Zenarchy interview on Discord server Blinding Cyclops(2023)
アメリカのオレゴン州ポートランドでPeople’s Colloquiumという芸術や人文科学の分野で無料の教育サービスを提供する主催者をサポートしている団体を運営しているBlinding Cyclopsさんに彼の運営するDiscord上でインタビューをしていただきました。以下インタビュー内容です。
Blinding Cyclops: 私たちのDeleuze discussionsの進行役であるZen Collinsさんが私にあなたについて紹介してくれて、あなたのブログについて教えてくれました。あなたと彼は日本で出会って友人になったようですね。どうやってそれが起こったのか、少し教えていただけますか?
Zenarchy: 正確な出会いの経緯は覚えていませんが、私の母がZen Collinsを紹介してくれました。私の母は大学でZen Collinsと同じ学部で英米文学を研究していて、彼らはドゥルーズについての会話で盛り上がっていました。
一方、私はアメリカのカウンターカルチャーやロバート・アントン・ウィルソン、ケイオスマジックなどに興味を持ち、日本の魔術コミュニティの人々を訪ねていました。
ある日、母が「Zen Collinsがあなたに興味を持ってるよ」と言っていたので、私たちは3人で夕食へ出かけることになりました。そこで何を話したかは覚えていませんが、私たちは意気投合し、その後、彼とはよく遊ぶようになりました。
Blinding Cyclops: いいですね。もしZen Collinsさんとの思い出話があればもっと教えて下さい。特に奇妙なものを聞かせていただけると!
また、あなたの作家や哲学者としての背景についてもお伺いしたいです。あなたに主に影響を与えたのは何でしょうか? 魔術、アメリカの反体制文化、RAW(ロバート・アントン・ウィルソン)、ケイオスマジックなどですか?他にも何かありますか?
Zenarchy: 彼とは楽しい思い出が沢山ありますね。当時、私は日本の魔術結社の人々と交流していました。その中の一人は精神科医であり、Zen Collinsと一緒にその精神科医の方の病院で行われたパーティーに行ったり、またある時は私と母、そしてZen Collinsと一緒にサイケデリクスを服用して水族館に行きましたね。また私たちは日本の友人たちと一緒に熊野古道にも行きました。思い出を挙げればきりがありませんが、私たちはよく一緒に遊びました。ちなみに、彼は数ヶ月間、私の家に住んでいたんです。その時は毎日毎日、議論をしたり、情報を交換しました。彼から得た情報と彼との議論は私に多くのインスピレーションを与えました。彼がアメリカから持ち帰った大量のサイケデリクスもそうですが(笑)
第二の質問に答えると、私に影響を与えたものはいっぱいありますが、今振り返ってみると、ウィトゲンシュタインと苫米地英人の影響が最も大きいと思います。
しかしその話の前に、まずは話しておきたいことがあります。私は幼い頃からある神秘的な体験とも呼べる変な現象を体験してきました。しかしそれは一見ごく普通の現象であり、空間のアスペクトが変容する現象なのです。私はそれを言葉で説明しようとしましたが、誰も私を理解してくれませんでした。「一体何が変わったのだろう?とずっと疑問に思っていました。最近、それが意味というものに深く関連する感覚の変化であることに気づきました。私は常に意味に対して二重の感覚を持っていました。この感覚を「括弧の感覚」と呼ぶことにします。ちなみにスーザン・ソンタグは「キャンプはあらゆるものをカッコつきで見る」と言っています。
高校時代、私は映画ファンでした。そして、その括弧感覚を映画を通じて表現したかったのです。それは主にデヴィッド・リンチの影響です。彼は括弧の感覚をとてもうまく表現しているように思われました。そして、私は大学で映画を学ぶことを決めました。しかし、そこでは魔術や神秘主義は教えていなかったので、1年で中退することになりました。大学を辞めた直後、姉と一緒にヨーロッパに旅行し、南仏で私はフィリップ・K・ディックの「VALIS」を読んでいました。私はすべてが情報であるという「VALIS」の世界観に強く共感しました。そして最終的に苫米地英人の超情報場仮説にたどり着きました。これは長い話になるので、ここまでにします。簡単に言えば、私はロバート・アントン・ウィルソンやアラン・ワッツを含むアメリカの反体制文化、ウィトゲンシュタインを含む言語の哲学、そしてその二つの交差点である情報宇宙 = 仏教に影響を受けています。
Blinding Cyclops: さまざまな追加の質問が浮かんできますが、しばらくはまず幻覚剤についての話題に焦点を絞り、その後に文学、文化、魔術、神秘主義、仏教、そして特に空間に関するあなたの経験に戻りましょう。
幻覚剤があなたにどのような影響を与えたと感じていますか?あなたの思考に強い印象を残した特定の経験はありますか?
