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『嘔吐の花』第一話

「ヒロ」という友達がいる。長いこと会っていないが、何年会わなくても、友達であることに変わりはない。


 彼と初めて会ったとき、私は二十六とか七で、彼は四十をいくらか過ぎていた。立ち飲み屋で、彼の方から、
「君、ミック・ジャガーに似ているね」と声を掛けてきた。お互いに一人だった。

 私がミック・ジャガーは何たるかを知っていたので、会話はそれなりに弾んだ。
「俺のことはヒロと呼んでくれ」そう言われたので、私は初対面から年上の彼を、「ヒロ」と呼び捨てにし、ヒロは私を、「ミック」と呼んだ。それが最初の夜だった。

 私は週に五日、街中の映画館で映写のバイトをしていて、仕事終わりには、ほぼ必ず繁華街をうろついた。初めて会話した日以来、何曜日だろうと、「ほぼ」ではなく、「必ず」どこかの安い酒場でヒロを見かけるようになった。「ヒロ」と「ミック」として、お互いのことを認識するようになる前から、きっと何度もすれ違っていたに違いない。

 彼は週に七日酒を飲んでいた。それは、女を引っかけようとか、寂しさを紛らわせようなんて思いで出来る芸当ではない。起きて顔を洗う。仕事に行く。飯を食う。クソをする。そういう行為と同レベルで、生活の中に酒を飲むことを組み入れていなければ出来ないことだった。

 ヒロは顔を合わすと必ず酒を奢ってくれた。仕事は、「ガン細胞を消滅させる」という体にいい水のセールスマンをしていて、稼ぎはあまりよくなさそうだったが、私が少しでも遠慮する素振りを見せると、いつも、
「俺は九州の男ばい。九州では先輩が奢るって決まっとると。俺も昔は散々先輩に奢って貰ってきたとよ」と、急に故郷の博多弁に戻り、最後は、
「だからミックも、俺に奢られた分は、いつか後輩に返せ」と言った。

 胡散臭い仕事をしていて、毎日飲み歩いている男だったが、それでも家庭を持っていた。
「昔はワールドトレードセンターで働いていて、嫁とはニューヨークで知り合った」と言っていた。真偽はともかく、確かにアメリカナイズされた男で、知り合って間もない段階で、私のことをホームパーティーに招待してくれた。常識の欠けていた私は、いつも通りのヒッピーみたいな姿で、髭も剃らずに会ったこともない、「ヒロの嫁さんの母親」の誕生日会に、シャンパンを手土産に参加した。

 酔いどれのくせに、ヒロはタワーマンションに住んでいて、嫁は頭がよく気が強そうな人だった。彼女はヒロのことを、「ヒロ君」と子供を相手にするように呼んだ。十五歳の娘は、男の子と見間違えそうな短髪で、人見知りせず、最初からタメ口で私に話しかけた。

 クセの強い家族の中で、「ヒロの嫁さんの母親」だけは、どこにでも居そうな、人の良いお婆ちゃんに見えた。


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