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散歩と雑学と読書ノート


千歳川
散歩の途上で見かけた花壇

読書ノート


「初めて語られた 科学と生命と言語の秘密」 (3)

  松岡正剛X津田一郎 文芸新書、2023


前回は、第3章「編集という方法」と第4章「生命の物語を科学する」を読み進めた。第3章では松岡が自分の専門である編集工学の方法論に関する説明を展開しているがさすがに見事な説明であった。私は読みながらいろいろと考えさせられた。第4章では生命や脳の科学を推し進めるために解釈学や物語性に注目する必要性があるという津田の問題意識に私は強く共感した。津田は脳科学者デヴィッド・マーが「脳」に関しては物語るしかないという認識をしていたことを紹介し、さらに解析学の一分野である変分原理や拘束条件の重要性を取り上げて生命進化や脳のカオス理論を説明している。ただし残念ながら私は数学や物理の素養に欠けるところがあって充分に理解しきれなかった。

1 脳と情報(第5章)

松岡はそろそろ「脳」をめぐってみたいと思います、さきほど拘束条件問題が生命の進化原理の何かのスタートに当たるものであるというところまで話は進んだんだけれども、このことと「脳」はどこまで折り合いをつけているのかということです、そのへんから始めますか。と話題を提示する。

津田は「脳」がどうやってできたのかということが問題として話を始める。その鍵をにぎるのは「情報をためる」ことです。モデルシミュレーションで、外部の情報を最大限にシステムに伝えるように拘束をかけると、「ニューロン(神経細胞)」に似たものが出てくる。おそらく生物的なニューロンもまた、外の情報を中に溜め込むことによって同じようにできたのではないかと津田はいう。脳の進化の初期段階で脳は「情報をためる」装置としてまず存在したのではないかというのである。

なぜ情報がためられるのか。と言う松岡の質問に「それはカオスがあるからです」と津田は答える。

(つまり神経系のような)ネットワークを構成するカオスに情報が入ってくると、そのカオスの中では情報はどんどん失われていくのですが、完全に失われる前に他のカオスに情報を受け渡すことで、ネットワーク全体では情報を保持できるのです。だからニューラルネットワーク全体が、つねに外の情報を時間をずらしながら再現することで、個々の情報をいつでもどこでも再現することができる。そういうものがおそらく脳のいちばん最初の原型ではないかと思うんですねと津田。

さらに脳が中枢神経系を持つようになったのは「情報の編集」という機能が影響しているだろうと津田は述べる。視覚や聴覚や嗅覚や味覚や体性感覚など複数の知覚をどのように統合(結びつけ)しているかはまだ充分わかってはいないが、そこには学習や編集が必要になる。

学習とは何かというと、ニューロン(群)の結合が変わっていくことである。そこに「進化」と同じような規則(淘汰選択)を使うことができる。そのことを最初に指摘したのはジェラルド・エーデルマン(免疫学でノーベル賞を受賞、神経科学者としても有名)である。彼はニューロンもダーウィン進化的に学習をしていて、通常の進化とは時間スケールが違うだけだと言った。その説を分子生物学者、神経科学者のクリックは「神経ダーウィニズム」と命名した。

学習や脳の編集で様々な情報を「結ぶつけ」て統合するためには「物語る」ことが必要になる。それは高次の意味の学習であると津田は指摘する。さらに津田はおそらく脳が大きくなってきて、「記憶」や「学習」や「物語る」と言う行為がほとんど同時に発生したのではないかと言う。

カオスというものは生物史的にはどのあたりから認めていいのですか。という松岡の質問に、津田は細胞が生まれた段階で、カオスはすでに発生しています。と答える。さらに、細胞内の原形質流動そのものがかなりカオティックなものだという。また消化管の運動や心臓の拍動は、自律神経によるオシレーター(非線形振動子)が結合した系を形成し、その系が周期的なふるまいやカオスティックなふるまいを生成するのだと津田は説明する。