Zenarchy: 幻覚剤によってもたらされる気づきは、まさに「幻覚剤が私にどのような影響を与えたか」という質問の不条理さに気づくことです。これは、例えば「唐辛子が私にどのような影響を与えたか」と尋ねることと似ています。少し観察をすれば、さまざまな効果が思い浮かびますが、それらはすべて不確かなものです。もちろん、幻覚剤も唐辛子は私の思考に確かに何らかの影響を与えます。つまり、人間は常に何かを摂取しており、意識はその物質に影響を受けているため、我々は常に変性意識状態にあると言えるということです。我々は常に何かをキメてる、そしてキマってるのです。それが幻覚剤が私に教えてくれたことです。
これはメタ的な意見ですがもっと一般的なことを言えば、幻覚剤は通常の現実とは異なる「意味」の感覚をもたらします。言い換えれば、我々の中に普段とは違った新たな全体像(ゲシュタルト)が結ばれます。月が電灯に変わったり、人間が猿に変わったりすることもあります。
ある時友人と幻覚剤を服用してサウナに入った時、私たちはお互いの手から光のビームが放射されているのを見て、お互いのビームを感じることができました。それが私が「気(エネルギー)」の存在を確信した時でした。また、私は私たちが思考と思っている多くは実際には身体的な感覚であることにも気付きました。面白いことに、世界が終わる感覚と私の足の冷たさの感覚は実際には同じものだったのです。
Blinding Cyclops: あなたのサイケデリックな体験は、少なくとも私にとっては、とても深いものに聞こえます。要約すると、サイケデリクスが身体と精神の密接な関係(おそらくそれは「身体化された認知」のようなもの)を示しており、具体的に言えば、身体に入れるもの(入力)がどんな思考を期待できるか(出力)に影響するということや、新しいゲシュタルトはどうやって作られるか、そして気の実在を示した、ということでしょうか。
これらのことを、ロバート・アントン・ウィルソン、フィリップ・K・ディック、アラン・ワッツ、魔術、神秘主義、さらには苫米地英人と関連付けられますか?(後者に関しては、残念ながら彼の著作の多くは英語で利用できないようですが、彼は非常に興味深い人物のようです。)
Zenarchy: アラン・ワッツとロバート・アントン・ウィルソンから学んだことは、ワッツのフレーズ「現実はただのロールシャッハのインクの染みだ」という言葉で要約されます。 それは単純な教えですが、その真の意味を理解しながら生きることは難しいことです。ウィトゲンシュタインのウサギとアヒルを例にすると、何かがウサギとして見えると、それをアヒルとして見るのは難しい。普通は、その中にアヒルがある可能性すら考えないかもしれません。
当時、私はまだ若く感情的に不安定でした。現実の波に襲われながら藻掻き苦しんでいました。「私が狂っているのか、それとも世界が狂っているのか?」と疑問に思いました。私は、フィリップ・K・ディックの作品は、そうした状況で人々が感じる不安をうまく描いていると思います。
そんな中、私が出会ったものは、魔術と神秘主義でした。正確に言えば、私にロバート・アントン・ウィルソンについて教えてくれた人物に出会いました。彼はケイオスマジックの実践者でした。そして、彼との会話を通じて、魔術というものは現実を制御するための技術の体系であることを知るようになりました。しかし、実際には西洋の魔術文化は私のノリには合わなかったので、呪文を唱えたりシジルを作ったりすることはありませんでした。
さっき話に出た精神科医の方が、どこかで苫米地英人の本は実質的には魔術の教科書だと書いていました。私はその言葉に興味を持ち、様々な苫米地の著作を読みました。私は高校時代から苫米地の本は好きでしたが、自己啓発のためのものというイメージがあり、彼をどこか胡散臭い人物だと思っていました。だからそういう視点で彼の本を読んだことはありませんでした。
彼の本を再読すると、彼が仏教の教えや様々なエソテリックな実践の技法を認知科学の用語を使って言い換え、それを自己啓発の技術として提示していることに気づきました。
Blinding Cyclops: あなたの魔術の実践はどのようなものですか?西洋魔術の影響を受けているようですが、それがあなたには上手くワークしなかったということですね。カオスマジックもそうかもしれませんね。苫米地さんの作品や仏教は、あなたのアプローチの代表的なものであるような印象があります。はっきりしたことはわかりませんし、具体的にどうなのかもわかりませんが。
