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【短編小説】今日がその日  #島の話

郊外を走る休日の私鉄はほどよく空いていて、のんびりとした空気が流れている。隣に座る娘は推しのTwitterをチェックするのに忙しく、気が向いた時しか母親と話をしてくれない。

スマホのネットニュースを流し読みしながら、目の端で向かいの席に座る家族連れを見ていた。座席に膝を立てて車窓をみている年中さんくらいの男の子に慣れた手つきで靴を履かせているのは、25年前に一緒にいた人だった。

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島で住み込みのアルバイトをしていた頃、一緒に働いていた彼を好きになった私は、あの手この手を使ってなんとか近くにいられる関係にもちこんだ。

複雑な家庭で育った彼は、人に過度の期待をして、思い通りにならないと勝手に裏切られた気持ちになり、一方的に距離をとってはどんどん孤独になっていくというパターンを繰り返していた。

そんな時、自分を好きだと言って近づいてきた女を、たとえ好みのタイプじゃなくても傍に置いておきたかったのだ。正直者の彼はその事を繰り返し私に伝えてきたから、よくわかっていた。

一緒にいたのは本当に短い間だったのに、驚くほどたくさんの景色を覚えている。

白波の立つ海を見下ろす崖、山の上の蔦に覆われた温泉、夜のプール、貸し出しシステムが独特なレンタルビデオ店、綺麗な青い目の子猫を拾った漁港、背の高いススキが繁る赤土の散歩道。

毎日一緒にいても、彼は一度も私を好きだとは言わなかった。好きだと言わないくせに、将来の約束は迫った。「ずっと一緒にいると約束してくれない人に好きなんて言えない」と彼は言い、「好きを重ねた先に将来があるんじゃないのか」と私は言い返した。

大好きだったけど、基本的に面倒くさがりな私は、彼の頭でっかちな理論武装と試し行動にいつもうんざりし、長く付き合うことは出来ないだろうとどこかで思っていたのだから、結局彼の考えは正しかったのだ。

島の暮らしは毎日が夏休みみたいで楽しかったけど、飽きっぽい私は1年ほどで耐えられなくなった。島を離れると伝えた瞬間のことは忘れてしまったけど、最後の日のことはよく覚えている。別れを決めたのは自分なのに、彼を一人残していくのが辛くて、ずるずると乗る飛行機を遅らせた。

バイト仲間でよく行ったカフェでエビピラフを食べ、お店の人に別れの挨拶をし、荷物のなくなった部屋で何も言わずに2人でくっついていた。最終便の時間になってようやく空港に向い、最後にハグをして別れた。オレンジと紫のツートンカラーの空は、東京に着く頃にはすっかり暗くなっていた。

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車内に到着を告げるアナウンスが流れ、男の子は母親らしき女性と手を繋いで降りて行く。彼は3人分の荷物を持ち、忘れ物はないかぐるりと見廻した。そしてドアに向かう途中、一瞬こっちを見てマスクを下げ笑った。うん、うん、気づいてるよ。目だけで笑い返したのは伝わっただろうか。

ホームに降りた男の子はそのまま電車を見送るつもりらしく、電車から少し離れた場所で姿勢良く立って手を振っている。隣にしゃがんだ女性は片手で子どもの腰をしっかり抱き、一緒に手を振っている。2人の後ろに立った彼もまた、手を振っている。

「バイバーイ、電車バイバーイ」幼児特有の甲高い声に、スマホを見続けていた娘が顔をあげ、調子よく手を振り返した。バイバーイ、私も小さく手を振り、電車はホームを離れた。バイバーイ、バイバーイ可愛らしい声がずっと耳に残った。

繁華街を抜け、車窓は田んぼや畑の長閑な風景に変わり、隣の娘もまたスマホの世界に戻っていった。「気まずくなりたくないんだよね、いつかどこかでバッタリ会った時、笑っていたいから」最後のとき彼はそう言った。
今日がその日だった。


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