松岡は次にニューロンの信号伝達を問題としてあげる。ニューロンが電気信号を受けて、それを化学信号に変えるけれども、脳の進化のレベルでどう見たらよいのか。

津田はたぶん膜ができて、チャンネルができるという順番だという。膜にタンパクが入って、イオンチャンネルができれば、電気信号が伝わる。さらに化学信号が介入するようになったのは、信号の伝達を遅くするためであったと思われる。学習機能が必要になる高等動物になるほど遅くなっているが、それは高次の「記憶」と「判断」を形成すためではないか。生命系というものは物語が中心にできているので、神経系だけが早く反応してしまうと、単に動いているだけで、計算もできなければ判断もできないとというのが津田の意見である。

松岡はその意見を受けて、次のように述べる。そこに何チャンク(文節)かの短い回路、いわばショート・コンテキストを入れておく必要があったんだと思うんです。それによってディレイ(遅延)をつくり、その間に学習エンジンが作動して判断や確信が成立する。……とくにフィードバックというようなチャンクは、その単位がコンマ何秒かのレベルかもしれないけど、その後の学習の全プロセスにとってたいへん効果が高い。……で、そのチャンクの量というか分節(アーティキュレーション)の量が、神経系のネットワークのパターンとか、長さの分岐の数のもとじゃないかという気がするのですが、どうでしょうか。

津田は、脳の狭い領域のニューラルネットワークはスモールワールド的だということです。だいたい数シナプスで元に戻っちゃう。……それに対してもっと広領域の全体を見ると、スケールフリーをうまく使っていて、短いのもあるし長いのもある、分布が「べき」になっている。……おそらくは「内的時間」をつくるのに、数段階があると想像できる……またチャンクの量に関しては、人間が瞬時に記憶できるチャンク数は7プラスマイナス2の範囲(ミラーの法則)ですと述べている。

次いで、話題は神経系に「分子言語」があるのか、さらに「閾値」がどう決められるのかという問題に移っていく。

神経系の「分子言語」という松岡の発言を読んで、私はただちに、ドパミンやセロトニンやアセチルコリンなどの伝達物質が60以上存在すると言われていることや、神経成長因子やサイトカインなどの認識因子など脳内の化学物質だけでも数百から数千に及ぶ可能鵜性があると言われていることを思い浮かべた。それらが確かに化学言語的な作用をしていると見なすことが可能かもしれない。「分子言語」という視点で詳細を解き明かすのはいずれにせよ今後の課題である。松岡はクオリアもひょっとすると化学言語的なものではないですかと述べていることに私は興味をひかれた。

「閾値」の問題に関しては神経系の電気信号や化学信号の発信の鍵をにぎるとみられている「閾値」を私は思い描きながら読んだ。津田は以前に「閾値」の研究をしたことがあると言って説明をしているがここで詳しくは触れる余裕はない。研究は論理を素材にして、それを命題の形で組み立ててその真偽を推論する、そのために論理に時間を導入して、推論を離散時間力学系になるような方程式を作成する。その解として「真である」と「偽である」が異なる時間の結論として得られるので、与えられた現象が出現することの度合いようなものをダイナミクスとして記述できる。これを神経細胞膜のイオンチャンネルでおこるキナーゼとホスファターゼの関係に応用すると、「閾値」が自然にあらわれたのです。と津田は述べる。

キナーゼとホスファターゼは膜イオンチャンネルの鍵穴をオープンにしたりクローズしたりする酵素で、キナーゼはイオンチャンネルを活性化して細胞外のシグナルを細胞内に送る、ホスフォターゼはそれに対して不活性化させる役割を持つ。この二つの酵素の反応を見るとまるで語り合っているような相互作用的な反応をしている。つまり「自己他者言及的」な反応である。

津田のここでの酵素の数理モデル的研究をめぐる説明を私は残念ながら充分理解できていないが少し引用してみると、「自己言及的な文章を作ったときだけ、カオスの発生によって閾値が出てくるわけです。……単純にキナーゼがホスフォターゼを抑制しました、という文章の真理値ダイナミクスをやっても、閾値は何も出てこない。……それを一回自己言及的に書くと、関数写像になり閾値が生まれる」

