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散歩と雑学と読書ノート



春の千歳川
タンポポ


今年の3月末から4月の初めにかけて、千歳市で発生した高病原性鳥インフルエンザは3カ所の養鶏所に及び約120万羽の鳥が殺処分された。その数は全道の家鶏の23%になるという。

鳥インフルエンザは渡り鳥から野鳥に広がり、その糞や死骸に直接ないし間接的に接触することで家鶏に感染するとみられている。千歳はシベリアへ向かって飛来していく渡り鳥の通過点に当たっていて来年以降も鳥インフルエンザの発生には注意が必要である。今季は全国で約1700万羽の家鶏が殺処分された。確かワクチンもあるとは聞くが、現在のところ感染源は明らかになっておらず予防策を講じることが難しい状況にあるという。

千歳での殺処分の影響で道内では卵の供給不足と価格の高騰が続いている、正常化には1年以上かかりそうだと見込まれている。

近くのコンビニで聞いたところ一日に8パックしか入荷しない日もあって、すぐに売り切れてしまうのだという。「イオン」に行っても卵のおき場所はすぐ空になってしまいますと言われた。
                
家畜が危険な感染症にかかった時には今回の千歳の例のように広範囲な殺処分が行われる。なんとも不条理な気がする、何か良い方法がないものだろうか。分割して生産するなどの体制が考えられているようであるが、最終的には殺処分に頼るのだろう。

応用倫理学の一分野に動物倫理学がある。そこで家畜の殺処分に関してどのような議論がなされているのか私は詳しくは知らない。
「動物は殺すな、食べてもいけない」という意見をお持ちの方もおられるが、私は動物も含めて何でも食べてしまうタイプの人間である。それでも私は人並みに動物愛護の気持ちは持ち合わせている。私のような人間でも納得できて、置いてきぼりにならない動物倫理学の理論があるだろうか。

動物倫理学の世界で代表的な学者に、ピーター・シンガーがいる。彼の「動物の開放」という書物は動物の権利を考えるバイブルとみられている。彼は菜食主義者でもある。

シンガーの本を私は読んでいない。彼に関するいくつかの解説を読んだだけで、詳しくは知らないが、彼は功利主義の思想をもとに議論を展開している。功利主義的な利害を持つ存在は快や苦を感じる存在のすべてである。動物の多くも快や苦を感じる能力を持つとしてシンガーは動物に対する倫理を説く。彼は現代の肉食を支える工場畜産のような実践は、些末で不必要な利益を人間に与えるために、動物に多大な苦痛をもたらすものであるとして、工場畜産は倫理的に許容されないという。

私は工場畜産が些末で不必要な利益をもたらすだけというのはやや言い過ぎのように感じる。ただし動物に多大な苦痛を与えるという事に関しては、否定する根拠を持たない、ましてや大量殺処分を人間の健康のためであるとしても、動物に対して倫理的な行為と主張できるものではない。

そのピーター・シンガーに関して立命館大学の社会学者、立岩真也「人命の特別を言わず/言う」、筑摩書房,2022、という本のなかで触れている。立岩は本書を、筑摩書房の担当者の勧めで、はじめは「note」に記事を連載して校正などをしたうえで作成したと述べている。立岩は私にとっては信頼できる好きな学者の一人である。

立岩は本書の中でシンガーの主張には大きな問題があると述べている。

私にとって、そのシンガーに関する立岩の意見は強く共感できるものであった。ただし、その点を議論できるだけの素養に私はかけているので、ここでは立岩の意見の一部を引用させていただくにとどめて今後さらに考えを深めたいと思う。

「シンガーは第一に無感覚の存在、第二に快苦の感覚だけを持つ存在、第三に快苦の感覚に加えて理性と自己意識をもつ『人格』の三つを分ける。そして,選好功利主義の立場から、一番目は配慮すべきそれ自体の利害をまったくもたない、二番目は苦痛を与えないように配慮すべき、三番目は快苦に関する利害と自分の将来に関する利害の両方に配慮すべきとする……ここから快苦の感覚をもつ動物の生存権を認める主張をする……一方、障害を持つ新生児については安楽死を認めるべきだとする……他に……ヒトの胚を用いた実験を支持する……
こうした主張がドイツで障碍者の組織に批判され、彼は壇上で抗議を受け、講演はとりやめになった。(シンガー事件と呼ばれる)
私のシンガーとクーゼの主張に対する批判は『唯の生』で行っている」

