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『君の膵臓をたべたい』(実写映画版)感想と人格を尊重することについて


 今年の8月にたまたま人と創作物の話題になり、色々と人からお勧めしていただいたのですが、私が自信をもって人に勧められる作品は何かないかなと思っていたところ、ふと『君の膵臓をたべたい』(実写映画版)の存在を思い出しました。「久しぶりに観てみようかな」と思ったところNetFlixやAmazon primeにもなく、しょんぼりしていましたが、少し調べた結果、1カ月無料体験が可能であるU-NEXTで視聴可能であることを知り、さっそく登録して視聴したところ、やはりいい作品でした。本作は世間的にも有名な作品であることは間違いないのですが、意外と私の周りで視聴している人間も少なく、改めて視聴してみて色々と思うところがあったので、今回は『君の膵臓をたべたい』の感想と、そこから考えたことを文章にしてみました。私の雑文から本作の素晴らしさが少しでも伝われば幸いです。

※私がのんびりnote記事を書いているうちにAmazon primeでも視聴可能になりました!興味のある方は是非観てください


 出鼻を挫くようで恐縮ですが、私は本作の『君の膵臓をたべたい』の原作については未読の人間です。本作の原作ファンには大変申し訳ないのですが、何しろ私と本作の出会いが実写映画であり(人から勧められた)、実写映画が余りに素晴らしかったので原作を読む気にはなれなかった、というのが正直なところです。原作ファンからは「原作を読め!」と怒られそうですが、私のこのような態度は本作に限ったことではなく、メディアミックス作品について、あえてすべて消費したいとは思わないタイプの人間(特に最初に観た作品が優れている場合)であることを事前に断っておきます。またネットで実写映画版の評判を少し見てみると、原作と実写映画ではストーリーも異なる部分があることがわかり、その原作と異なる部分(実写では12年後の僕が描かれている)こそが映画版の僕/志賀春樹(これより僕と表記します)の人間としての成長を描いていると、私にとっては多分に感じられたからです。また、これだけでわかる人にはわかってしまうかもしれませんが、私自身は僕に強烈に感情移入してしまったタイプの人間であり、そうした立場からの感想であることにも予め断っておきます(というのも、ネットでの反応の多くがヒロインである山内桜良についてのものが多かったからです)。

 というわけで前置きはこの程度にして、あらすじから確認していきます。

母校に勤める高校教師の僕は、ある時、取り壊しが決まった図書館の蔵書の整理を頼まれる。高校時代、図書委員として書庫の整理ばかりをしていた僕は、懐かしい図書館で書庫の整理の邪魔ばかりしていたクラスメイト、桜良のことを思い出す。

桜良は12年前、僕が盲腸で入院していた時に、偶然拾った日記の持ち主だった。その日記「共病文庫」を読んだ僕は、彼女が膵臓の病気で余命僅かであることを知ってしまう。その日から、クラスの人気者の桜良が僕に急接近したことで桜良の親友の恭子が、桜良の「一番の仲良し」の座を奪った僕に反発する。学級委員長である隆弘やガム君ら、今まで話したことのなかったクラスメイトと会話をするようになり、僕の世界が広がり始める。

そんな中、僕は彼女の「死ぬまでにやりたいこと」に付き合うことになる。一緒にスイーツを食べに行ったり、福岡に旅行に行ったりして、人と関わりを持つことが苦手だった僕は、彼女と一緒に過ごすうちに、彼女に心を開き始める。同時に、他者と関わらなければ知ることのなかった喜びや、人を傷つけることの痛みを知っていく。

一方、現代の恭子は結婚を目前に控え、桜良のことを思い出していた。桜良が大切なあまり、恭子は僕を傷つけていた。僕はそんな恭子から結婚式の招待状を受け取る。

『君の膵臓をたべたい』wikipediaより引用


 あらすじを改めて読んでみて思うことは、やはりこの作品(少なくとも映画版)の主題は主人公である僕 / 志賀春樹(これより僕と表記する)の成長物語であるということでしょう。それは本作が12年後の僕視点から始まり、物語のラストもまた12年後の僕で終わることから考えても明らかではないでしょうか。恐らく、世間的にはヒロインである山内桜良役の浜辺美波さん(これより桜良と表記する)の可愛らしさ、そして彼女のその生きざまと逞しさこそが本作が大ヒットした大きな要因なのでしょう(浜辺美波さんの絶妙に舌足らずな演技もいい味をだしている)。ただ、私個人の感想としては、本作はそうした彼女の姿以上に、内向的な性格の主人公、僕のリアルな描写、そして彼の世界が広がり始めるその描写の美しさ、とその残酷さに惹かれました。こうした僕の存在があることによって、彼女の存在がより一層際立っているとも感じます。というわけで、私が感じた本作の素晴らしい点(中身)、とそこから考えたことついてに語っていきます。