津田のここでの発言をもうすこしだけ引用しておきたい。この話題は次の章へとつながっていく。

「酵素の構造変換も実はカオス遍歴的です」、「酵素は自身の内部構造のなかにエネルギーをためこんでいます。……おそらくカオス的な状態変化をおこせるような複雑な内部自由度がエネルギーの貯蔵庫になっている可能性があるんです。そしてそれを小出しにして、反応がおこるたびにエネルギーををだして反応を促進する役目を発揮する」

「酵素はAという化学物質をBと言う化学物質に変換します。これはAをBに変える言語的な写像パラメーターとみなすことができるんじゃないかと思います。……酵素的な化学反応というのは言語変換のプロセスとしても、言語生成のプロセスともみなすことができて、酵素はそれを実際に駆動させる編集子とみはすことができるのではないでしょうか

私は酵素を含めた分子言語にかんして今後検討してみることを私自身の重要な課題としておきたいと思う。

追記
1 脳のカオス

 
私はこの章で「脳のカオス」をめぐって津田の説明がもう少し詳細になされるとよかったのにと感じた。充分とは言えないがここで私なりに津田の「心はすべて数学である」の中の記述を中心に「脳のカオス」に関してまとめてみた文章があるので引用しておきたい。


カオスは、はじめにあったほんのわずかのずれがどんどん拡大されて、将来の振る舞いが正確に予測されないという性格をもつというバタフライ効果で知られている。そのカオスの現象が脳のニューラルネット上に現れることが発見されている。しかし、その振る舞いを直接捉えることは難しい。ある点の振る舞いを時間経過を追って描いたものを軌道とすると、カオスはその軌道が束のように集まり、幾何学的な構造を為したものとして捉えられる。カオスの軌道の中で周囲の軌道をすべて自分のところに引き寄せる性質を持った集合が出現することがあり、それをアトラクターと呼ぶ。まるでブラックホールのような性格のアトラクターであるが、そのアトラクターの構造が不安定であったり一時的に揺らぐことがあると、アトラクター間の遷移が可能となる。それを津田らは「カオス的遍歴」と呼んだ。さらにカオスアトラクターの構造は、そこにカントル集合を持っていることがわかり、その中にフラクタル様に、無限に同じ構造が入れ子状に続いていることがあることも知られた。そのうえ、ドライブする方向のカオスが時系列の情報を吐き出す働きがあることが分かった。このようなアトラクターの性質は、脳の中で作動するならば、情報の加工や保持、さらに新たな情報の生成など情報の編集を行うことに最適な性質といえる。つまり思考や知覚、記憶などの重要な働きがアトラクターと関連して行われているのではないかと津田は言う。また、M・シュピッツアー(ドイツの精神医学者)は「回路網のなかの精神」で寄生的アトラクターが作られてしまうことが、幻覚やその他の統合失調症の症状が形成されるニューロンレベルの基盤となるという仮説を述べている。津田によると脳の中にカオスを始めて発見したのはウォルター・ジャクソン・フリーマンでウサギやラットの嗅球に見だし、さらにそのカオスが生まれている時のみに匂いの記憶をしていることを見出している。また津田らは、海馬にカオスを発見しエピソード記憶の生成に関与しているのではないかと興味深い説を展開している。