Zenarchy: 正確に言うと、私は西洋の魔術を実践する人々とのつながりはありますが、彼らの弟子になって学んだわけではありません。なので彼らが魔術の実践で何をしているかについてはあまり知りません。魔術的な実践で私自身が行っていることと言えば、子供の頃から続けている部屋のアスペクトを変えること(私はそれを「猫町」と呼んでいます)や、夢日記をつけることですかね。魔術の定義を最大限広げると、私たちが行うすべてのことが魔術と呼ぶこともできると思いますが、ここでは、タロット、占星術、呪文、儀式など、一般的に魔術として知られている実践を指しています。
Blinding Cyclops: 「猫町」?もう少し詳しく。
Zenarchy:「猫町」というのは、日本の詩人、萩原朔太郎が書いた短編小説です。私が子供の頃から経験していると言っていた空間のアスペクト変容体験は、私がその話をした誰一人にも理解されませんでした。私はずっと同じような体験をした人を探していましたが、萩原朔太郎の「猫町」を読んで初めて、似たような感覚を共有する人に出会ったと感じました。実際には私は「猫町」の前半に共感しており、後半の街にあふれる猫の幻覚を経験したことはありません。もっとあるんですが、とりあえず鍼治療に行ってきます。
さて、さっきの質問の答えに戻りますね。仏教について言えば、ロバート・アントン・ウィルソンに出会った頃、私は仏教にも興味を持っており、ヴィパッサナー瞑想の修行に参加したり、東洋哲学を学んでいる友人と議論をしたりしていました。その当時、私の頭の中は非常に混乱しており、その混乱から逃れるために必死でした。ですが、混乱は、アラン・ワッツに出会ったときに突然解消されました。私は、すべてがただの遊び=マーヤーであるということに気づくに至りました。また、当時は幻覚剤を集中的に摂取していたこともあり、私は無意識のうちにさまざまな執着から解放されたのかもしれません。しかし、もちろんそれは悟りではなく、偏見を持たずに世界を見ることができるという意味ではありませんでした。
しかし確かに、私の現実へのアプローチは変わりました。それ以来、他人の行動や言葉だけでなく、自分自身の行為もすべてが演技であると感じるようになりました。つまり、誰かの行動や言葉をその背後の意図から切り離して認識するようになりコミュニケーションをとることに困難が生じました。通常、誰かが怒っていることは、その行動や言葉から認識するものですが、当時は相手の意図の無限の可能性に対して適切な反応を作り出せませんでした。例えば、誰かが何かを話して最後に「冗談だよ」と付け加えると、私はそれを聞いて冗談だと受け取りますが、後でそれを真剣に受け取ったことで叱られることがあります。しかし、それでもまだ相手が怒っているフリをしている可能性を排除することはできず、結果としてそれを真剣に受け取ることができません。それも冗談なのだと。
言語が孕む超越的な冗談の可能性は私自身にも当てはまり、自分が口にする言葉が冗談なのかどうか分からなくなってしまいました。超越的な冗談という概念は、日本の哲学者である永井均が「デリダ=サール論争」を参照して作り出した概念です。すべての言語は、「でもそれは冗談だ」と言うことで意味が逆転する可能性に必然的にさらされており、したがってすべての言語の意味は引用ということになるのです。
そうしたこともあって、私は言語の問題こそ真に探求すべき課題だと感じました。「私たちは言語をどのように使っているのか」という問いに思いを巡らせることが、仏教や魔術をより理解する助けになると考えました。私は現実とよんでいるモノのほとんどが言語の中に存在していると信じていました。私は苫米地英人の体験したあるエピソードに共感していました。
1980年代、彼は仮想現実の研究を行っていました。当時「プレゼンス感」「操作参加性」「知的整合性」の精度をいかに上げるかが彼の課題でした。そんな彼が電車に乗っている最中に、隣に座っていた少女が小説を読んでいると突然泣きはじめるという出来事がありました。苫米地は「負けた!」と感じたようです。小説を読んでいる少女は「プレゼンス感」と「操作参加性」が現実の再現に必要ではないことを証明したのです。それ以降、彼は小説を徹底的に研究し、人間の脳から臨場感のある記憶を引っ張り出す技術が現実感を生み出す鍵であることを見出したようです。