1.僕のリアルな描写


 まず、本作は12年後の僕から始まるのですが、この僕のなんともさえない演技(小栗旬)と、僕が何か大きな問題を抱えているであろうことを感じさせる演出(例えば冒頭の退職届をみせるシーンなど)が大変素晴らしいです。この冒頭の小栗旬さんの演技で、映画難民である私が本作に引きつけられた部分が多分にあります。私が普段ほとんど映画を観ないことも影響しているのでしょうが、物語が終わるまで小栗旬さんが12年後の僕を演じていると気づかなかったほど、さえない男性の演技がとても自然でした。彼の力がなければ、私にとって本作はnoteで感想を書くことはなかったでしょう。それくらい本作の12年後の僕に適役だったように感じます。もっと言ってしまえば、この優れた導入がなければ、映画難民の私は途中で視聴を断念していたかもしれません。というのも、序盤の桜良が一方的に僕に絡んでいくシーンと僕の圧倒的な陰キャムーブなどを観るのは、学生時代、クラス内で話す人間が誰もいなかった時期を経験しているようなボッチ人間にとってはなかなか厳しいものがあるからです(普通の学生時代を送っている人間ならば、さほど違和感なく観られるのかもしれません)。
 実際、本編でも、桜良が牛のシビレ(膵臓)を食べに僕を誘った際に、僕は「それ、秘密を知った僕への当てつけ?」と言い、膵臓に関する病気についてのやり取りにおいて桜良が冗談を言った際には、すかさず「それ、僕が困ると思わないわけ。」と言ってしまい、さらには「僕なんかといるより、大切な友達と残り少ない時間を過ごす方が価値があると思うけど」と言ってしまうなど(例を挙げればきりがない)、他人を自分を攻撃する存在としか思っていないかのような振る舞いとやりとりから、Twitterにいる一部界隈の人達から「そういうとこだぞ(だからモテないんだぞ)!」と言われそうなセリフの連発です。こうした僕の姿から、こんな映画は観ていられないという感想もネットには散見されました。そうした感想がでるのも、納得する部分があります。
 ちなみに、このTwitterでよく見られるような「そういうとこだぞ!」についてですが、個人的には全く好きな表現ではなく、僕のような振る舞いになってしまうのも一定程度は理解はできます。過去の私を振り返ると、恐らく彼と似たような振る舞いをしていたことでしょう。これは、他者と付き合うことを避けている人間(この時点での僕はまさにそうした人間である)で真面目なコミュニケーション(必要最低限のコミュニケーションと言ってもいい)しかしたことがない/できない人間であれば、誠実に対応しているからこそ、重病を患っている相手に冗談のひとつも言えないことは、ある意味で当然であり、そうした人の真面目さを単に皮肉るような言説については、端的に邪悪であると思うと同時に、これこそがかつてSNSでよく言われた冷笑系というものなのでは(?)、と個人的には思ってしまいます。

 少し話がそれてしまいましたが、作中の後半において、桜良が僕に好意を持った理由が一応は語られますが、これは正直いまいち説得力に欠けるものであり(もちろん、誰かを好きになることに特定の理由が必要ないことは理解していますが、それにしてもクラスで常に一人でいる人間に対して、実は初めからクラス一の人気者が好意(≒関心)を持っていた、というのは普通はあり得ないとでしょう)、これには思わずかつて流行ったギャルゲーのノリを思い出し「観てられないな」と感じる部分も、正直ありました。ただ私のこのような違和感はひょっとすると、他者と真剣に向き合ってこなかった人生の結果によるものであり、「これは映画のリアリティーが・・・」という話ではなく、単純に私が共感性周知によってこうした青春物を観るのがきつくなってきただけなのかもしれません。私の知らない陽キャの世界は、こうした優しい出会いに溢れた世界なのかもしれません。そうであることを願うばかりです。