自著(自費出版)「こころの風景、脳の風景Ⅰーコミュニケーションと認知の精神病理」(2020年)、「精神病理学(こころの科学)と脳をめぐるメモランダム」より

 最古の脊柱動物、魚の脳について

「エディアカラ紀・カンブリア紀の生物」(群馬県立自然史博物館、監修
土屋 健著、技術評論社、2013)
  の記事より



ミクロンミンギアの復元図

現在わかっている限りで、最古の脊椎動物は、1999年に中国のカンブリア紀の岩石から見つかった「最古の魚」で、5億2000万年前のもの。ミクロンミンギアとハイコウイクティスと名付けられた。2~3㎝の大きさで、背びれをもって泳いでいたとみられている。眼や口や耳や鼻や鰓をもち視覚、聴覚、嗅覚などの知覚系を備えていたのだろう。明確な「頭部」があり、中には生殖器や消化管の痕跡が確認できるものもある。ハイコウイクティスは100個体以上が群れを組んで生活していたとみられている。現在も生き残っているヤツメウナギのように「あご」のない「無顎類」で、ある程度の硬さのある獲物は捕らえられなかったとみられている。

さらに幸田正典著「魚にも自分がわかるー動物認知研究の最先端」(ちくま新書、2021)によると、近年の研究では大脳・間脳・中脳・小脳・橋・延髄という6つの脳の構造は、魚からヒトに至るまで脊椎動物の中で共通していることが分かった。またデボン紀(約4億年前)の化石として見つかった魚(ユーステノプテロン)の脳もヒトと共通していることがわかり、12本の脳神経はヒトと同じ順番に並んでいることが分かったという。

われわれは脳神経系の進化に関して考えを改める必要がありそうだ。私は別な機会に「脳の進化」のことにまた触れることができたらと考えている。


2 言語の秘密/科学の謎(第6章)

この章で松岡は言語をどう取り扱ったらよいかを話題として取り上げることを提案する。

松岡はまず次のように述べる。「大きな意味での人間と言う存在は、脳と言語と火と道具を持ってからというもの、さまざまな推理、分析、構想、表現と言うものを試みてきて、その挙句、……ひょっとすると大きな変更を受けたかもしれないという歴史を歩んできましたね。そしてふと気づいたら電子ネットワークがはりめぐらされる日々の中にいた。……自分たちが作った機械や数値にすっかり取り込まれ、グローバル資本主義にぐるりと包まれ、あらゆる情報がウェブ状にわれわれの気持ちにはいりこむようになっているようだけれど、はたしてそれでいいのだろうか。そこにどんな問題があるのかあまりわかっていない状態になっています」

さらに「それでどうなりつつあるかというと、最もナイーブでフラジャイル(弱さ)な「心」というもの、社会の動向に埋没しつつある「文化」というもの、その正体がかなり見えにくくなったようです。……コンピュータ世代は、デカルトが心身を分離して心身二元論を説いたのがそもそも過誤だったのではないかというふうに思い始めたようです。グレゴリー・ベイトソンの判断などがフラッグになってますね。そこに、1930年代にアラン・チューリングによって提唱された計算理論に基づいて第二次大戦の最中に考案されたノイマン型・コンピュータ(汎用デジタル計算機)とサイバネティクスの適応を背景に、あらためて心のしくみを特徴づけようという認知科学がかぶさってきた。そしてコンピュータなどで心を「取り出す」ことをめざしたわけです。
心や精神の正体に迫ろうとする別の試みには、……脳科学の登場があった。……(しかし脳科学が)ラットやサルを使ってその正体に迫ろうとすることへの隔靴掻痒な気持ちが芽生えてきた。それならばむしろ、コンピュータの中にプログラムを作って「心らしきもの」「脳らしきもの」をモデル化していじっていけばいいのではないか、そうやって心のモデルを「作ってみる」ことで意識の正体に迫れるのではないか、というアプローチが派生してきたわけです。津田さんは、その渦中にいながらもかなり大胆に抵抗をして、「組み直し」を提案しようとしているわけです」