「(……デリダへのインタビュー)で、ルディネスコが次のように語り、問う。……

 ピーター・シンガーとパオラ・カヴァリエリが考え出したダーウィン的計
 画の骨子は、動物たちの権利を制定することで彼らを暴力から保護するの
 でなくて『人類ではない類人猿たち』に人間の権利を与えようというので
 す。その論法は私の目には常軌を逸したものと映るのですが、……狂気や
 老化、あるいは人間から理性の使用を奪う器質性疾患などに侵された人間
 などよりも、よっぽど類人猿の方が『人間らしい』から、というもので
 す。
 かくして、この計画の発起人たちは、人間と非人間のあいだに疑わしい境
 界線を引き、精神障害者を人間界にはもはや所属しない生物種へと仕立て
 上げ、類人猿を、……もうひとつ別の生物種へと 仕立て上げるので
 す。……
 こうした問題についてご意見を伺えればと思うのですが。

それに対して、問われた人はいくつかのことを言っている。……
聞き手のルディネスコは明らかにシンガー的なものに反感をもっているのだが、デリダはそれにじかに同意をしめしているわけではないということだ。」
 




               ***


2020 自費出版


「こころの風景、脳の風景―コミュニケーションと認知の精神病理―Ⅰ、Ⅱ」より


身体と倫理(その2)

 


目次
1 はじめに
2 倫理の視点から見た身体の諸相
 *痛みを感じる身体
 *顔と倫理
 *食と性と身体
  (以上前回)
 *記憶と歴史としての身体
 *円柱形の袋と菅でできている身体
 *排泄する身体
 *共生する身体
 *ネットワークとリズム(振動、音楽)を形成する身体
 *ビックデータとしての身体
 *老いゆく身体、介護を受ける身体、終末期の身体
 *「遺体」と呼ばれる身体
3おわりに


* 記憶と歴史としての身体

遺伝子DNAは言うまでもなく自己複製能力を持った生命の核になる物質である。そこには、長い進化の歴史が刻み込まれている。その遺伝子DNAに刻まれた病に関わる情報の取り扱い技術が加速度的な進歩をみせる現在、どこまでその技術の応用が許容されるかをめぐる倫理的な規定は待ったなしの課題である。

人間の遺伝子改造や人工生命の問題は現実の問題となっている。多くの倫理的な批判をあびたとはいえ、中国では人ゲノムの編成技術を応用した出生が実際に行われて世界は驚かされた。

ヒトゲノム計画で、人間のゲノムの配列が解読されて、30憶塩基対の全ゲノムのうち、タンパク質のアミノ酸配列を規定する構造遺伝子(コード遺伝子)は約2%の2万2000個に過ぎないことがわかった。予想を大きく覆すこの事実は驚くべきことであった。残りの非コード遺伝子はジャンクDNAと呼ばれ、意味のないものと思われたが、次第にその機能が明らかになりつつある。たとえばその一部はコード遺伝子をささえる働きをしていることが分かっているし、さらに遺伝子の情報発現の調整機能を担っていることを始め、今後その意味がさらに明らかにされていくのだろう。

また近年エピジェネティックをめぐる進歩も急速である。人間の遺伝子の配列が読み取られた現在、予想できないような新たな謎や問題が遺伝子をめぐって出てきているわけで、安易に遺伝子に手を加えるべきではないことは言うまでもない。

一方で生まれてこのかた、体に刻まれた歴史としての記憶がある。中井はそれを記憶の索引としての身体とよんだ。たとえばアレルギー、生活習慣病に履患した身体、あるいは、体型を修飾する筋肉系などの身体の発達、習慣化された身体の動き、PTSDなどのように、個人の心や身体に刻まれた社会の影響などで、その点に診断や治療を進めるうえで充分な注意を払うことは治療的であり倫理的である。

 

* 円柱形の袋と管でできている身体

 身体を構成する主要な構造は袋と管である。受精卵から始まって身体が造り上げられていくプロセスは神秘的と思われるほどに巧妙なものである。受精後3週末には、外胚葉、中胚葉、内胚葉からなる3層性胎盤が出来上がる。しかし、それはまだ西洋ナシのような形の円盤状で、人体としての立体的な形状は示していない。上皮組織と間葉組織の相互作用で身体の凸凹や袋と管から成る器官構造が造られていく。最終的には、外胚葉から体表の表皮と中枢神経系、末梢神経系が、中胚葉からは骨、軟骨、筋肉、血管、血液、結合組織が、さらに内胚葉からは消化器官や呼吸器官等が出来ていく。

