「抗体詩護符賽」迷子について(3−3)-あれのこと〈3〉−まとめ−

 「あれ」がアスペクト転換の一種だという認識に至り、私の長年の捜査は一先ず終わりを迎えた。犯人を見つけ出すこと、それはつまり問題の形やそれが位置している場所を明確にすることに他ならない。最初私は「あれ」は漠然としたもので「方位の錯覚」や「脳の異常」や「迷子」なんかと結び付けられたハッキリしない現象であり、決して「夢」や「言語」や「精神病」などとは関係しているものだとは思っていなかった。ましてや「幻覚剤」や「魔術」「人工知能」などとの関連性は思いつきもしなかった。しかし「あれ」がアスペクト転換であるという「仮説」を手にした途端「あれ」をめぐる風景は一変した。なぜ人々はこんなにもわかりあえないのか?言語を使う時一体何が起こっているのか?幻覚剤を服用している最中に人間が経験していることは一体なんなのか?なぜ何種類もの夢のタイプが存在し、そのことに一々驚愕するのか?なぜ夢が複数存在するように、現実は複数存在するのか?など、様々な問題を考える時アスペクト転換は重要な視点を提供してくれるように思われる。つまるところ私が興味を抱くものは尽くアスペクト転換という一点において「あれ」と関係していたのだ。それが私が長年抱いてきた「なぜ私にとって「あれ」がそれほど重要なのか?」という疑問の答えである。

最後に捜査の経緯を辿ることによって、「アスペクト転換」が容疑者と考えられる理由と、彼がいかに様々な事件に関わっている可能性があるのかを箇条書きでまとめておこう。


1「あれ」は錯覚とよばれている現象とは全く質の異なるものである。

初めて「あれ」の衝撃を体験した時、私は他人に「あれ」について聞きまわったが誰一人「あれ」のことを知っている人はいなかった。それがどんなものであるかを説明しても(私自身「あれ」がどんなモノなのかわかっていなかったので説明も曖昧なものになった)上手く伝わることはなかった。ポカンとされるか、更に悪いことには全く違った現象として誤解されることも多かった。大人になり私なりのキーワードで「あれ」についてググってみたが、検索結果はいつも「錯覚」的なものばかりであった。「あれ」は決してそんなものではあり得なかった。「あれ」の正体を突き止めるためには、もっと違った種類のキーワードが必要であったのだ。そんな中、萩原朔太郎の「猫町」に出会い、初めて「あれ」を理解する人物を見つけたことに歓喜したのだった。

2「あれ」は迷子と似て非なるものである。セカンドオーダー迷子とでも呼べる一つ行為である。

萩原朔太郎は私が「あれ」と呼ぶものに対して「この魔法のような不思議の変化は、単に私が道に迷って、方位を錯覚したことにだけ原因している」と言っている。つまり迷子になったのだと。しかし私の観察する限り「迷子」と「あれ」の間には相違がある。まず第一に人間は意図して「迷子」になることはできないが、意図して「あれ」を引き起こすことは出来るし、第二に「あの世界」の記憶を貯めることにより、迷子にならずに「あれ」を引き起こす事ができる。つまり目的地に到着するまでの道筋が完全にわかっている状態(迷子じゃない状態)で「あれ」が起こることもあるのだ。つまり「あれ」は単純な迷子ではなく迷子の時に我々に起こっている「何か」を利用した一つの技法とも言える。私はそれを一周回った迷子という意味でセカンドオーダー迷子と呼んでいる。

3「あれ」は我々の中の類似を読み取る能力に密接に関係している。

迷子の時に我々に起こっている「何か」とは何なのだろうか?と考えている中で私はヴァルター・ベンヤミンのある文章にであった。『一九〇〇年前後のベルリンにおける幼年時代』という本の冒頭でベンヤミンは「森のなかをさまよい歩くときのように、都市をさまよい歩くということには習練が必要なのだ」と書いている。この言葉は「あれ」を出来るだけ長く維持したまま都市を歩き回る実験をしていた当時の私に突き刺さった。

近森高明は『ベンヤミンの迷宮都市−都市のモダニティと陶酔経験 』の中でベンヤミンの言う「森のなかをさまよい歩くときように、都会をさまよい歩くということ」という技術について

さまざまな事物に非感性的な類似を読みとるミメーシスという太古の能力にもとずく知覚、子供や「古代の諸民族」に特徴的な知覚のモードにほかならない。p152

と書き記している。迷子の時に我々に起こっている「何か」とはつまり、さまざまな事物に類似を読み取るミメーシスという能力の発現だということになるだろう。この答えは私に大きな気付きを与えた。