さらに松岡は欧米やアジアその他の地域のディシプリンの発展の流れを見事に解説したうえで、これら多彩なディシプリンの共通する切り口があるとすると、ひとつは「言語」をめぐるものですと「言語」の位置づけを示し、二人で言語の扱いを議論する意義を明確化する。そのうえで、「消滅していく言語」とメインの言語との攻防が繰り広げながらも現在地球上に残っている言語が三千以上あること、けれども何故言語がこんなにたくさんあるのかは相変わらず謎のままであること、言語の起源をめぐってはルソーやフンボルトなどの名をあげ、大きくはチョムスキーの生得説とピアジュの獲得説に分かれることなどを述べる。また彼自身が若いころから影響を受けてきた言語観として、空海の「声字実想義」をあげて説明。そのほかの影響を受けた論者として、ライプニッツとフレーザと三浦梅園と本居宣長と白川静の名前をあげている。

松岡はこれから話しあってみたいと思うのは、いろいろな言語観をどのように科学的な世界観や世界モデルとの照応関係のなかで持ち出せばいいかということです。
このへんで津田さんの見方を伺いたいのですが、世界観と言語観を結ぶ見方は、たとえばタンパク質とアミノ酸の関係、タンパク質と核酸の関係、ネットワークとシナプスと神経伝達物質の関係、あるいは遺伝子と進化の関係などに、けっこう交差できると考えますか。そのためには言語の鍵をもっと解くべきなのか、それともそういうものを科学が取り込んでしまうのがいいのかどうか、そのへんのことを含めてお聞きしたい。

そうした松岡の問いかけに津田は、ひとまず私の問題意識を示すためにタンパク質の話をしてみたいと受ける。

タンパク質はおよそ百個以上のアミノ酸がペプチド結合によってつながれています。細胞内で一定の秩序構造に正確に折りたたまれることで、アミノ酸配列の機能を付与するのですが、百個のアミノ酸残基のタンパク質にはおよそ3の200乗通りの立体構造が可能であり、そうするとタンパク質が網羅的に安定状態を探すことは現実的に不可能(試行錯誤の時間がたりない)であるというパラドックス(レヴィンタールのパラドックス)があります。

実際にタンパク質の三次構造の折りたたみに失敗して、アルツハイマー病で蓄積すると言われるアミロイドβとか狂牛病のプリオンというものになることがある。ただ、小さいタンパク質ならそうした変性を可逆的に再生させることが生体内でできていることが分かってきた。

それを可能にさせるのは、「シャペロン」というタンパク質で、シャペロンはタンパクの疎水性の部分に蓋をする性質がある。先にシャペロンが疎水性の部分にくっついてしまうと、タンパク質がおかしな変性をするのを予防するし、またいったん変性したものを再生することも可能である。

津田はそう説明したうえで、この過程は、文章をある場所で書きまちがえて意味がまったく通らなくなってもいったんそこを削って、周りの意味から文脈がわかり、それで文章の一部を書き換えることができる過程に似ていますと述べる。

松岡は津田の説明を聞いて、なるほど、シャペロンって正しい相手があらわれるまでは、新生ポリペプチドの疎水性部分を水分子から隠したりもしますね。「いない、いない、ばあ」をする(笑)。……少しぼくのつたないアイデアをそえると、タンパク質と同じように、言語において似たようなことを考えてみると、言葉すべてをコーディングするのでは膨大になり過ぎるので、何かの理由によって、「スパースコーディング」(まばらにコード化すること)がおこるようになったのではないかと考えます。

そのうえで松岡は幼児の言語獲得のメカニズムにふれ、物理や生物学や脳科学における知見がその過程をもうちょっとうまく説明できるように援助してくれるといいのだがということを述べていて、私もまったくそうだと感じる。幼児が言葉を獲得していく過程は何とも不思議で興奮に満ちたものだ。

津田は確かに言語においても組み合わせの数はすごく多いので、実際にその組み合わせをすべてやる(確かめる)わけではなく、確かに選択しているはずです。
タンパク質の場合は、酵素が入るとちゃんと意味が出てタイプになるが、そうでないとトークン(交換可能なもの)になるだけです。
おそらく言語にもそのような「てにおは」のようにすべてを紡いでいけるような仕組みがあって、それが言語の組み合わせの選択(セレクション)をしていくんだと思います。体内の細胞のなかで起きている生物学的な化学反応と、実際に操っている言語とのあいだには、創造性において密接な関連性があるんじゃないかと思う。そこをベースにした新たな言語学ができると面白いですよね。