ややグロテスク表現だが、身体はその表層を爪と毛のついた皮膚の袋ですっぽりと包まれて存在している、その皮膚の袋には、いくつかの穴が開いていて、その先は管となっている。

まず皮膚に関してみておこう。人類の先祖は約120万年前頃に皮膚を覆っていた体毛を失い、その頃より脳が大きくなってきた。環境に皮膚をさらすことでそこからさまざまな情報がもたらされ、その処理のために脳が大きくなったともみられている。皮膚は触覚を通じて他者と濃厚なコミニケーションを行い情動を発達させる。さらに,傳田光洋著「皮膚はすごい」によると、皮膚は可視光から紫外線、赤外線も感知する。音も超音波まで感知し、さらに大気圧を感じ、酸素濃度感知し、弱い磁気や電場にも応答するという。

その皮膚に開いている穴を身体の上部から見てみよう、一番目は眼である。眼の構造を管と捉えてよいかには、さっそく異論が出るかもしれない、ここでは眼は光の通り道(管)であり、脳が表面にむき出しになった形で網膜から神経の管に接続すると考えておきたい。眼の次には、耳があり、鼻がある。さらに口が穴の入り口となって、途中で枝別れして二本の管になっている、一本は気道となって、空気の袋である肺につながる。もう一本は 、食道で、胃や腸の袋を通って肛門に開いている。つまり、体のほぼ中央を一本の管が貫いて外界と連続している。次の穴は、陰茎にある尿道で男性は膀胱の袋、尿管、腎臓へとつながる泌尿器管であると同時に生殖器管でもある。男性の生殖器官は精巣が性腺で、精管、射精管が生殖路である。女性の場合は男性とは異なって泌尿器の尿道が生殖器の膣と別に外部に開いている。膣は子宮の袋とつながり、さらに卵管となって生殖路を形成して性腺である卵巣につながっている。また女性の場合は特に乳房が出産時は乳の通り道として重要である。人体の内部では、まず血管の管が心臓の袋を挟んで、全身にくまなく張り巡らされている。リンパの管も全身にいきわたっている。また中枢神経系は、外胚葉由来の神経板が中胚葉層に落ち込んで生まれた神経管から発生する。神経管壁から発生した神経線維もまた管の構造を持って全身にいきわたっている。さらに言えば骨格は硬い管ともみなせよう。その内部の空洞は造血装置である。筋肉や、内臓の臓器はそれぞれ袋で覆われている。また肝臓は胆管に、すい臓は膵管に開いている臓器である。

 終末期医療で、延命措置のために、何本ものチューブやモニターにつながれた様子を指す、「スパゲッティ症候群」という批判的な意味合いの言葉がある。それは、身体がこのように管と皮膚を含めた袋で成り立っているために、管の入り口を中心に、輸液ルート、導尿バルーン、気管チューブ、動脈ラインやサチュレーションモニターなど何本ものチューブやモニターを付けられてスパゲッティのような姿となり、さらには無益と思われる機械を使われて死を迎える姿を批判的に表現する言葉として語られた。今日はリビングウィルが重視され、終末期の迎え方に関しては倫理的な配慮が随分きめ細やかになされるようになり、このような批判を受けるような治療のあり方は改善されて減少しているものと思う。

筆者はここで、指摘しておきたいと思うのは、先に述べたような身体の成り立ちから見て、救命処置などで治療上必要性があれば、スパゲッティのような姿になることや機械に接続されることは当然ありうることで、問題はどういう目的でそうなっているのかということである。姿や形からだけで治療の在り方を批判することは当たらないということである。

 

 排泄する身体

身体はその活動の副産物として様々なものを排泄する。便やおなら、尿、汗、炭酸ガスや臭いを含む呼気、体臭、熱、表皮の脱落した垢や毛髪やつめ等、吐物、げっぷ、涙、涎、言葉や歌声あるいはいびきや奇声などの様々な様相の音声、鼻水、耳だれ、出血、そして精子や卵子や乳、さらに排泄という言葉で、同列に論じるのは不適格であるがあえて述べておきたいのだが、出産時の子供などがある。身体から排泄され、産み落とされたものたちは、子供や乳や美しい声やある場面での涙を除くと、妙なことに多くはあまり歓迎されないものである。

