしていた灰皿は綺麗に伽藍堂であった。彼女もこうして澱が消えていくのかな、とか考えていた。
 部屋に戻ると彼女は僕にコーヒーを差し出した。僕と彼女は昼間のワイドショーを眺めていた。僕はそれを飲み干すと彼女のアパートを後にした。昨日の酒が残っているらしく鈍重になった頭を引っ提げて、元来た道を遡り自宅を目指した。
 駅のホームには誰もいない。電車を待つためにベンチに腰掛けた。飲み干したコーヒーの味を反芻し、あのコーヒーの苦味と強い酸味を思い出していた。
 屈めたまま眠った身体の凝りが、硬いプラスチックのベンチで一層際立っていた。
 青空は突き抜けている。春の気候は少し寒かった。

 ◆◇◆

 僕をぐにゅぐにゅとさせる回想は、未だに僕に根付いている。僕は単純明快で恐ろしい程の阿呆で、彼女に一度褒められたという事実だけで、今もまだ染髪を続けている。僕の頭は赤茶けていて、脳みそは錆び付いたまま記憶の移動を拒んでいる。
 あれから大分時間は過ぎてしまった。以降も何度か彼女と会った。そうしている内に彼女には、またしても存じ上げない彼氏ができた。「よかったね、おめでとう」と、言う僕がいて、「すごく幸せだよ」と、笑う彼女がいた。
 あの日にあったことは全て僕の妄想なのかも知らないけれど、彼女のとった行動が、どこぞの馬骨人間への当て付けだったのか、それとも僕への恋心が芽生えていたのかはわからないままだ。
 ここまでだらだらと書き連ねてきたのだ。これはよい機会だと、僕はキリマンジャロ・ブレンドの豆を買ってきて、そいつを今飲んでいる訳だけれど、やはりこいつはどうにも不味い。


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