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『そこのみにて光輝く』感想

 世間でサブスクが流行し始めた頃、ちょうどAmazon prime会員だった私はせっかくの機会だと色々と映画を視聴してみたものの、いつも15分程度で視聴を断念してしまうことが多かった。そんなとき、一人で最後まで映画を観ることができない映画難民だった私が、たまたま人から勧められた映画が『そこのみにて光輝く』だった。いつも通り、何となく視聴を開始したものの、開始10分くらいで物語に引き込まれ一度も中断する事なく最後まで試聴したことを今でも覚えている。そもそも私のような映画難民にとっては最後まで視聴できる映画は2割程度しかなく、ましてや中断なく最後まで通しで視聴できる作品は1割にも満たない。そんなわけで、めでたく?も私の映画の1割(1割なので、私にとってはその時点で必然的に名作扱いとなる)に入ることになった本作について感想を述べていきたい。

 おそらく映画好きでもない限り本作の知名度はそこまで高くないと思われるので、まずはあらすじを確認しておく。

北の町。愛を求める人々のひたむきな生。

引き寄せ合う魂の邂逅 ある出来事がきっかけに仕事を辞め、目的もなく毎日を過ごしていた佐藤達夫は、ある日パチンコ屋で使い捨てライターをあげたことをきっかけに、粗暴だが人なつこい青年・大城拓児と知り合う。

拓児に誘われるままについていくと、そこは取り残されたように存在している一軒のバラックだった。

そこで達夫は拓児の姉・千夏と出会う。互いに心惹かれ、二人は距離を縮めていくが、千夏は家族を支えるため、達夫の想像以上に過酷な日常を生きていた。

それでも、千夏への一途な愛を貫こうとする達夫。達夫のまっすぐな想いに揺れ動かされる千夏。

千夏の魂にふれたことから、達夫の現実が静かに色づきはじめ、達夫は失いかけていたこの世界への希求を取り戻していく。

そんなとき、ある事件が起こる――。
『そこのみにて光輝く』公式HPから引用

 改めてあらすじを読んでみると、「まぁなんというか暗い話だよな」ということを痛感させられる。はじめに断っておくと、本作において起承転結といえるような大きな物語は存在しておらず、北海道が舞台となる小さな町での小さな人間関係が最初から最後まで淡々と続くだけである。登場人物たちはハリウッド映画ならば真っ先に舞台から消えてしまうような人たち(彼らはいずれも低階層である)であり、本来ならスポットライトの当たらないようなモブキャラが中心となる物語である。したがって、観る人を選ぶ作品であることは間違いない。

 しかし、本作はただ残酷な低階層の人たちを描いただけはなく、しっかりと映画として成立させている点が素晴らしいところだ。実際に映画を観てみると、下層階級特有の容赦のない描写も多いものの、時折流れてくる軽快なBGMと拓児の明るいキャラクターによって、鑑賞者の視聴を妨げるほどの絶望を与えることはなく、「残酷な現実」と「エンターテイメント」を絶妙なバランスで両立することができている。こうした制作側の努力のよって本作のメッセージである「低階層の人たちの生活の厳しさ」「そこから抜け出すことの難しさ」を視聴者に説得力を持って伝えることに成功している。さらに、ここがまさに本作が持つ固有の凄さであると思うが、能力的にも環境的にも自らの力ではどうすることもできない彼らが、目の前の現実にもがき、懸命に生き続ける姿がまさに「そこのみにて光輝い」ており、それを象徴するのがラストシーンの千夏が放つ「美しさ」と「はかなさ」である。あのシーンが持つカタルシスは人間の機微を丁寧に描いた監督の胆力と努力の賜物であり、私の中ではあのシーンがなければこの作品は名作とはなっていなかっただろう。それくらい映像として素晴らしいシーンである。

 言ってしまえばたったこれだけの作品ではあるのだが、私は本作を思い出すたびに現代においてこの作品が持つ意味について考えてしまう。最後にそのことについて少し述べておきたい。

 既に述べたように、本作は「弱者」の存在肯定とその「美しさ」を表現した作品である。そして、これは普通に考えれば2023年の今においては時代の価値観とは逆行する作品であることは間違いないだろう。社会的弱者を救うことが何よりも大事(少なくとも表面上はそういうことになっている)である現代において、社会に搾取される側であることしか許されないような彼らの存在を、しかも美しく描くことは、一歩間違えれば差別の肯定につながりかねない。しかしながら、本作ではそうした差別性を視聴者に感じさせることはないだろう。それは上段で述べた通り、丁寧な人物描写と音響の組み合わせ、主演俳優、監督の手腕によるところが大きい。このような丁寧な作品作りによって、一部の人にとっては努力ではどうしようもない能力的な限界が存在することを視聴者に強烈に印象づけている。現代ではこのようなことを公で語ること自体がタブーになりつつあるが、本作ではこのことを2時間かけて丁寧に描いているおかげで(作中の彼らのような)低階層の人達に対する差別を描いた作品にはならず、彼らの美しさ(現代社会の一定以上の階級の人たちには出せないタイプの美しさ)を描くことに成功している。これは一歩間違えれば、現在の弱者支援を否定しかねないかもしれない。ただ、いつの時代も社会のレールにのりきることができない人たちは一定数必ず存在するし、だからこそ、古今東西において現代まで文学が残ってきた。本作は社会支援の限界と弱者が弱者たる所以について、誤魔化しなしで克明に描いている。彼らの目の前のどうしようもない「現実」に翻弄される姿に視聴者は胸を締めつけられるし、中にはそこに「文学」を感じる人もいるだろう。
 
 どうやったってうまれてしまう社会から零れ落ちた人たちの「生きざま」と「美しさ」を描くことで彼らの存在を肯定することを力強く伝えた本作はやはり素晴らしい。そして、現代では主流の考えではないかもしれないが、語弊を恐れずいえば、こうした「弱者」の生き様(存在)を認めることが、多様性を尊重することの価値のひとつであり、かつて「リベラル」と呼ばれる人たちが持っていた大きな長所である、と私は考えている。本作はこの多様性について具体的な人間の人生を通して誤魔化しなく描ききった怪作であり、彼らの「美しさ」を伝えるメッセージがストレートに私の胸に響いた。最後に、現代の「ポリコレ」文化では表立って語りづらくなってしまった話を正面きって描くことに果敢に挑戦し、見事に描いてみせた呉美保(おみぽ)監督に最大限の賞賛をおくり、締めの言葉としたい。



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