西洋魔術、猫町、そして苫米地の議論は、すべて記憶の操作と現実の変容に関連しています。私は西洋魔術が記憶の技法と深いつながりを持っていると信じており、猫町も意味と記憶の問題と深く関わっています。苫米地の洗脳技術は、認知科学を応用して記憶そのものを操作するものです。各トピックの説明が不十分ですみません。とりあえずこの辺にしときます。
Blinding Cyclops: あなたが「あれ」または子供の頃から経験してきた空間のアスペクト変容について書いた2つのブログ投稿を(翻訳版で)読んで、本当に感動しました。あなたのウィトゲンシュタインとベンヤミンの使用は、その体験を生き生きと伝えてくれています。少なくとも、機械翻訳された言葉が伝えることができる限りに置いてとても生き生きとしているように思います。正直なところ、翻訳は非常に良かったように思えますが、それは単なる賢明な機械的な自動化によるものかもしれませんが、あなたの文章の質が光っているのかもしれません。
あなたは私たちは現実を意図的あるいは意識的にコントロールしているという、ある種の立場を持っているようですね。例えば、宇宙のジョークを見ぬき、言語を転倒させることで、あるいは「あれ」という実践によって知覚を変えることで(『猫町』で説明されているような)、そしてすべての人の行動や言葉に秘められた可能性は無限であり、それゆえ、私たちが選択できるものであると考えることで。いずれにしても、最近、あなたは意味と記憶について書いており、これらをどのように魔術的な効果を持つように育てることができるのか気になっています。意味づけについてはどのように機能するのかがわかるのですが、記憶がどのように関与するのかがわかりません...
Zenarchy:ありがとうございます!「あれ」に関心を持つ人がほとんどいないので、興味を持ってくれてとても嬉しいです。意味と記憶の関係については、まだ私も探求中です。しかし、今の所、私の意見としては、意味づけは記憶の操作と同じことだと思っています。例えば何かの単語の意味を理解するということは、記憶のネットワークにおけるゲシュタルトの出現だと考えています。また、ゲシュタルトには階層性があります。例えば、絵を見ていてその中に桃を見つけたとします。しかし、絵がズームアウトしてその実は誰かのお尻であることに気づくと、その大きなゲシュタルトの中で桃の意味は変わります。それが私たちが経験する現実のシフトです。日本語では、「いし」という単語は「石」「意志」「医師」という意味になります。同じように発音されます。ただ「いしが強い」と言われてもこの時点では、どの「いし」なのかは決まりません。まー「石」はおそらく除外されるでしょう。そしてそこに「彼は」という言葉が追加されると、「いし」は「意志」を取り巻く記憶のネットワークの中に位置づけられます。
苫米地によれば、認識は記憶とゲシュタルト能力なしには起こり得ないとされています。そして、私たちのゲシュタルト能力は物理空間だけでなく情報空間にも及ぶのです。先に挙げた例は多義的な図形や同音異義語など特殊な具体的ケースでしたが、同様の変化はもっと抽象度が高い空間でも起こります。より高次のゲシュタルトは下位の意味に影響を与えることがあります。例えば、「私はこのような人間である」というゲシュタルトは、過去のさまざまな記憶から構成されています。自己啓発の観点から言えば、「望ましい自分」となるプロセスは、以前の自己に関連付けられた記憶のネットワークを再構築し、新しい自己のゲシュタルトを創り出すプロセスです。
ようするに、私たちは日常生活の中ですでに魔術の力を使っているのです。誰もが無意識にそれを行っていますが、効果的に使うことができていないのです。(効果的に使うとは何を意味するのかは難しい問題ですけど)その力を効果的に使うための方法が、一般的には魔術やヨガ、気功などの実践と呼ばれるものだと思います。
Blinding Cyclops: このことは、「自己創造」にも当てはまると思います。つまり、私たちは記憶に基づいて自己イメージを構築し、異なることを記憶したり、同じことを異なるように記憶したりするように訓練することができるのかもしれません。もし自己が記憶に基づいているならば、自己はそれに応じて変化することになる。
この力はどこまで及ぶと思いますか?同様に影響を受ける可能性のある、自己を超えた他の例を挙げてみてください。
また、この活動のゴールや「効果的である」ということについてあなたがどう考えているかにも興味があります。確かに、これは難しい問題です。最終的には主観的な希望に完全に基づいていると言えるのでしょうか?