 思わず本作の欠点も書いてしまいましたが、私にとって本作の残念な点はこのくらいのものです(そして、これはある意味では長所と不可分なものでもあります)。僕という人物のキャラクターに話を戻すと、小栗旬さんだけではなく北村匠海さんが演じる高校生の僕もとても素晴らしい。既に読者の皆さんにはお判りいただいているとは思いますが、主人公の僕は完全な陰キャ側の人間なのですが、彼の演じる僕はとても自然な陰キャであり(ビジネス陰キャではない)、私などは思わず彼の姿に学生時代の自らの姿を重ねてしまった部分があります。特に、高校時代友人もおらず、(どのクラスにも一人はいるであろう)休み時間に独りで過ごしていたタイプの人間であるならば、彼の演技がいかにリアルな陰キャ(自然)であるかはその身をもって体感できるはずです。これについてもう少し付け加えると、上で述べたように、冒頭の僕の桜良に対する態度などをみていると「友達などできるはずもない」ようなコミュ障ムーブなのですが、その僕自身のアイデンティティの正当化の理由もまた、いかにも10代にありがちなソレです。彼の性格について作中でも自ら語っておりますが、簡単に言ってしまえば、自分が学校の価値観(勉強、恋愛、運動、友情)になじめることができない人間で、そうした自分が関わることによって周りの人間にとってもいい影響を与えない(また、他人と関わっても自分も楽しくない)ことを理解し、そうであるならば、自分の世界(=A.T.フィールドの中)に籠って生きていく方がマシだ、というものです。こうした僕の価値観について作中でも桜良から「何その自己完結」と言われています。
 このように僕という存在は、言ってしまえばクラスに一人はいるであろう内向的な人間だとは思いますが、本作の僕を客観的に観て、世界(他者)との関係の中で手ごたえが持てないことが、小説を読みふけったり、哲学や思想の本を読み漁ったりするなど内面の探求の方向に進むのだろうな、と考えてしまいした。世界と自分の存在の関係におけるズレ(違和感と言ってもいいかもしれない)がなければわざわざこうしたことを考えこむ必要はないでしょう。



~ここからはネタバレを含みます~



2.決定論と自由意志の狭間で


 一応ネタバレ告知をしたので、ここからはネタバレ込みの感想を述べていきます。主人公の僕はヒロインの桜良の秘密を知り、交友を深めていく中で徐々に心を開いていくようになり、物語の中盤で次のようなやり取りが二人の中で行われます。長いですが本作の大事なメッセージだと思いますので引用します。(直前のかませ優等生のようなキャラとのやり取りは、あまりにシュールで思わず笑ってしまったのは私だけではないでしょう笑)。


桜良 「違う、偶然じゃない。私たちはみんな自分で選んでここにきたんだ。(中略)君と私が同じクラスだったのも、あの日病院にいたのも偶然じゃない、運命なんかでもない。君がしてきた選択と、私がしてきた選択が私たちを会わせたの。私たちは自分の意志で出会ったんだよ。」

実写映画『君の膵臓をたべたい』山内桜良のセリフより引用 太字は引用者


 「自分で選んでここにきた」ということを文字通り解釈すれば、膵臓の難病にかかったことも、桜良の意志で自ら選んだこと、と言えることができるでしょう。このセリフだけ見れば、徹底した自由意志の持ち主であるかのように見えます。
 しかし、実際に作中の桜良の他の言葉をみてみると、そう単純な立場でもありません。それは作中で行われた「真実か挑戦」ゲームからも読み取れます。


①(僕に対して)「聞きたいことがあるならストレートに聞きなよ」

②(聞きたいことがあるなら直接聞けばいい、という僕に対して)
 「みんな本当は臆病だから、こういう運にゆだねるの」

実写映画『君の膵臓をたべたい』山内桜良のセリフより引用


 ①では典型的な自由意志論者らしいセリフを言いながらも、②ではそれを完全に否定するようなセリフとなっています。こういった態度について「人は自らの都合のいい時には決定論者になり、都合の悪い時には自由意志論者になるものだ(都合がいい時は運命を信じて、都合が悪いと自由を持ち出す)」という反応が飛んできそうですが、作中の桜良の振る舞いを見れば、そのような風見鶏的な態度ではないことは一目瞭然でしょう。彼女は自らが膵臓の病気で死ぬことについては(完全に、とは言えないかもしれないが)ほとんど受け入れています。そのように彼女が自分の死を受け入れることができていたのは、上のセリフにもあるように、彼女が「自らの意志で今ここに自分がいるんだ」という確かな想い(確信)を持っていたからでしょう。このような彼女の態度や彼女の結末を見て、思わず私はギリシア古典悲劇の名作である『オイディプス王』のオイディプスにその姿を重ねてしまいました。既にご存知の方も多いとは思いますが、このオイディプスの話は、桜良という人間を理解する上でも大きなヒントになると思いますので、そのあらすじを簡単に確認しておきます。少し長くなりますが、大事なところなのでご容赦ください。