それらのあるものは、危険な感染源となることもあるし、人前で排泄することはしばしば迷惑のもとであり、時によってはトラブルのもとでもある。そして、本人にとっては羞恥の対象ともなる。臨床の現場では、他の同室の人のためにも迷惑な排泄への対策は重要な倫理的行為でありリスク対策行為でもある。誰と同室になるかは時に病の治療に重要な要因ともなる。したがって、排泄によって迷惑を与えない部屋の割り振りはたいせつな治療者の役割である。排便のにおいの対策は動けない老人のいる病室ではきわめて重要なことであるし、出血や吐物や呼気に含まれる病原体への接触は重大な病気のきっかけになりうる由々しき問題である。一方で、血液はもちろん、便や尿などは人体内部の健康にかかわる徴候の重要な情報源であることを忘れてはいけない。

 * 共生する身体

 人体を構成する物質は78の元素よりなり、7年ほどでそのすべてが入れ替わるとも言われている。それらの物質は空気や水を始めとして植物や動物などを食物として摂取することで獲得する。また人間の体は約60兆個の細胞から成立していると言われてきたが、2013年に雑誌Annals of Human Biologyに、組織や器官ごとの細胞数から割り出してほぼ37兆個であろうという説が出された。そのうちの26兆個を赤血球が占めているともいわれる。

それらの細胞はかって、たとえばミトコンドリアのように他の生き物が寄生するかたちで成立してきた歴史がある。寄生して他の細胞の一部に取り入れられてしまった主なものは細菌である。細菌は生命の最も原初の形体であり、現在も生命の中で最も数が多く多様な生き物である。一方でウイルスの寄生が果たした役割も、さらにこれからも果たすであろうと考えられる役割も含めて極めて重要である。人間のいわゆるジャンクDNAの多くはウィルス由来とみられている。そしてたとえば、太古に感染して人のDNAに入りこんだと思われるレトロウィルスの一部が胎盤の機能を発現していることが近年になって分かってきたりしている。

人体には1000兆個もの細菌が住み着いていると言われている。つまり人体の細胞より10倍いやそれよりはるかに多くの細菌と我々は共生している。その大部分は消化管に生息している。今日その腸内細菌の生態的な振る舞いが腸内フローラと呼ばれて人体の健康維持に重要な働きを担っていることが話題になっている。また神経科学者、アントニオ・ダマシオは、腸内細菌と腸とが密接な関係を持って、直接的にせよ間接的にせよいかに感情に影響を及ぼすかは、21世紀の科学の注目すべきテーマの一つになっていると述べている。腸管神経系は、感情の障害やその矯正に重要な役割を果たす神経伝達物質セロトニンの95%を産出しており、先に述べた皮膚と同様に感情や気分の形成に重要な役割を果たしている、そのプロセスに腸内細菌が関係している可能性があるというのである。

このように我々人間は決して単独の生き物ではなく、人間同志はもちろんのこと、こうした細菌やウイルスや植物や動物など多くの他の生き物と共生することで存在できている生き物である。すべての生き物との共生に思いをいたすことは極めて倫理的な意味を持つことである。また共生を継続するための環境倫理は、今日われわれにとっては待ったなしの課題である。人間の活動が地球環境を取り返しつかないほどに悪化させていることは、多くの人々に共通の認識になってきているが、その対策に向けた行動が政治的な思惑もあって遅々として進まない。未来の世代に対する重大な反倫理的行為である。

 ところで、ジャック・アタリはカニバリスムという隠喩を用いて移植を論じているが、筆者はこの共生という認識のもとで、移植の問題を考えてみることが可能ではないかと考える。

現在の移植には脳死の問題を始め多くの倫理的問題があるのが現状である。もともと現在の臓器移植は生物学的にはいささか無理のある技術である。はやく次のステップが訪れることを期待したいものである。現在はiPS細胞による臓器移植が次のステップとしてあげられている。しかしそれにも細胞の初期化に使用する山中4因子とよばれる4個の遺伝子を挿入する生物学的な意味や癌化の危険性や医療経済的に平等性を担保できないだろうという意味での倫理的課題が幾つか浮上している。さらに言えば、現在の技術ではiPS細胞から人工的に臓器を作ることは困難で、動物の体内で人間の臓器を作りそれを移植することを考えている段階である。そこにも大きな倫理的課題がある。山中教授はそうした倫理的な課題にも取り組んでおられるが、教授だけの問題でないことは言うまでもない。人類全体の重要な課題である。