「そうか!確かに「あれ」が起こる時はいつも、どこか特定の場所の記憶が想起されている。この部屋で「あれ」が起こる時はいつもこの部屋が東京の姉の部屋と重ね合わされているし、家の前の小道の様相が変化する時は、いつも幼少期によく通っていたあの道が重ね合わされる。「あれ」が起こる時私はただ目の前の風景と過去にみたどこかの風景の間に類似性を読み取り、その過去に見た風景を目の前の風景に重ね合わせているだけなのではないだろうか?」

と。しかしただ類似を読み取って過去の記憶を思い出すだけなら日常的にさまざまな事物に対して行っている。ある特定の記憶を思い出すだけではまだ不十分な気がするのだ。ここで「重ね合わせる」ということが何を意味するのかを明確にしなければいけない。目の前の風景と記憶の中の風景を「重ね合わせた」際に目の前の空間が圧倒的に違うものへと変化しなければ「あれ」とは呼べない。ミメーシスの発現だけではなく、それを通して、ある決定的な変化が起こるのでなければ「あれ」ではないのだ。その「ある決定的な変化」とはなんだろうか?私はそれを突き止めようとしていた。

4「あれ」はアスペクト転換の一種である。

結論から言えばその「ある決定的な変化」とはアスペクトの変化である。

晩年のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは「アスペクト」についての覚え書きのようなものを残している。ここで言われるアスペクトはゲシュタルト心理学などのゲシュタルトと同じ意味だと思ってもらえばいい。ゲシュタルトとは「全体性をもったまとまりある構造」のことである。全体性とは、それが部分に分解されてしまうと失われてしまうような特性のことを言う。

晩年のウィトゲンシュタインの覚え書きは『哲学探究』や『ラスト・ライティングス』(古田徹也訳 講談社)という本として翻訳されており、そこでウィトゲンシュタインは彼がウサギ=アヒル頭と呼ぶウサギにもアヒルにも見える図形を使いながらアスペクトについて様々な考察している。その覚え書きを眺めている内に私は「あれ」がウィトゲンシュタインがアスペクト転換と呼ぶものと同じ現象だと直感した(しかし一体何のアスペクトが変化したのか?とりあえず空間のアスペクトだと言ってよいだろう)このウィトゲンシュタインの考察に対しての捜査の経緯の詳細については、こちらを読んでもらいたい。

https://note.com/zenarchy/n/nc4204de4a89c

ウィトゲンシュタインはアスペクトの考察を通して語の「意味」とは何か?ということを考えようとしていた。おそらくウィトゲンシュタインが言いたかったのは「言葉の意味というのは一つのアスペクトである」ということである。それが意味していることは、語の意味というものは言葉それ自体の中にも外側にも固定して存在してはいないということである。言葉の意味とはその言葉から「あらゆる方向へ通じるたくさんのよく知られた小道」たちが全体性を持ったものであり、つまり類似性のネットワークが作り出すアスペクト=ゲシュタルトにほかならない。音声であれ文字であれ何かの「語」に出会った時、我々がそれを全体性を持ったものと認識できるのは記憶の中にその語と他の語との間に類似性のネットワークが存在するからである。逆に言えばそうした記憶群が引っ張り出される現象が語の認識=意味理解という現象にほかならない。

さて「あれ」がアスペクト転換の一種だとすれば「語の意味」に対応する何かがなければいけない。私はそれを漠然と「空間」と呼んできた。目の前の空間が「あれ」以前と以後では全く違うものへと変化するのだ。重要なのは変化するのは空間を構成する要素はなく、全体性を持った塊なのだ(ウサギからアヒルに変化する時のように)。では空間が全体性を持つとは一体どういうことを表しているのだろうか?私達は空間を文字や話された言葉のように全体性を持った類似性のネットワークとして認識しているのだろうか?そうであるならば、視覚が捉える物理空間の性質以上の物を我々は「見ている」ということになる。文字が線の集まり以上の何か(アスペクト=意味)を出現させるように空間もその物理的特性以外のものを持つ。「あれ」が起こることによって私達が、知らない外国語で書かれた文章を読むのではなく、母国語で書かれた文章を読む時のような仕方で空間に接していたということが明らかにされるのだ。

5空間のアスペクト

「あれ」には起こしやすい場所と起こしにくい場所がある。典型的な部屋や 建物と建物に挟まれた小道などは「あれ」を起こしやすいが、奇抜な構造を持った空間や複雑な道では「あれ」を起こしにくい。つまり閉じた空間はあれを起こしやすいが、開かれた空間は「あれ」を起こしにくい。ここで閉じたー開かれたというのは必ずしも建物などの内と外という意味ではない。閉じたというのはゲシュタルトを持って認識できるという意味で、開かれたというのは未だそこに全体性を見いだせないということである。