この津田の意見は私には思いもかけかったものでとても面白い言語学への提言である。しかしこうした考えを言語学者は受け入れるだろうか。私はたとえば、チョムスキー派の言語学では言葉の組み合わせすべてを学習する必要はなく、生得的な文法によって聞いたことのない文章をヒトは容易に作り出せると主張しているので、この津田の認識に近いものがあると思うのだが。

ここからは、少し駆け足で、話題となっている項目を取り上げて。私なりに気になったことや面白いと感じたことの一部を書き留めていきたいと思う。

*思考するリバース・エンギニアリング
 松岡は「あっちも、こっちも」というリバース・モードが人間に効果的なのは、言葉がもともと文字言語ではなく、オラル・コミュニケーションからスタートとしていて、こちら(話し手)とあちら(聞き手)を行ったり来たりする「言葉の細胞膜」のようなものが組み合わさっているからだと述べている。
*因果はどこから生まれるのか
 
ここでは、津田が因果関係について述べていることが興味深い。物理現象にもともと因果関係があるわけではない、人間が理解するために因果性を作ることによって脳の状態と事象とを関係させてことができるのだ。だからクリックやコッホが言うようなNCC(意識と神経の相関関係)では因果関係は見えないものである。
*観測者とは何か
 
観察者とか自己について津田の意見に私は納得させられた。津田はフォン・ノイマンが観察者の存在をどんどん脳の中に求めていって「抽象的な自己」というものを考えた。しかし自己や観察者とはそういう抽象的ものではない。観察はマクロスコピック(巨視的)な人間そのものが観察している。つまり基本的にはマクロ状態全体が観察者なので、そこに根源的な自己みたいなものがあるわけではない。マクロ状態全体とは脳と身体を含めた個体全体。さらには他者の意図が反映した個体全体のことですというのが津田の意見である。
*「定常的な自己」はなぜ可能なのか
 
津田はさきに、松岡がだしたスパースコーディング(まばらにコード化すること)という概念を取り上げて興味深い考えを述べている。

スパースコーディングが重要なのは、少数自由度に還元できることです、自由度を少ない変数に落とせる。少なく落としてそこだけで話ができるのでコーディングが成立するのだという考えで、脳の状態も実際にはほとんどそうなっているのです。

少し荒っぽいことをいえば「自己の定常性」は一週間は持つでしょう。タンパク質のターンオーバーはだいたい一週間です。一週間で「私」が変化するとしても。変化の仕方はスパースコーディングですから、少しだけ変わって全部が変わるわけではありません。

意識はスパースコーディングによってなり立っているのだと言ってもよいかもしれない。そうだとすると意識はハードプロブレムではなく、解決可能な問題だと思います。

津田の意見を受けて松岡は次のように述べる。

あるいは意識はモニターにすぎないか。おそらくそのどちらかでしょうね。ぼくは、そういうことをする自己を「エディティングセルフ(編集自己)」と呼んでいる。その自己はわずかな食いちがいや、わずかな対称性の破れや、わずかな他者の介入を許す余地を持っている。それはスパースコーディングされた「複数自己」あるいは「たくさんの私」のようなものです。そういう「複数自己」をかなり初めから想定しないと、人間は物理も生物も社会も言語もわからないんじゃないかと思う。

私はこれまで、スパースコーディングという認識をまったく持っていなかった。だから、二人の考えと別のものではあるが私は少し類似した認識のもとで、統合失調症や自閉症スペクトラム障害や解離性障害の患者さんなどとのコミュニケーションの問題や症状形成の問題を考えてきた。しかし今はこのスパースコーディング(まばらにコーディング化すること)を念頭にもう一度考えを深めてみたいと思っているところである。

*「心」と「言語」は似ている
 津田は松岡の「言語にはマントルのような核があって、奥に蕾みたいなものがあって、それがパット弾けて外に出る」という言語に関する説明を取り上げて、そうした言語の性質と心が類似していると述べる。