 

*  ネットワークとリズム(振動、音楽)を形成する身体

生きているという事は、身体が一日24時間の概日リズムや、潮汐リズムのような外界の変動に照応しながら様々なリズムを刻んで、動的平衡を保っているということである。解剖学者、三木成夫は進化の過程で生命が獲得してきた、宇宙のリズムと生命のリズムの照応に関して深い見識を展開している。心拍や呼吸や血圧のリズム、睡眠や食事や排泄のリズム、体温や新陳代謝のリズム、脳波のリズムや筋肉や内分泌系などが刻むリズム、細胞周期のリズム形成など。身体は全体としても,それを構成する機能単位としても音楽のように多様にリズムを奏でながら生命を維持している。おそらく人間の脳のリズムはそのなかで、最も多彩なものであろう。

そうしたリズムが出現するのは、身体の各部位に存在している固有のリズムを発現する振動子をベースにして、身体が外界や、身体の内部と様々なネットワークを形成し情報を伝達しあってそこに一定のリズムを形成するからである。身体を構成する一個の細胞の中でも極めて複雑なネットワークが形成されていて新陳代謝や遺伝情報発現や細胞周期のリズムなどを形成している、その全貌を記述することはまったく困難であるのが現状である。

そうした細胞同士が結びついて臓器を形成し、臓器同士が神経系からの情報のみでなく、直接ホルモンやホルモン様の物質などを介して情報をやり取りし、その結果として生命リズムも刻まれていることが次第に分かってきている。身体は巨大で複雑なネットワークとリズムの塊であるのだ。そうした仕組みを可能な限り乱さない毎日の生活のリズムや社会生活上のリズムが重要であり倫理的意味を持つ。そのために何をすべきかが問われることになる。しかし、不明な部分も多く難しい問題である。

 

* ビックデータとしての身体

身体から得られる膨大なデータは、医学的な検査技術や治療の目もくらむような進歩や情報のデジタル化とその記憶媒体の進歩などによって、ビックデータとして蓄えられ、流通することが可能となってきている。そのために、治療上の利益を個人が受けうる可能性と同時に、個人情報の保護をめぐる極めて緊急性の高いしかし厄介な倫理的問題に我々は直面している、それらの、情報を一体だれが管理するのか、場合によっては適切とは言えない目的に、企業や国家や個人が利用しようとする場合にそれをおさえるためにどのような規制が可能なのか。その問題は一国のなかでおさまる問題でもないが、取りあえず、国内での倫理的な規定を急ぐ必要があるだろう。おそらく、健康と病気にまつわる身体的ビックデータを最も豊富に提供できるのは日本であろうからなおさらである。

付記
 今回のコロナ禍で日本社会のなかでの情報のデジタル化とその管理システムの構築が極めて遅れていて、脆弱なものであることが露呈した。その構築と法的な整備の両方が急がれていると筆者は思う。

 * 老いゆく身体、介護を受ける身体、終末期の身体

今日われわれは、平均寿命が伸びて以前とはけた違いに長い老後を過ごすことになった。もちろん老いゆく身体はいかんともしがたいものがあるが、その老いのスピードは以前と比べると極めてゆったりしたものになった。そのために老後の生活にはたとえば、筋力や回復力が低下するなどのサルコペニア・フレイルやロコモティブシンドロームに気をつけるなど、本人が気をつけるべき身体能力の保持の課題が待ち受けている。また医療者や介護者が気を付けるべき倫理的課題も極めて大きく重い。医療上の倫理的課題の多くがこの時期に集約されている。ここではその具体的な問題点をいくつか挙げさせもらうだけにしておきたい。