Zenarchy:変化した自己イメージは必然的にその自己イメージに合わせて世界に働きかけます。
例えば、ある部屋に二人の人間がいるとします。ボブは室温が高すぎると思っていて、アリスは丁度いい室温だと思っています。ボブはあらゆる手段で室温を下げようとします。汗をかいたり、服を脱いだりします。また呼吸や筋肉の動き、もしかしたら言語を使って相手にエアコンをつけさせるかもしれません。しかしボブの室温を下げようとする努力はアリスにとっては不快な印象を残します。こうしてボブはアリスに嫌われてしまいました。ボブはアリスと仲良くなりたくてこの部屋に来たのに、自分が暑がりなせいですべてが台無しになってしまいました。
彼が行う行為は多かれ少なかれ魔術的なパワーを使っていますが無意識的で非効果的です。暑さの問題を解決することと、アリスに気に入られるという目的を同時に達成するにはより効果的な方法を使わないといけません。例えばアリスの意識に上らないようにアリスに暑いことを伝える、つまり、顔から吹き出すダラダラの汗や服を次から次へと脱いでいくという形ではなく、アリスのリアリティの中に暑いという認識を起こさせて、アリスが自発的にエアコンをつけさせる。もしくは、事前に暑がりという自己の特質を変化させて部屋の温度に適応するのが一番かもしれません。
現実と自分が見ている世界のことです。それは人それぞれ微妙に違いますが、共有している部分もあります。それが我々が普通現実だと呼んでいる合意現実の世界です。それは我々の外側にあるのではなく、一つ一つの世界の最大公約数として各々の内部に存在します。
だから自我を変えることは世界を変えることであり、それは必然的に合意現実にも影響を及ぼしますが、必ずしも合意現実を好き勝手に変えることではありません。合意現実と自分の現実が乖離していくと、それは統合失調症と呼ばれるのかもしれませんね。自己の現実と合意現実の乖離を埋めるためには、自己を合意現実に合わせて変えていくか、合意現実を自己にあわせて変えていくかしかありません。カルト宗教などは小さなコミュニティ内での合意現実を教祖の現実で塗りつぶしたものと言えるでしょう。
スケールはどうであれ、人間の世界では合意現実の主導権争いが至るところで起こっています。洗脳合戦の様相を呈しています。私が何が効果的かを定義するのが難しいと言ったのは、洗脳と教育に線引をすることが難しいということと同じことかもしれません。「効果的な働きかけ」というのは目的と評価基準があって成り立つものですが、何が目的として設定されるべきかという問題に答えはありません。
Blinding Cyclops: 「魔術」「自己創造」「世界創造」は、ある意味で等価であるように聞こえます。あってますか?
Zenarchy:私の考えでは、自己創造や世界創造をする方法として魔術があると思っています。それは気と気功の関係のようなもので、気功というものは気をうまく扱うために考え出されたメソッドです。しかし気というものは、気功をしない人でも使っているし、それがなければ世界が成り立たないものです。
Blinding Cyclops: 世の中には「日常の魔術師」と呼べる人々がいます。つまり、無意識で本能的に魔法を使う人々です。しかし、私たちが「意図的な魔術師」と呼べる人々も存在します。これは、自己創造と世界創造に対する意識と制御を持つ人々であり、あなたが提唱し実践しているものです。「日常の魔術師」であることには、リスクがあるのでしょうか?誰もが「意図的な魔術師」を目指すべきなのでしょうか?それとも、ある人々は「訓練されていない」方が良いのでしょうか?
