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「無我」ってそういうのじゃないのよ

 昨夜の藤田師との放送でもコメントに言及があったし、私のTLにも何度か回ってきていたので、以下の記事を読んでみた。

 感想としては、藤田師との対談でも述べたとおりの、仏教の「無我」や瞑想一般に関する典型的な誤解が、そのまま表現されているような調査と解釈だと思った。

 たとえば、調査では被験者に自尊心(self-esteem)の程度について訊き、それがヨーガや瞑想によって高まっているなら、自我を鎮めること(Ego-quieting)に失敗している、と評価しているようだけれども、この基準に従うならば、ヨーガや瞑想によって自尊心が低くなったと回答しなければ、「無我」を実現するという瞑想の「目的」は達成できなかったのだということになる。

 だが、少なくとも私の知っている瞑想というのは、そんなバカバカしいものではない。

 実際、とくに英語版の記事を読むとよくわかるが、多くの人が瞑想によって得る幸福(well-being)は、記事中に言われる self-enhancementの感覚とリンクして増大すると、同じ調査によって指摘されている。これは考えてみれば当たり前のことで、瞑想やヨーガをやればやるほど「私は他の人に比べて駄目だ」と思うようになったり、自尊心が低くなったりするのであれば、多くの人にとっては、それは幸福とは言えない結果に繋がるだろう。

 そして現実問題としても、瞑想やヨーガというものは、実践者にそういう方向へ変わることを求めはしない。「私は素晴らしい」と感じることは、たしかに我への執著かもしれないが、その文脈で考えるならば、「私は駄目だ」と感じることも、同様に我への執著の(逆方向の)表現にほかならないからである。

 要するに、「他と比べて自分は上か下か」とか、「自尊心は高いか低いか」とか、そういう質問をしている時点で、どう答えても回答は「我への執著」の表現にならざるを得ないということだ。こういう「表が出れば私の勝ち、裏が出ればあなたの負け」式の質問がデザインされてしまうあたりに、私としては「無我」という概念に対する根深い誤解を感じてしまう。

 別の言い方をすれば、こういう正負のどちらの回答を選んでも、いずれにせよ我との関わりを避けられないような質問しかないのであれば、それは瞑想によって幸福を感じている被験者であれば、正の方向の回答を選ぶのは自然なことだろうし、それをもって Ego-quietingに失敗していると言われても、それは調査をデザインした人間の無理解がすぎると、当方としては評するほかないわけである。

 とはいえ、こういうことに関して熟慮するつもりがなく、かつ私がいつも言っているように、「私はすごい、ではなくて、あいつなんて大したことない、で自己主張する」傾向のある一部の方々にとっては、この調査結果はたいへん都合のよいものだろうとは思う。

 そう思いながらTLのツイートを眺めてみたら、だいたい予想どおりの話が展開されていたので、ため息をつきつつ、また無駄と知りながらこんな記事をちょっと書いてみたりする夜なのであった。


※以下の有料エリアには、過去のツイキャス放送録画(私が単独で話したもの)の視聴パスを、投銭いただいた方への「おまけ」として記載しています。今月の記事で視聴パスを出す過去放送は、以下の四本です。

 2018年1月30日
 2018年2月16日
 2018年2月21日
 2018年3月6日

 六月分の記事の「おまけ」は、全て同じく上の四本の放送録画のパスなので、既にご購入いただいた方はご注意ください。

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