まず今日、在宅での介護や死の見取りが重要視され、実際に行われる時代になった。

在宅でのケアーでの問題点を幾つが挙げてみる。もちろんこれは病院や施設にもほぼ当てはめる問題点である。まず服薬管理がある、服薬による副作用の観察が特に重要である。次に栄養管理がある、食事を介助する際には嚥下に気をつける必要があるし、経管栄養はどこまで在宅で可能かの判断が必要である。また呼吸器管理に関してもどこまで可能かの問題がある。ついで保清の課題がある、入浴ケアー、褥瘡の処置、排泄ケアーなどである。とくに病院や施設での異性によるケアーには一定の配慮が必要であろう。死の見取りに関連してはメンタルなケアーが大切である。近年、スピリチュアルケアーや臨床宗教士の介入が話題になっている。在宅での見取りにおいても色々な問題があるだろう。ここでは一つだけ述べておきたい。死後の処置に関することである。看護師が立ち会えると良いがそうでもないことが想定される。一定の知識を家族が持っていることが必要である。

介護を受けることになったときに、それまでの身体や精神のあり方が試されることになる。先にもふれたが、人それぞれに異なる形で習慣化し記憶化された身体の振る舞いや身体的な癖があり、特に発話と共に生起する身体的な振る舞いは、協力的なものであれ、拒否的なものであれしばしば介護のあり方を規定し時には阻害因子となりうる。しかも、その場その場、その時その時で、状況は変化する、介護をする者はそうした介護を受ける側の個人的な身体やメンタルな状況を念頭に置くことを要請される、それは極めて実践的な要請であり倫理的な要請でもある。

一方で、あえて述べておけば、介護を受ける側も、介護者に対しては可能な限り倫理的な態度をとる必要がある。もちろん筆者は、そうしたことがいつも上手く実践されると考えているわけではない。建前上のきれいごとかもしれない。しかしあえて意識化しておくことが必要ではないかと考える。

さきに「食と性と身体」の項目でもふれたが、このような時期に自力での食事摂取が困難になるのは一般的ですらある。その場合の対処の仕方は極めて重要な倫理的課題である。経管栄養にどの時点で踏み込むか、胃瘻の位置づけを含めて、どのような方法が最も的確であるか、あるいは終末期にはすべての栄養摂取を中断するという選択が許されるか。そうした点に関して、わが国では十分に議論が尽くされたともいえないし、具体的に明確な指針も出されていないのが現状である。もちろん後で述べるように一定の指針は出されているが筆者には十分とは思えない。食行為のような生命の維持に直結する医療行為の導入や中断に関しては、もちろん患者本人や家族の意志が第一に重要である、しかし患者からの意志が得られないこともあるし、時には患者本人や家族の判断が揺れ動くこともあって言葉で言うほど簡単なことではない。

重要なことの一つは医師が単独で判断してはいけないということである。看護師を含めた医療チームとして判断に取り組むべきであるし、病院全体としても倫理委員会などで、可能な限りの判断基準を設けるべきであろう。しかし、それもそう簡単な事ではない。その前に医学界全体でまた国として、さらに言えば国民が議論を重ねて、一定の基準を変更しながらでも定めていってもらいたいものである。

このような問題に関しては、これまでは医師が個人的な判断である行為を行い、その結果逮捕されて裁判をうける、そしてその時の裁判官が下す判断を一つの倫理的な目安とするということがわが国ではなされてきた。筆者はそうしたあり方に強い疑問を感じ、恐怖をすら感じる。

 現在わが国では安楽死は合法化されていない。それでは消極的安楽死はどうだろうか。日本医師会の「医師の職業倫理指針」(第3版、平成28年10月)には、「東海大学安楽死事件」に関する横浜地裁判決(平成7、1995年)の判決文を引用し次のように述べられている。

1、治療行為の中止(消極的安楽死の範疇に入る行為)

苦しむのを長引かせないため、延命治療を中止し死期を早める不作為型の死。

許容要件として、①患者が治療不可能な病気に冒され、回復の見込みがなく死が避けられない末期状態にあること、②治療行為の中止を求める患者の意思が存在し、それは治療行為の中止を行う時点で存在することが必要であるが、患者の推定的意思(家族らの明言から本人の意思として推定される意思を含む)によることも可能である

2、間接的安楽死

苦痛の除去・緩和のための措置で、それが同時に死を早める可能性がある治療型の死。

主目的が苦痛の除去・緩和にある医学的適正性をもった治療行為の範囲内の行為とみなしうることと、たとえ生命の短縮の危険性があったとしても苦痛の除去を選択するという患者の自己決定権を根拠に、許容されるものと考えられる。医学的適正性をもった治療行為の範囲内の行為として行われると考えられ、患者の推定的意思でも容認される。