見渡す限りなんの障害物もない、夜のアメリカの砂漠に寝転がっている時、その空間は完全に小さなドーム型の部屋へと変化した。そしてその時私はあたかも自分が日本のどこかに存在するプラネタリウムのドームの中にいる感覚を抱き、また目の前に見える手を伸ばせば届きそうな星空の裏側にはたくさんのビルが立ち並び、そこでは人々があくせく行き交っているような感覚に包まれたのだった。つまりあるものが全体性(閉じていること)を持つには我々が記憶の中に存在する情報群の中からそのあるものとの類似性を持つ情報群を検索して見つけてこられるかどうかにかかっているのだ。そしてその情報群の間の類似性のネットワークがその空間にある種の馴染み深さを与えた時、我々は空間の意味を認識しているのだ。それが空間の意味、言い換えると空間のアスペクトである。

6情報空間の操作術としての魔術と人工知能=認知科学

情報学者の西垣通は『秘術としてのAI思考』の中で近世以前の記憶術の延長に人工知能というものがあると書いている。近世以前において記憶力を高める〈記憶術〉が「知の黄金」のような至上の価値を持っていたとし、キケロやアリストテレスに始まる人工記憶術が西欧の学芸の一基本となったという。そしてその人工記憶術が16世紀に入り「ルルスの結合術」と融合一体化したところから人工知能の歴史は始まった。「ルルスの結合術」そのエッセンスは一言で言えば「記号であらわされた概念の、形式的・機械的操作」ということなる。そしてキケロの記憶術と「ルルスの結合術」の一体化はジョルダーノ・ブルーノらによって〈ルネサンス・ネオプラトニズム=ルネサンス魔術〉という壮大な思想潮流の内に展開されていくことになる。そこで記憶術はたんなるレトリックの道具から宇宙を内観し秘匿された真の叡智に到達するための方途へと生まれ変わったと西垣はいう。そしてそういった「哲学的記憶術」は現代の人工知能=認知科学と通底する共通項を多く含んでいるのだと。

西垣は人工知能コンピュータは記憶術や「ルルスの結合術」そしてライプニッツの普遍記号学、ブール代数など〈形式部分の純化〉に向かう精神的努力を受け継ぎながらも近代以降の傾向に反しているという。これまでのコンピュータはルルスの結合術における〈メカニズム=形式操作〉の側面のみを肥大させてきた。しかし人工知能が〈壮大な記憶術〉の夢想にチャレンジしつつあるからには「意味」のアポリアと正面対決しなければいけない。いったいコンピュータは「意味」を扱うことができるのか?彼はそう問いかける。

結論から言えば現在の人工知能=認知科学のパラダイムの中ではコンピュータは意味を扱うことはできない。近年機械学習の発展によって、特徴量の抽出という大きなブレイクスルーが起こったが未だコンピュータは言語をうまく扱うことができていない。人工知能が「意味」を理解し、人間のように言語を操作するためにはシンボルグラウンディング問題やフレーム問題という困難な問題を解決しなければいけないとされている。シンボルグラウンディング問題とは「記号システム内のシンボルがどのようにして実世界と意味と結びつけられるかという問題」でありフレーム問題とは「限られた処理能力しかない人工知能は、現実に起こりうる問題すべてに対処することができないという問題」である。

認知科学者の苫米地英人は『認知科学への招待』の中で認知科学というものが人工知能研究の中から発展してきた経緯を説明し、最後に認知科学のパラダイムでは解決ができない問題としてフレーム問題を扱っている。

人間という種に特殊な能力なのかもしれませんが、われわれには、ほとんど関係のないバラバラなものを集めて関連性を見出す「ゲシュタルト能力」があるようです。これはルールとして記述することはできません。
関連性のないものを集めて関連性を見出す作業というのは、抽象度の階段を上らないとできません。この抽象度の階段を上がるという作業は、今のところ、人間にしかできないことのようです。p151

機械にはこの「ゲシュタルト能力」がないのでフレーム問題を解くことはできない。そして認知科学のパラダイムではこの「ゲシュタルト能力」というものを説明できないのだ。最後に苫米地は認知科学を乗り越えるため「超情報場仮説」というものを打ち立てている。詳しくは『認知科学への招待』を読んでもらいたいが、そこでははじめに情報場があり物理空間は情報空間の低い次元が表現されているものに過ぎないとされる。

さてゲシュタルト能力とはまさに類似性のネットワークが作り出すアスペクト=ゲシュタルトを認識する能力にほかならない。人間はその能力があるが故に「意味」を扱うことができ、「意味」を変容させることもできる。「あれ」を起こすことができるのもゲシュタルト能力のおかげである。自己啓発という形を取り、人間に備わるゲシュタルト能力を利用した情報空間の操作テクニックを紹介する苫米地英人の著作群は魔術の実践書であると言っても過言ではない。