 ギリシア都市国家テバイのライオス王はある神託を受ける。それは、自らが息子を殺され、その息子(後のオイディプス )と自らの妻が交わって子をなすというものだった。ライオス王はこの運命を知り、従者に息子を殺す命令をするが、従者が殺すことを忍んで山に捨て、直接殺すことはしなかった。
 その息子は隣国のコリントス夫妻に拾われ、オイディプスと名付けられた。このオイディプスもまた、自らが父を殺し、母との子を成す、という神託を受ける。オイディプスはこれをコリントス夫妻のことだと勘違いし、自らコリント夫妻の基を去る。その後、怪物スフィンクスの対処法について神託を受けに神殿へと出向いていたライオス王と、オイディプスがたまたま道中の三叉路で出会う。この時、オイディプスに対して横柄な態度をとったライオス王とオイディプスの間でいざこざが起き、それがエスカレートした結果、オイディプスはライオスの存在を知ることなく(当然、実の父とも認識していない)殺してしまう。
 その後、オイディプスが怪物スフィンクスを倒し、その功績から(ライオスが亡くなり混乱した状態にあった)テバイの王位に就くこととなった。そして、ライオスの妻であったイオカステとオイディプスが結婚したが、国は不作や疫病に苦しむことになる。テバイ王となったオイディプスは、不作や疫病の理由につて「不作や疫病は先王ライオス(オイディプスの父)が殺されたためであり、その殺害者をとらえて、追放すれば治まる」と神託を受ける。
 この神託を受け、オイディプスはライオス殺害者を探し出す中で、盲目の予言者テイシアスより三叉路でライオスを殺したのはオイディプスだと告げられる。当初はこの神託を信じることができなかったオイディプス。しかし、後にライオス殺害時に同伴していた従者がオイディプスのもとに連れてこられ(きしくもこの従者は、かつてライオスにオイディプスを殺すことを命じられた従者であった)、オイディプスより真実を話すことを命じられる。しぶしぶ従者がその真相を話したあと、オイディプスは驚愕し、イオカステのもとへ向かう。
 しかし、オイディプスよりも先に真実を悟っていたイオカステは、自室で既に自殺していた。それを見たオイディプスは、イオカステのつけていたブローチで両目を刺し、自ら盲目となる。そして、神託の通りに、自らを追放するようにライオスの摂政クレオンに依頼し、宮殿を去る。

『不道徳的倫理学講義において―人生にとって運とは何か』参照


 このオイディプスの物語について、古田徹也さんは、デオグニスを引用し、「よきことをなそうと思って悪しきことをなすことがある」という不運の典型例(『不道徳的倫理学講義において―人生にとって運とは何か』)としています。具体的には、オイディプスの運命を避けようとした行為について、運命が定めていた「父を殺し、母と交わり子をなす」以上の苦難(=自ら盲目になった)を自ら招いた部分がそこにあたるでしょう。
このようにオイディプスの物語は実際、悲劇の典型例であると思いますし、実際そのように世界中で消費されているでしょう。しかし古田さんによれば、オイディプスが盲目になった場面について、彼が辿ってきた具体的な運命のルートそれ自体(特に、自ら目を潰すという行為)は彼の意志によって生まれたもの、と見ることもできると指摘します。


「 目が見えたとて何になったろう、 見てたのしいものは何ひとつないのに」と彼(オイディプス)自身が語るように、この世界に対する幻滅 ─ ─ もう何も見たくない という 絶望 ─ ─ としても捉えられる。 いずれにせよ、この行為が一方では暗い愚行であることは間違いない。 しかし、他方では、この行為はどこかしら不思議な晴れやかさも纏っている。私の人生はこれまで神アポロンの意のままに進んだものに過ぎなかったが、これだけは違う。 我が目を潰すというこの行為だけは 私の意志でしたのだ。そうした意地、 あるいはなけなしの気概のようなものが、「 目をえぐったのは、誰でもない、不幸なこの私の手だ」という彼の言葉にはあらわれている。

古田徹也『不道徳的倫理学講義──人生にとって運とは何か』 pp.71-72 太字は引用者



 運命に翻弄されながら、その中で自らの意志を、生きざまを残そうと足掻いたオイディプスのこの姿は、「愚かである」と一言で片づけられるものではないでしょう。彼の行為が愚かであるだけならば、2500年以上たった現代において世界中で読み継がれる物語足りえなかったはずです。こうしたオイディプスの姿について、古田さんは続けて次のようにも述べています。


もがきながら対処し続けようとするオイディプスの姿に、我々はまさに人間らしさ、人間臭さを見て取るだろう。言い換えれば、傲慢で、ナイーブで、強靱で、脆いその姿に、人間ならではの愚かさと同時に、ある種の偉大さを見出すだろう。それは、ときに運命をも司る神のもつ偉大さではない。