3、積極的安楽死

苦痛から免れさせるため意図的に、積極的に死を招く措置をとり死に至らしめる行為。

(詳細は省略するが、横浜地裁は四点の要件を挙げて、積極的安楽死が、緊急避難の法理として、患者の自己決定権の理論を根拠に認められるとしている。しかし指針としては、「倫理的には、医師は積極的安楽死に加担すべきでない。」としている。さらにWMAでは1987年10月にスペイン・マドリッドで開催された第39回総会において、「安楽死は、患者の生命を故意に断つ行為であり、たとえ患者本人の要請、または近親者の要請に基づくものだとしても、倫理に反する」との宣言を採択され、さらに2002年10月のワシントン総会における決議も、安楽死は医療の基本的倫理原則に相反することを再確認しているとしている。)

 

*「遺体」と呼ばれる身体

身体はいずれの日になるかはわからないとしても、必ず死を迎える運命にある。
奇妙な問いであるが、死後の身体、つまり遺体となった身体は誰に所属しているのだろうか。筆者がそんなことを気にするようになったのは、以前のある出来事が影響している。自殺した患者を検死に来た警察官が、側にいる筆者を嫌がって、先生は向こうにいってください。生きているうちは先生のものでも、死んだあとの身体は警察のものだからと信じられない言葉を述べたからである。

それ以来、筆者は上に述べた問いを抱いたまま必ずしも充分に納得のいく答えを見いだせないままにいる。ちなみに我が国において、遺体関連法令は未整備で、遺体は貨物として扱われるようである。

もちろん死んだ体が医師や警察官に所属しているものでないことは明白である。少なくとも荼毘に付されるまでは、遺体は亡くなった本人に所属しているとみておくのが妥当だろうと筆者は思う。とくに生前に、解剖や検体や臓器移植の意志を述べられていた場合や葬儀の在り方に関する意思が明らかな場合は、遺体としての身体は意志を持つ存在である。その対処の責任はもちろん遺族にあるわけだが、身寄りが誰もいない場合はどうなるだろうか。筆者はある患者さんの葬儀の出席者が生活保護の担当者と筆者と看護者の3人しかいなかったことを思い出す。

荼毘に付されて身体が灰となっても死者はその身体のありようも含めて他者の中に記憶として残るものである。そもそも死者との語りは残された身近なものにとって極めて大切な事柄である。広い視点に立てば、ナチスに追われて自死をしたヴァルター・ベンヤミンの言うように、死者との語りは歴史そのものでもある。また死者は霊となって残っているという見方を取る人もいるだろう。そこ迄いくとさすがに問題は宗教やあるいは哲学の問題になってしまう。

死に関して鋭い問題提起を行った哲学者にハイデガーがいる。「死」を認識した生き方に本来的な人間のありようを認めようとするハイデガーの意見に筆者は必ずしも賛成できないと思うところもあるのだが、ハイデガーの愛人でもあった、ハンナ・アーレントが「死」に対応させて「誕生」という見方を提起しているのは卓見である。誕生を考えることは未来の他者を考えることでもある。ここでは「死」と「誕生」そして「生きること」を一つのセットとして考えてみることを今後の重要な身体の倫理的課題上の宿題としておきたいと思う。それは自己や他者や他のすべての生物との共生を考える際の基盤ともなるのではあるまいか。

 3、おわりに

身体が要請する倫理的な課題に関して検討してみた。ヴィトゲンシュタインは、先にふれたように、倫理的に意味あることは語れないものだし、倫理的な事を語ることの、おおくがむだ口であると言っている。だからといって筆者は倫理に関して沈黙すべきとは思わない。ヴィトゲンシュタインの言葉は戒めとして受けとめておきたい。臨床での倫理的事柄は医療行為の実践の中から常に問い返されるものであるし、常に身体(特に患者の顔)に問いかけられているものである。

前回と今回の二回に分けて筆者は「身体と倫理」に関する論考を掲載させてもらった。
倫理に関して語ることはブーメランのように自分に跳ね返ってくることを筆者は自覚している。特に現在は退いたとはいえ精神科医として長年臨床に従事した筆者が倫理的に無傷であるはずはない。

自分とかかわりの深い倫理的な課題には重いものがある。筆者はこれからもそのことにこだわりを持って考えていこうと思っている。



 

 

 

 

 

 

 


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