馴染み深い空間が、一瞬にして異様な空間へと変容すること、それはつまり空間の意味が変化しているということであり、最初にその空間を意味づけていた記憶群が喪失し違った記憶のネットワークにアクセスすることを意味する。その意味で「あれ」は記憶喪失や統合失調症、デジャヴ体験、魔術、サイケデリック体験、夢などと近しい関係にあるのだ。全ては我々のゲシュタルト能力と記憶=情報空間の操作ということに関わっている。統合失調症やサイケデリック体験の場合には、情報の統合手続き(ゲシュタルト生成)の過程でバグが起こっていると思われる。それ故、突飛に思われる情報同士が結合され合意現実を逸脱した現実=ゲシュタルトを出現させてしまう。情報の統合手続きの仕組みを利用して積極的にゲシュタルトをコントロールする方法論としての魔術や記憶術。それらは情報というものの力に気づき、それを操作することによって現実を操作するための技術体系である。手続きそれ自体の現れとしての夢や記憶。記憶や情報の操作をするためには、その文法構造を知らなければならない。記憶や夢に潜む「秘密の知恵」に習熟することは合意現実を逸脱したゲシュタルトを構築するという「創造行為」に大いに役に立つだろう。

7「あれ」を起こすにはー祈りと魔術

「あれ」を起こす方法の言語化は非常に難しい。それは何かの記憶を思い出そうとする事と似ているが、目の前の空間にも同時に意識を持っていく点で異なる。ウサギ=アヒル頭の時のように記憶を目の前の風景に「響かせ」なければならない。目の焦点を現在より遠くに移動させ、自分がいる空間の中に「あれ」が閃くのを待つのだ。人間には論理的な思考を展開する能力の他に、ヒューリスティックと呼ばれる「ヒラメキ」能力が備わっている。人類に大きな影響を与えた発明や発見はほとんどこの「天から降ってきた!」と感じられるような、啓示的閃きから生まれたと言われている。

「あれ」つまり「アスペクト転換」や記憶の想起、魔術など「降りてくる」力を利用する営みは自ら意思することでありながら、実際に出来ることはといえば状況を整えて待つことだけしかない。布団を敷いて、電気を消して、目をつむる。それは「祈り」によく似ている。少なくとも我々に出来ることは言語野の活性化を抑え、リラックスすることくらいのものである。しかしそうした「神の訪れ」を待つ技術は人類にとって非常に重要なもので、さまざまな文化の中で考案され洗練されてきた。言い換えると変性意識状態を作り出す技法が古今東西に存在するのだ。古代から脈々と受け継がれてきた薬草を使って人を癒やす技術(シャーマニズム)はサイケデリックドラッグの力を借りて、変性意識状態を作り出し、音楽という情報空間の抽象度が非常に高い「言語」を使って人々の意識を導く。ヨガや瞑想も呼吸や身体技法、観察によって変性意識状態を作り出していく方法だ。そして眠りは完全なる変性意識状態を毎晩、自然に作り出す。そうした変性意識状態の中でみる夢は本質的に「あれ」の作り出す世界に似ている。大袈裟に言えば全ての夢は「あれ」なのだ。

8夢

夢についてはまたどこかで書くことにする。

9おわりに

「あれ」が起こっている時の「部屋」や「道」は非常に奇妙な空気が流れていて、小さい頃は自我崩壊の恐怖に似た恐怖を感じていた。自我も一つのアスペクト=ゲシュタルトであるのだから「あれ」=アスペクト転換に恐怖を感じても不思議ではない。さらに「あれ」について誰とも共有できなかったことが私をさらなる混乱に陥れた。なにかの「病気」か?いや「病気」ではなく、みんな経験してるが些末すぎて意識にも上らないような事だとしても、その「些末」なことに以上に驚き、執着し続けている自分はやっぱりオカシイのではないか?と。しかし長年放置していた「あれ」問題を考察していく過程で「あれ」は病気でもなんでもなく、些末といえば非常に些末な現象だという認識へと変化してきた。私がそんな些末な現象にこだわってきたのは言語の意味の問題や認知科学=人工知能、変性意識状態など、さまざまな些末ではない事柄との関係性をそこに感じていたからだ。それゆえ「あれ」についての捜査は非常に楽しいものであった。夜空の星のようにバラバラに飛び散った点同士が一つのアスペクト=ゲシュタルトを持って立ち現れて来るような天体観測的興奮を味わうことができた。この捜査の過程で私が行っていたことは正に「アスペクト転換」の「アスペクト」を転換する試みだったのかもしれない。


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