古田徹也『不道徳的倫理学講義──人生にとって運とは何か』 pp.73 太字は引用者



 ここで、本作の桜良について話を戻しましょう。彼女はオイディプスと違い自らの運命には抗ってはいなかった、このことは既に述べた通りです。その意味において、オイディプスと全く同じような態度であったわけではないでしょう。しかし、彼女はオイディプス同様、自らがこの人生を選んできた(その運命に諦め、絶望しているわけではない)、という確かな自負を持っている。そして、それは単なる彼女の強がりではありません。これは作中の多くのシーンから読み取ることができるでしょうが、ひとつ例を挙げるとすれば、親友である響子に対してさえ自らの病気について隠していること(恭子は感傷的なので病気のことは言わず、残りの人生を楽しく過ごしたいという趣旨の桜良の発言)が象徴的ではないでしょうか。彼女は親友・家族(※1)という存在に対してさえ、短命の少女であるという同情のまなざしを向けられることを嫌い(これに関して、賛否両論があるでしょうが)、だからこそ生前においては最後まで病気を隠し通し、いつも通りの日常を過ごすことを選んだのです。このような生き方は運命に決められたこと(膵臓の病気で亡くなること)ではなく、彼女自身の手で選択したものです。ここに、オイディプスの運命に抗う姿と同じものがあります。また彼女は逞しさだけではなく、好意を向けている僕に対しては運に委ねる姿をみせるなど(上述)、そのナイーブな部分についてもオイディプスと重なるものがあり、彼女の人間臭い部分が窺い知れるところです。それが古田さんも指摘する、愚かであると同時に、人間であることの偉大さなのではないでしょうか。
 このように決定論に飲まれるわけでもなく、自己責任論で全てを済ますわけでもないオイディプスや本作の桜良のような姿、私の言葉で換言すれば、決定論に呑まれかねない過酷な状況においてさえ、その中で自由意志を貫こうとする態度(これを決定論と自由意志の狭間とでも呼びましょう)、これこそが私たちの心を動かすのでしょう。そして、彼らのこうした細部の営みすべて(その生きた過程そのもの)が、単に物語の存在であるはずの彼らに人格を与え、私たちにリアリティをもっているように感じさせるのでしょう。

※1 桜良が恭子に対して感傷的であると述べたすぐ後の場面において「お父さんもお母さんも日常を取り繕うことに必死になっている」というセリフからも読み取ることができます




3.人格を尊重すること


 こうした背景を踏まえた上で、例の桜良が通り魔に刺されてなくなるシーンと、それに関する僕の反応について振り返ってみましょう。

『甘えていたんだ。残り僅かな寿命を全うできるものだと思い込んでいたんだ。バカだった。明日どうなるかなんて、誰にもわからない。だから、今この一日をこの瞬間を大切にしなきゃいけないって、そう彼女に教わったのに。』

実写映画『君の膵臓をたべたい』より引用


 私にこの映画を勧めてくださった人は、このシーンがとても印象に残ったと語っており(「なんて厳しい世界なんだ」と言っておりました)、小栗旬さんの見事な演技の素晴らしさから、この僕のセリフをそのまま真に受け取ってしまいたくなります。しかし、この彼のセリフを文字通り解釈すべきではないでしょう。それはなぜでしょうか。理由は至ってシンプルです。彼の後半の「この一日をこの瞬間を大切にしなきゃいけない」の部分が、作中の彼の言動と一致していないからです。
 物語の冒頭において、僕は桜良からも「自己完結」と言われるような人間であり、人と極力かかわることのない生活をしていたのは既に述べた通りです。そのような僕が桜良と関わる中で、徐々にその閉ざされた心を開いていきます。その結果、当初は桜良から一方的に関わっていただけの関係だったのが、自らも主体的に彼女と関わるようになります(例:桜良の異変に気づき、深夜の病院にこっそり足を運ぶ。ガム君と呼ばれるクラスメイトに対して当初のそっけない態度から変化を示す)。また、物語後半においては何よりも桜良との時間を大切にしていたのは、すでに説明した通りです。したがって、「甘えていたんだ」というこのセリフは、桜良の死がトラウマであり、それを自分の中で消化できていない僕(12年たっても!)が、偶然の出来事を自らに納得させるために強引に正当化させようとした発言、とみるべきでしょう。
 冷静に振り返れば、自己完結型の人間が1年弱で下のようなメール(ポエム)を書くほどの変化をしているだけで、驚くほどの成長と見るべきことでしょう。ここからも、桜良が死ぬ直前の僕が、彼にできる範囲でいかに懸命に生きていたのか(変わろうとしていたのか)、その決意がよくわかる場面です。ちなみに、こうしたポエムは現代では馬鹿にされがちですが、僕の立場になって考えると、味わい深いものがあります。


君は強い
勇敢だ
生きることを愛し
世界を愛し
人を愛し
自分を愛している。
君は本当にすごい。
白状すると、僕は君になりたい。
人を認められる人間に
人に認められる人間
人を愛せる人間に
人に愛せられる人間に
誰かともっと心を通わせ、生きてるって感じられるように
僕は君になれるだろうか?
こんな言葉じゃ百並べてもいい足りない。

