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己の怠惰さと他者の存在、坐禅会(曹流寺)の感想


 先日、Tiktok界の超有名人である仏教徒ちゃん(以後、遊民和尚)が副住職を務める曹流寺さんの坐禅会に参禅してきました。坐禅会は午前と午後の2部制となっており、午前は連続で4柱(1炷:40分坐禅、10分経行(歩行瞑想)、10分抽解(休憩、次の坐禅の準備))の経験者向け坐禅会、午後は坐禅の説明を中心とした短時間の坐禅(5分)を中心とした、参加者との感想を共有しながら坐禅をする初心者向け坐禅会でした。

 正直な話、この坐禅会の案内があった時は参加するつもりはありませんでした。というのも、4炷程度の坐禅であれば一人で家で坐禅すればいいのであって、あえてお寺まで訪問して参加する必要はないかな、と感じていたからです。そんな時、たまたま仏教のアレ編集部の遊心さん(@honnebose)のnoteをみて襟を正す思いとなり、参禅を決めました。

 細かい内容については是非、遊心さんのnoteを読んでいただきたいのですが、坐禅に関心のある方ならば一読する価値のある示唆に富んだ文章だと思います。


 また、哀しいことに遊心さんのnoteを読んで、他者と関わっていくことの重要性を再認識し、私自身も過去にこんなnoteを書いたり、上のようなpost(tweet)をしておきながら、実際の普段の振る舞いと言えば、「1週間以上外出することすらなく、人と関わることがない」という言っていることと、やっていることが違う典型的な有言不実行であること(下のpost参照)に気づき、現在も大いに反省をしております。人と関わる機会が減っていくと、自分の都合のいいように物事を考え始め、そうした些細な内面の変化が行動にも表れていく、といういわゆる当たり前のことを痛感するばかりです。今回、こうした気づきの機会をいただけたことについて、遊心さんには感謝の念が絶えません。


 また私の観測範囲に限った話ですが、摂心(数日にわたる坐禅)や坐禅会に熱心に参加される方の少なくない方が、孤独耐性に強い方が多いように見受けられます。瞑想において(おそらく坐禅も)も独りで向き合うことが大事とされているからこそ、これはある種必然なのかもしれません。もちろん、坐禅や瞑想の最中には独りで向き合う時間が必然的に生じますし、それこそが修行の重要な要素のひとつではあるのでしょうが、上で述べたように、私のような怠惰な人間の場合、それ(坐禅や瞑想を独りですること)を単に他者と関わることから逃げるだけの言い訳に使っている部分がある気がします。こうした己の気質自体は、かねてより薄々きづいておりましたが、明確に意識するようになったのは『感じて、ゆるす仏教』1章で語られる藤田一照老師と奥様との馴れ初めの読んでからです。因みに本著は「出家するわけでも、僧侶になるわけでもない現代人がいかに坐禅(≒瞑想)と向き合うのか」という意味で、大変参考になる部分が多い本だと思います(特に後半の2〜3章)が、意外にも実践者に読まれていないようでもったいないな、と個人的には思ってしまいます。 また、この本が出版されたのが2018年5月であり、刊行されてからすぐに読んだ記憶があるので、5年たっても人は簡単には内面を変えられない、という残酷さに少しばかりため息がでてしまいます・・・。藤田老師の出家までの背景を知ったうえでないと、以下の言葉は刺さらないかもしれませんが、まるで自分のことを言われているかのような感覚になった藤田一照老師の奥様の言葉を下に引用しておきます(一応断っておきますが、もちろん私は変人ではありません笑)。

「あなたは親密な人間関係をこれまでずっと避けてきている。このままの調子で、そういう親密な人間関係で苦労しなかったら、ただの変人で終わりますよ

  藤田一照、魚川祐司著『感じて、ゆるす仏教』P.76より引用 太字は引用者     


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 一応、言い訳がましいことを申しあげると、私自身も他者と時間を共有することや、そのことが作り出す価値については十分に理解しているつもりですが(だからこそ、過去にこのようなnoteも書いている)、同時に自らが他者との交流が苦手なこともわかっているからこそ、己に鞭をうつように文章に残しているわけです。ただし、気が抜けるとついつい楽な方に流れてしまう(さらにはそのことを無意識に正当化してしまう癖がある)、という生来からの怠惰な性分ということなのでしょう。問題なのは、実際に他者との交流を避けていることに自ら気づけていないということで、まだまだ精進が足らないな、と反省すると同時にこのような自覚の機会を与えてくれる他者の存在に感謝しなければならないな、と改めて実感しました。当たり前ですが、他者というのは、(自らの思い通りにいく存在でもなければ、不快な思いをさせられることも多いという意味で)厄介な存在ではあるが、独りで思索にふけっているだけでは気づけないことを、より正確に言えば、自らが見逃していることに対する気づきのきっかけを与えてくれる存在なのだろう、と感じます。頭の中でどれだけその重要性を理解していても、私のような生来からの怠惰な人間にとってはある程度の強制力を意図的にでも作り出さないと、簡単に低きに流れていってしまうのです
 こんなことをクドクドと考えながら、やはり坐禅でもなるべく誰かと一緒に坐る機会を持たなければならない、と決意を改め今回の坐禅会に参禅しました。