心に蕾の破れがあるから、言語もそのように捉えられるのではないか。「破れ目」をうまくつくって、弾いて外に放り出してあげるような機能をもてる言語であれば、いろいろな意味を生み出せる。つまり言語の創発性や生成性がそのようにして出現するというのである。

松岡は確かに言葉を駆動するのは、「心」や「意識」を管轄することになる脳の活動でしょうから、その脳と心のあいだで蕾が破れるようなことがいくつもおこっていたということになります。

松岡はこの蕾に似た「胚胎のモナド」のようなものは、ギリシャ哲学のプシュケー、ヒンドゥー哲学のプラーナ、古代インド哲学のスポータ、中国の気、日本の言霊などいろいろな呼び名で議論されてきました。と説明する。

さらに松岡は解明されるべき言語学の問題を幾つもあげながら、問題は山積しているのですが、二十一世紀の言語文化のための座標はぐちゃぐちゃなままだということですと言う。

* 声と文字の関係
ここでは、松岡が言語に関して何を考えてきたかを5つに分けて語っていることを取り上げておきたい。

第一には、「声」とは何かということ。声では遠くまで伝えれないので文字を作った。「耳のシグナル」を「目のサイン」にして、これを連動した。でも、文字文化には「耳のシグナル」が根底にあるので、言葉の問題は必ず「声」の問題に帰着する。
 津田は声と文字の関係が気になりますと言う。音声はアナログで、文字はデジタルです。デジタルのほうが圧倒的に記述能力が高い。だけど一方で音声の対応なくしては文字は単なる記号です。「読み」がなければ意味を持たせれなかった。だから音声がある種の触媒的な作用をしていたと津田は述べる。
第二には、「トークン」がどんな役割をはたしたか。言葉がトークンだとするとそれは何の「代わり」をしているのか。何かの代わりをして言葉がこれだけ普及したのだろうか。
第三は言葉ならではの「記録」と「記憶」と「表現」としてどんなものがあるかということ。
第四「意味」とは何かということ。意味は言語文化の歴史が持ちだした最大の価値観の系譜事例である。しかし、現代社会では言葉を離れて意味が交わされている。とくにイメージと意味の関連が重要である。
第五「情報」の問題。物理と数理と生理で説明されている情報的動向を、できるだけ言葉にしておこうということ。

* ノイズや「破れ目」が意味を生成する
 津田によると、学術的な「意味」はかなり強固にできているので、ノイズのようなものなしには研究の世界の多くが閉じたものになってしまう。閉じると「破れ目」がなく、強引にでもノイズを入れて意味をスリップさせる必要がある。ノイズの役割は意外に大きい。

津田はさらにカオスに惹かれる理由を次のように述べている。

カオスにはすべてが入っている、ノイズ的な無秩序の数学的表現が入っている。また秩序の数学的表現も入っている。その両方が共存しているのが数学的に「カオス」と呼ばれるのです。カオスは現象としてあらわれたときには予想不能だったりする一方、ものすごく秩序化されていて、しかもこの世のものとは思えないぐらいきれいな構造を見せます。……でもその美しさは、残念ながらなかなか伝わらない。と津田は嘆く。       つづく
 
今回で本書の217頁まで読み終えた。本文は385頁なので半分と少し読み終えたことになる。次回は一回この「つづき」は休ませていただき、本書の内容と関連があると考える著書を何冊かとりあげて書かせていただきたいと思っている。
 
今のところ、現代思想の特集「ウィーナーとサイバネティックの未来」や、脳からコンピュータに意識を移すという研究にふれた渡辺正峰著「意識の脳科学」や、井筒俊彦著「言語と呪術」や、チョムスキーの生成文法、スペルベルとウィルソンの関連性理論にふれて認知言語論を厳しく批判する、今井邦彦著「言語学はいかにして自然科学たりうるか」などをとりあげてみたいと考えている。


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