実写映画『君の膵臓をたべたい』より引用 太字は引用者



 改めて文字にすると、少々恥ずかしい文面ですが、この文面からもいかに真面目に桜良(≒他者)と向き合っており、彼女の人格を尊重していたかがわかるでしょう。ここには彼女の死を嘆くだけの感傷的な言葉は全く見当たりません。後程詳述しますが、こうした彼の態度こそが「人格を尊重する」という行為そのものでしょう。
 そして、この後のシーンからが本作の白眉なところです。少々長くなりますが、大事な場面なので終盤のあらすじを簡単に確認しておきましょう。


 桜良の死後、突然の死を受け止められなかった僕はお通夜に出ることもできず、1カ月程度(?)寝込むことになる。そのような息子を見かねて、母親からきちんと桜良とお別れすることを告げられ、桜良の家に向かう。

 桜の家で、共病文庫を知っている人間が自分であることを彼女の母親に伝え、桜良の母から共病文庫を渡される。その場で共病文庫を読み、僕は桜良とのやり取りを思い出し、思わず涙を流す。このシーンを通して僕が桜良の死を受け止めたような演出がなされるが、実はこの時点では桜良の死を受け止めることはできていなかった。そして、舞台は再び12年後の図書室の移動作業に戻る。

 かつての自分と同じような境遇の生徒と図書室の移動作業をする中で、ふいにその生徒から落書きされている図書カードを見せられる。僕はそれが桜良による落書きであることに瞬時に気づく(そこに落書きされていたのは、僕が桜良に借りた『星の王子様』と同様のものであった)。そこで、かつての桜良の幻影が現れ、彼女に導かれるようにその図書カードの本を探し出す。その本(その本はかつて桜良から借りた『星の王子様』であった)の中に桜良の親友、恭子宛ての手紙を発見する。

 恭子の手紙を読み、ここで僕は一瞬だけ悔やむような表情を見せ、12年間止まっていた時間が急に流れ出すかのように、慌てて結婚式直前である恭子の元に向かい、桜良からの手紙を恭子に渡す(事前に僕宛てにも恭子から結婚式の招待状は届いていたが、その返事を当日まで書けないでいた。ちなみに恭子の結婚相手がガム君であることは、この時はじめて知ることになる)。

 その手紙から、恭子は初めて桜良が膵臓の病気で余命が短かったことを知り、僕からも桜良の手紙にかかれていたように「友達になってくれませんか」と言われ、「はい」と返事をする。

 そして本の中には、春樹(僕)宛にも手紙があり、そこで真実と挑戦ゲームにおいて桜良が聞きたかったこと、彼女が春樹に対してどのような想いをいだいていたのか、彼女のモノローグで語られ、物語は結末を迎える。