 また、なぜこのような他者との関わりの話をしつこくするのかと言えば、瞑想界隈(?)ではよく言われる「瞑想したからと言って性格がよくなるわけではない」という話にも関連するからです。この場合は端的に、仏教の「無我」についての誤解から生じるものですが、今のところ私の瞑想経験を踏まえた実感としても、瞑想(おそらく坐禅)それ自体によって「直接的には性格がよくなることを導くことはなさそうだぞ」という霊感があります。また、何よりも瞑想や坐禅を日常に取り入れた結果として、他人から関わりにくい人間になること(嫌な奴になること)は私の望むところではありません。改めて己を振り返ってみると、他者と関わる機会が極端に減ってから、傲慢的な感情が浮かんでくる回数も増えた気もします(念のため補足しますが、できる限りこのような感情を表出することはしないように努めております)。これは人と関わる機会が減ったからなのか、瞑想を日常的にするようになったからなのか、その因果関係は不透明ですが・・・。
 ただ、こうした負の感情に飲み込まれることは、坐禅や瞑想をやる前と比べると格段に減った感覚はあるので、やはり私にとっては坐禅や瞑想を生活に取り入れて大正解だったな、という確信があります。こうした「確信」がもてたのもタイに3カ月のリトリートに行ったおかげであり、また話す機会があればこちらも文章にしてみたいと思いますが、現在はまだ長期間のまとまった瞑想(≒坐禅)修行が必要性を感じているところであり、文章にするのは私なりに決着がついてからになると思います。



 前置きがとても長くなってしまいましたが、こんな考えを持ちながら曹流寺さんの坐禅会に参禅しましたが、感想としては(経験者向け、初心者向け双方とも)とてもよかったです。

 私個人の感想で言えば、午前の4炷は7月末に帰国してからの坐禅で一番集中できた気がします。やはり家で坐るよりも、お寺の本堂で厳粛な雰囲気の中坐るのはまたいつもと違った感じがあるのかもしれません。
 それよりも今回特に印象的だったのは、午後の初心者坐禅会の方です。特によかったと思う点は大きく2点あります。まずひとつ目ですが、遊民和尚による坐禅の説明だけでなく、参禅者の方にも優しく話を振って場を和ませることにより、参禅者を過度な緊張状態にさせることがないよう工夫が施されていたことです(他の初心者坐禅会というものに参加したことがないので、厳密に比較はできませんが)。これはひとえに、遊民和尚の人徳と人柄のなせる業なのだろうと思います。
 また場を和ませることにより、坐禅中に気が緩んだ雰囲気が流れる懸念もありますが、初心者坐禅会においてもそうした雰囲気になることもなく、一定の緊張感を保っていたように感じます。これは私の個人的な意見ですが、過度に張り詰めた雰囲気のある場所での坐禅は、ただでさえ坐ったことのない初心者にとっては逆効果のような気がします。坐禅において「調身(ちょうしん)・調息(ちょうそく)・調心(ちょうしん)」の重要性はよく言われるところですが、坐禅前の準備からリラックスした状態を作った後に坐禅を実施するというのはすごくいい効果があると思いました。初心者坐禅会では、5分の短い坐禅を複数回した後に感想を全体で共有し、30分の坐禅をしたのですが、初めての方が多かったのにも関わらず30分の坐禅で全体がざわめくことはなかったです。 

 ここで坐禅経験者から「30分程度なら初心者でもできるでしょう(笑)」との反論が飛んできそうですが、私がタイの瞑想センターや森林僧院で集団瞑想をした経験を思い出すと、瞑想を開始してから10分程度でガサゴソという音が聞こえてくることも数度ではない頻度であり、この経験から30分坐ることは(多くの初心者にとって)それほど簡単なことではないと考えています。これに関して、私がタイで出会った在家修行者の方たちが不真面目であったのかと言えば、全くそうではありません(そもそも、彼らはわざわざ自らの意志で国を跨いで瞑想修行やお寺での生活を体験しに来ている)。もちろん、タイでの坐る瞑想について曹洞宗ほど「動いてはならない」と強く言われることはないので、その影響もあるとは思いますが、少なくとも私が訪問した所では基本的には坐る瞑想中に動くことは避けるように言われていました。それにも関わらず、思わず動いてしまうのが初心者であり(※1)、私自身の過去を振り返っても、一人では3分も坐れなかった記憶があります。こうした背景からも、遊民さんの工夫がもたらす、坐りやすい雰囲気と、入り口として集団で坐ることのメリットを改めて感じた次第です。