Zenarchy:私は、人間、あるいはすべての生き物が、ベルクソンが言うような「生命の躍動(エラン・ヴィタール)」を求めていると信じています。一般的に「日常の魔術師」と呼ばれる人々は、現状からの脱出を求めているにも関わらず、なかなか解放されることができない人々であると考えられます。一方、「意図的な魔術師」とは、自由意志を行使して現状を超えようとする個人と見なすことができます。もちろん、これらの2つのカテゴリは容易に区別できるものではありません。個人の中でもどうしても制御できないことってありますし。
ただ無自覚であることは、魔術の領域だけでなく、人生の他の側面でも他者や何か外部のものによってコントロールされるリスクを伴います。
種の目的の観点からは、そのような能力を持つ個体が一部に存在するだけで十分であると考えられるかもしれませんね。たとえば、すべての魚が陸地に上がる必要はなく、陸生生物が出現するためには、陸地に対する好奇心を持った一部の魚がいれば十分ですよね。意図的な魔術師になる潜在能力を持つのは誰でも可能ですし、結局のところ、(無意識的にであれ)ほとんどの人がそこを目指していると信じていますが、そのレベルに達する個体の数は少ないかもしれません。私自身もまだそこに向けて奮闘中です。
Blinding Cyclops: トピックを変えましょう。時間と第4次元に関連する興味深いアイデアを持っていると伺いました。これについてもう少し詳しく説明していただけますか?また、このテーマについてのブログ記事を書いていますか?
Zenarchy:ごめんなさい。時間や第四次元について話した覚えはありませんし、ブログでもそれについて書いていませんねー。 時間の問題については考えることはありますが、それは難しい問題なので、今のところ放っておいています。
Blinding Cyclops:それなら、我らが友人Zen Collinsがジョークを言ったのでしょう。このような場合、どのような反撃が適切なのでしょうか?
Zenarchy:何か話したのかもしれませんけど。Zen Collinsはなんて言ってました?
ちなみにChatGPTによると、以下の反撃が可能なようです。
1謝罪を求める
Zen Collinsに直接謝罪を求めることで、将来同様のことが起こらないようにすることができます。
2同様のジョークを返す
同様のジョークを返すことで、Zen Collinsに対抗することができます。ただし、相手の感情を傷つけたりトラブルを引き起こさないように注意してください。
3冷静に状況に対処する
ジョークが好きではない人もいますので、感情的にならずに冷静に状況に対処することが重要です。適切な反応を示し、ジョークを受けた側として大人として応答することが望ましいです。
Blinding Cyclops:具体的には、Zen Collinsは「Zenarchyに4次元についてもっと聞いてみることはできますか?そして、意味についてもっと話すことはできますか?」と書いてます。
Chat GPTの3つのオプションのうち、どれが最も適切だと思われますか?もちろん、彼は私たちが今書いているすべてを読むことができることに注意してください!😄
Zenarchy: Zen Collinsと時間の概念について話し合ったこともあるかもしれませんね。覚えてないですが。私は4次元の数学的または物理的な概念には詳しくありませんが、物理的な世界を超えた世界という意味では、猫町は4次元空間での変容です。私たちは目で見たり、耳で聞いたり、触れたりできるものに存在の資格を与えますが、「それ」が起こるとき、明らかに物理的な世界よりも高次元で変化が起こりますから。
ちなみに苫米地は、次元が増えるにつれてランダム性が減少すると述べています。二次元で生活するアリにとっては、人間の足はランダムに落ちてきますが、三次元を認識できるアリは、次に足がどこに落ちるかを予測することができます。人間は時間を次元として認識する能力を獲得し、それによって農業を始めたり計画的な行動を取ることができるようになったと言われています。
Blinding Cyclops:なるほど、つながりが見えますね。さて、読者やあなたの作品に初めて触れる人々に対して、他に何か知ってもらいたいことはありますか?また、もし読者が読むべきブログ記事を5つ選ぶとしたら、それは何ですか?
Zenarchy: ブログの記事はすべて新作の「抗体詩護符賽」という作品(日本語で発音すると「皇太子ご夫妻」と同じに聞こえます)になる予定のエッセイ集であり、何を読んでもいいんじゃないですかね。混沌と秩序の関係についての話題が多いと思います。猫町についての記事は私の最も興味があるテーマです。「映画について」を読めばなぜ私の興味が映画から情報哲学へ移行したかがわかると思います。5つ挙げるとすれば「プロローグ」「あれのこと」3つと「映画について2」ですかね。
Blinding Cyclops:このインタビューを終えるには良い場所のように思われるので終わります。ここBlinding Cyclops Discordサーバーであなたの文章と考えを共有していただき、ありがとうございます。私自身もあなたのブログをフォローする予定です。将来的にはフォローアップのインタビューを行うこともありますので、何か共有したいことがあればいつでもご連絡ください。
興味を持った読者は、Zenarchyの文章に関する質問をzenarchy-discussionに投稿することをお勧めします。そして、もしもあなたが興味を持った読者である場合は、@zenarchyを必ずつけて投稿していただき、彼があなたの意見に対応できるようにしてください。
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