実写版『君の膵臓をたべたい』終盤シーン要約


 既に少し述べたように、僕が突然の桜良の死のあと、単身で桜良の家に行き、そこで彼なりに区切りをつけたかと思えば、全くそうではありません。よく考えてみれば、これも自然なことでしょう。自己完結型の人間が、思春期に自らの価値観を根本から揺るがさせるような体験をし、そうした存在(桜良)との関係が突然の悲劇によって予想もしない形で終わりを迎えれば、僕に限らず再び心を閉ざすことになることは、誰だって想像できるでしょう。桜良も作中で何度も言ったように、人は弱いのです。
 しかしここからが大事なのですが、僕はそうした強烈な挫折とでもいうべき経験をした後にも、桜良の言うとおり、自らに向いていないと思いながらも教師の職に就き、当時の彼なりに、桜良のような人間になろうと努力していることが伺えます(自らが生徒と向き合えているのだろうか、と自問している)。ここで「桜良のことが忘れられず、死者の亡霊を追うように、彼女の言葉が呪いになってそれに従っているだけだ」という反応も予想されますが、物語の結末において僕がすべてを受け入れ、歩みを始めようとする眼差し(それは過去を憂いたものではない)、そして、向いていないと思っている教師を6年間も続けていたこと、さらには桜良の図書カードを見て走り出した姿をみれば、彼女の言葉が単に呪いとなっていただけではない、と言えるでしょう。このことから、12年間という長い期間、そして、何よりもその間も彼なりにできることを継続していたことこそが、桜良の死について受けとめる為に必要であったことが、よくわかります。「何事も時間が解決してくれる」とはよく言われますが、彼にとっても桜良の死を受け止めるために時間が必要だったのです。繰り返しになりますが、何よりも僕が自らの意志で教師を6年続けていたからこそ、桜良との思い出の場所でもある図書館での作業をすることになり、それが彼女の手紙を発見するトリガーとなって物語の結末のシーンにつながるのです。ここまで長い時間をかけて描かれた桜良と僕の回想シーン、そしてそれが12年後の僕から語られることの意味が全て繋がる『星の王子様』を探すシーンは本作の名場面のひとつでしょう。
 僕にとっての桜良の突然死というトラウマは、12年という長い時間と過去の桜良の手紙がきっかけとなって乗り越え、自らの強い意志でこの世界で他者と関わることを再度決意したわけですが、これはとても美しいシーンであると同時に、冒頭で軽く触れたように残酷なシーンでもあります。
 彼は恐らく、桜良が膵臓の病気になっていなければ、あの病院で桜良と出会うこともなく、教室で関わるようなこともなく高校時代を終えていたでしょう。それは、桜良がクラスの中心人物であり余命わずかであったのにも関わらず、元々気になっていた僕に対して自ら声をかけれなかったこと(10代の乙女心?)からも推測できます。そして、彼の自己完結型の性格はその後も変わることはなかったはずです。桜良と出会うことがなくても、彼は大学に進学していたでしょうが、大学という場所は自主性が重視される世界で、高校までの世界のようにおせっかいな誰かが強引に声をかける場所ではありません。創作物にIfの話をしても仕方ないかもしれませんが、大学になって僕が桜良のような人物に出会うことも、交流を深めることもまずないでしょう。社会人であればなおさらのことです。したがって通り魔による殺人がなかったとしても、何にせよ膵臓の病気で亡くなる運命である桜良でなければ、そして、僕がたまたま盲腸になって同じ病院で入院していなければ、まさに「あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら」桜良は僕とこのような関係となることはなかったでしょう。こうして振り返ると、意地悪な言い方をすれば、短命であることが確定している彼女という存在によって、僕という人間の世界が広がったわけです。そして、桜良にとっては、彼女が膵臓による短命の病気であるからこそ、僕と深い関係になることができた。その意味において、桜良という存在は、とても残酷なものだったかもしれません。
 しかし、私たち(視聴者)は彼女をそうしたかわいそうな存在として認識するべきなのでしょうか。私はそうは思いません(もちろん、そうしたかわいそうな存在として桜良をみることもできるでしょう)。そして、それがこの映画のメッセージであるとも思いません。
 ではなぜ、彼女をかわいそうな存在として認識すべきではないのでしょうか。それは、そうしたまなざしで彼女を評価することが、桜良自身が恭子から同情の眼差しを向けられることを避けたことと同じ行為であり、そうした眼差しから一番遠い存在である僕と最期の退院期間を過ごすことを選んだ彼女の意志を完全に無視しているからです。言い換えれば、かわいそうな/同情すべき存在として桜良を認識することは、(他人を含む)世界を愛した彼女が、実際そのように生き抜いたという彼女の人格を毀損する行為だからです。
僕が桜良の人格を誰(彼女の両親を含む)よりも尊重していたのは次のセリフからもわかります。

君はただ一人、私に普通の毎日を与えてくれる人だから。

でも、君だけは違う
※毎日を取り繕うことに必死な両親や感傷的になってしまうであろう恭子と比較して

実写版『君の膵臓をたべたい』より引用

 また、桜良が大事にしていることは、物語終盤において以下のように語られます。


誰かと心を通わせること。
(中略)ハグをする、すれ違う、それが生きる。
自分一人じゃ生きてるってわからない。
好きなのに嫌い。
楽しいのに鬱陶しい。
そういうまどろっこしさが、人とのかかわりが、私が生きてるって証明だと思う。
だからこうして君といられてよかった。君がくれる日常が、私にとっての宝物なんだ。