※1 これは完全に私の個人的な素人意見ですが、摂心のような長期にわたる坐禅においては、「坐禅中に絶対に動いてはならない」を無理にやってしまうと在家修行者が脚や膝を痛める悪影響を与える可能性が高い気もします。かつての禅僧のように命がけでの仏道修行を志すなら話は別なのでしょうが、真面目な人ほど痛みを我慢して脚を痛めるのではないでしょうか。もちろん、多少の痛み程度であれば我慢するべき、という大前提を踏まえた上です。ただ、本当に限界が来れば、ゆっくりと動かしている部位を意識しながら痛みの感覚が消えていることに意識を向ける方が、禅定(サマーディ)もそこまで下がることもない気がします(実際、マハーシ系の瞑想本にもそのように書かれていることがあります)。


 もうひとつ良かった点が、坐禅後の感想共有において、遊民和尚が参禅者の感想をうまく引き出し、全体で共有されていたことです。多くの禅寺において坐禅会後に(茶話会などでも)気軽に感想を言い合えるところは少ないと思います。ただ、参禅者の立場からすると、せっかくの休日にわざわざ時間を作って坐禅会に参加して、感想を共有することもなく家に帰って、後日一人で家でも坐禅をする気になるかと言えば、そうした人はかなり少ない気がします。もちろん、坐禅や瞑想において「取引(bargain)してはならない」とはよく言われるところですが、出家して仏道修行を志すような人間でもない限り、坐禅会に参加した結果、当人にとって何かしらのメリットを感じることができなければ、一般人が家でも坐禅を続けることは、まずないと言っていいでしょう。実際、一般人の感覚からすると禅寺などの坐禅会では下手な感想が言えないような雰囲気を感じたりもします。

 遊民和尚は、厳粛な雰囲気になることを避け、気軽に感想を共有する雰囲気を作ることを心がけており(実際それに成功している)、参禅者の方の感想を上手いこと引き出しながら、感想を引き出す努力をされておりました。もちろん、坐禅中に緩んだ雰囲気が流れていることはなかったです。私の感覚の範囲では、午前中の経験者坐禅会との間で坐禅中の雰囲気に大きな差を感じることはなかったです。曹流寺さんの坐禅会に参加する度に思いますが、坐禅中の絶妙な緊張感のバランスがとられていることには驚くばかりです。

 このような遊民和尚の気配りもあってか、初めて坐禅した方からも「気づき」の報告(例:見えている視界がぼんやりした時があった。痛みを観察する俯瞰した視点 etc)が複数みられて大変驚きました。このような感想を聞くたびにやはり、坐禅にもセンスの有無はあるし、どこで坐禅をするのか、ということも大きな影響がある(とりわけ初心者~中級者においては)のだと感じます。坐禅や瞑想は独りでするものであり、自己と向き合う性質から、どういった環境で行うのかは軽視されがちですが、上級者やエキスパートの方ならまだしも、そうでない人にとってはどういった環境で坐禅(≒瞑想)をするのかはその質にも大きな影響を与えると、私個人としては感じるところです。
 また、感想報告のを場を通して、初めて坐禅をされた方においても、自らの坐禅に何かしらの手ごたえを感じられているように見受けられました。今この文章を書いていて思い出したことですが、私が初めて曹流寺さんの摂心に参加した際も、茶話会での会話を通して坐禅に対するモチベーションが上がった記憶があります。正直、初心者坐禅会の方の参加には迷っていましたが、こうした場に立ち会うことができて、私自身も貴重な体験ができました。


 坐禅会後には希望者による食事会があり、皆さんの坐禅会に参加するきっかけが語られており、こちらも大変印象的でした。プライベートな話もあったので詳しくは書けませんが、その話を外から聴く限り、確かにその問題は今多くの人が「現実社会で評価しているもの(「価値」があるとされているもの)」では答えることはできない性質のものである、という感想を懐くとともに、まだまだ宗教が少なくない人にとって効用となる部分はあるな、と再認識しました。また、今回坐禅会に参加された方たちは、InstagramTiktokで遊民和尚による短い法話を視聴したことをきっかけとして参禅された方も多く、宗教者としての熱意とその確信(宗教性)がそれを必要としている方たちの基に正しく届いていることに大変感銘を受けました。昨今SNSでは本来出会うことのない人達が出会ってしまったばかりに、哀しい運命を辿っている例が散見され、なんとも虚しい気持ちになることも多いですが、このようにSNSを通じた縁によって届けられるべき人にきちんと届いている現場に関わることができたことは大変貴重でした。


 こうした縁に立ち会うことができた報恩感謝の念により、今回はこのようなnoteを書かせていただきました。坐禅に興味はあるものの、お寺まで足を運ぶのは…と思っている方にこそ、名古屋にある曹流寺さんでの初心者坐禅会がお勧めです(もちろん、堀部遊民和尚に興味関心がある方にもおすすめです)。



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