実写版『君の膵臓をたべたい』

 これまで述べてきた通り、「桜良は生き抜いた人生を単に短命の少女で、とてもかなしい人生であった」という感想で済ますことは、彼女自身が一番嫌うことでしょう。僕は桜良を自らの枠組みで判断するのではなく、他者の人格を尊重することができる人間であり、そうした二人(僕もまた、桜良を短命な少女という感傷的な態度で関わることはなかった)であったからこそ、お互いに良い影響を与えることができ、桜良は12年後の僕に対して、もう一度踏み出す手助けまで与える存在になったのです。あの場面で僕がもう一度踏み出せたのは、桜良がたとえ通り魔により亡くなる可能性があったことを理解したとしていても「病院に引きこもって亡くなった方がよかった」という自己完結する人生を絶対に選ばない人格であること、そして僕自身もそうした桜良の強い人格に惹かれていたことを思い出したからでしょう。このような僕の内面の変化があって、このまま彼女の死を引きずるのではなく、彼女のように「人に認められ、愛され、人と心を通わせられる人間になれるように」という彼の強い思い(信念)から、恭子へ「(挙動不審になりながらも)友達になってください」という一言が出たあのシーンは、桜良が望んだように、確かに僕の中で彼女の人格が生き続けていることを象徴する場面でした。通り魔に殺されるという意味では、彼女の想定した通りの人生ではなかったかもしれませんが、彼女の希望した通り、確かに僕や恭子に多大な影響を残した人生は天晴れというほかないでしょう。
 今回、このシーンを振り返る時、新海誠監督の映画『星を追う子ども』において、死者とのかけがえのない思い出を持ちながら、それでも生きなければならない人間に対して、ラストシーンで主人公が「しかし、それは祝福でもある」と、つぶやくシーンを思い出しました。これはまさに、本作の僕にとっての桜良の存在にこそ当てはまるのではないでしょうか。確かに、物語のラストに至るまで僕にとって桜良との思い出は呪いとなる側面はあったかもしれない。しかし、最期には僕が過ごした彼女との記憶が、そしてその中に残っていた彼女の人格が、祝福となって彼の人生のリスタートに導いたのでしょう。これは、多くの現代人が他人を評価するときに懐きがちな「長生きこそが至上価値である(生命至上主義)」、という規律からはもたらしえないものでしょう。死んだ人間の言葉が、その人格が、12年という年月を経て生きた人間に確かな影響をあたえることができる、この意味で物質的価値を超えたもの(超越性)をそなえているからこそ、人格に価値があるのでしょう。

 私は、こうした側面を無視して(理解しようとすることなく)、「ただでさえ短命の宿命を背負った不憫な少女が、予想もしない死に方をする残酷な/儚い物語」として消費することこそが、彼女の人格を毀損するような残酷な行為だと思います(大事なことなので何度でも)。そして、そうした人たちが形骸化し、枯れ木のようになった言葉として「多様性の重要性」(そして、実際にやっていることは己の枠組みのみで他者を評価し、あまつさえ、その枠組みに同化することを強制すること)を叫ぶことに現状の醜悪さを感じずにはいられません。このような反応は、他者の人格に対する敬意がないだけでなく、他者を自らの枠組みに当てはめる為の手段(モノ)として扱うことを示しており、個人的には全く同意できかねる反応です。もちろん創作物なので、どのような感想を持とうが個人の自由なのですが、桜良に対する感想をインターネッツでみていると、現代社会の「多様性という名の全体主義」を推し進める象徴的な現象と感じられ、思わずこんなことを書いてしまいました。
 既にお気づきの方も多いとは思いますが、ここまで私は桜良という人物のパーソナリティを評価するうえで一貫して、「人格」という言葉を使ってきました。余りにも遅くなりましたが、このnoteで使ってきた「人格」とそれを尊重することについて私なりに定義しておきまょう。人格(≒他者)を尊重するとは、「私とあなたの人生は違うもので、(大切にしているものは)人それぞれだよね」という形骸化され枯れ果てたもの(=無関心)ではなく、相手の大事にしている信念(ポリシー)を理解しようと努力し、その信念に基づいて生きている人間(=人格)に敬意をはらうこと、私はこのように考えています。そして、こうした人格を体現しているのが桜良というキャラクターであり、そうした彼女の人格を尊重できる僕が彼女と関わって成長する物語こそ、『君の膵臓をたべたい』という作品の魅力なのではないでしょうか。


※引用した『星を追う子ども』のセリフはとても印象的ですが(物語のラストシーンでもある)、この作品においてどれほどこのメッセージを伝えることに成功していたのか、少し疑問が残るところです。それがAmazon primeの評価の低さに出ているのかもしれません。



 今回は本作を視聴したことで主人公やヒロインの生き様を通して、改めて人が生きることや他者を尊重することについて考えさせられ(それと同時に、本作の消費のされ方に疑問を持つところもあり)、思わずこのような長文を書いてしまいました。やはり、私はロールプレイするだけの存在のキャラクターではなく、人格を持ったキャラクターに大きく惹かれるようです。自らの境遇に悲観し、すべてを決定論に委ねるわけでもない、決定論と自由意志の狭間で生きる姿の美しさを、彼らの具体的な振る舞いを通して改めて考えさせられました。
 ただ、偉そうにこんなnoteを書いておきながら、実際に私がやっていることは一人で引きこもりがち、という現実があり、こちらについては大いに反省するばかりなのですが・・・。また、本noteの最後で述べたような人格、それに関わる尊厳について正確な議論をしようとするならば、カントを代表とする哲学者の達の議論を踏まえることが必要なのは言うまでもありません。ただ、そうした学問的議論だけではなく、こうした創作物からでも私たちが考えるきっかけはいくらでもある、そんなことを伝えられたらと思い、今回はこのような文章を書いてみた次第です。

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