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『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』3話と「損得を超越したもの」について

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』、この名前を聞いたことがない現代のアニメ好きはまずいないだろう、というほどの超有名作品であり、あの京アニを代表する作品のひとつである。また、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は大人でも泣ける感動作品として知られており、中でも第10話は「涙なしでは視聴できない!」と多くの人が語るほどである。とは言うものの正直、大人になってからこの手の泣ける系の作品を観るのはかなりしんどいと思っていた自分がいたが、友人の強い勧めもあって視聴したところ、無事(?)全て視聴(映画含む)してしまった。そして、先日たまたま飛行機の中でこの『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』3話を視聴する機会があり、久しぶりに観返したところ、やはり素晴らしかった。そんなわけで、現在の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のnote執筆にいたる。
 本作を全て視聴したうえで声を大にしていいたいのだが、私の心が思わず揺さぶられたのは皆が絶賛するあの10話ではなく第3話である。そして、この3話こそが、わたしにとって本作の始まりにして頂点であることは最後まで変わることがなかった。というわけで、一般的にはそこまで大きく語られることのない本作の3話のすばらしさについて、私なりの視点から語っていきたい(やはり、インターネッツをのぞいてみても例の10話が圧倒的に人気である)。

 本作のような有名作品にいまさらネタバレもないと思われるので、まずは簡単に3話の内容について確認しておく。

良きドール〈自動手記人形〉は、相手が話している言葉から
伝えたい本当の心をすくい上げて「手紙」にする。
それは、自動手記人形にとって何よりも大切なこと。そして、何よりも難しいこと。

自動手記人形の養成学校に通うルクリア・モールバラは、そこで軍人のように振る舞う
一風変わった少女、ヴァイオレット・エヴァーガーデンと出会った。

銀色に輝く義手で打つヴァイオレットのタイピングは、速く、正確。
そして、学科の成績も優秀だった。
だが、彼女が代筆したルクリアの両親へ宛てたものは「手紙」と呼べるものではなかった。

ヴァイオレットには、わからない。
大切な人の『愛してる』も、自分の気持ちさえも。

「…心を伝えるって、難しいね」
そう呟いたルクリアにも、本当に気持ちを伝えたい人がいた。
それは戦争の帰還後に変わり果ててしまった兄のスペンサー・モールバラ。
元軍人のスペンサーは両親を敵国の攻撃から守れなかったことを悔やみ続けている。

ルクリアがずっと伝えられずにいた、残されたたった一人の家族への本当の想い。
―――「生きていてくれるだけで嬉しいの…」


ヴァイオレットはルクリアの想いを綴り、スペンサーに届ける。
それは、任務でも課題でもない。彼女が代筆した、短いけれど心のこもった「手紙」だった。

ドールにとって一番大切なことを知ったヴァイオレットは、
自動手記人形としての一歩を歩みだした

アニメ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式HPより引用
http://tv.violet-evergarden.jp/story/#03
※太字は筆者による強調

 上記あらすじは公式HPからの引用であり、「全部ネタバレしてるやんけ!」と思わずツッコミを入れたくなるが、とても簡潔にまとめられていたので引用させていただいた。
 3話の内容は公式の説明でほほとんど説明しつくされており、あらすじを読んで多くの方が懐いた感想のとおり、深遠な何かを伝えているわけではない。ひょっとしたら、人によっては「余りにも当たり前すぎることしか伝えていないよな・・・」と感じたかもしれない。ただ、この3話は現代人のわれわれが、余りにも当たり前すぎてかえって忘れがちな「人と人が関係を築いていくうえで本当に大事なことを伝えている」のではないだろうか(このことについては後述する)。そして、私のようなひねくれ者で"さえ"この3話のメッセージがスッと入ってきた。やはり(あえていうが)こうしたベタな話は恥ずかしがらず150キロのストレートをど真ん中に投げるのが一番いいのである。そして、このまっすぐな想いが伝わるということこそが一部の人間にとっては希望となるのである。

 本作の3話が伝えていることを私なりに一言で言ってしまえば、(家族のような)親密な関係であり、それゆえに起こりがちな複雑な状況下であったとしても、飾らないストレートな心の底からの言葉(想い)が人間関係(コミュニケーション)において何よりも大事であり、これこそが人の心を突き動かすということである。そして、(ここが本当に大事なポイントなのだが)人の言葉の本音と建前を理解するのが苦手なヴァイオレット(この時点では自らの感情を理解することすらもままならないレベルである)だからこそ、この手紙を書くことができた、という事実が筆者の心を激しく揺さぶったのである(恐らくこれだけでわかる人には、私の言いたいことが完璧に伝わっているだろう)。
 これは私のような常に人の心の裏を読む癖がついている所謂「育ちが悪い」人間にとっては、本当に福音のようなものである。本編を観た方には納得いただけるだろうが、自らの本心を150キロど真ん中ストレートで投げることでしか人に伝わらない感情がある。絶対にそうである、そう確信させてくれる程の説得力がこの3話には存在している。

 ついつい私のお気持ちを綴ってしまったが、冷静に分析してみても、3話の結論で伝えていることは、脚本者の嘘偽らざる本心だといっていいだろう(本筋とはズレるので深入りはしないが、3話の脚本が男性であり、例の10話の脚本が女性であることは興味深い現象である)。

3話Aパートにおいて、ヴァイオレットは自動手記人形の養成学校での模擬の手紙代筆の際に、相手の発言をそのままくみ取り、発言を最小限の感情(≒情報)に変換する軍隊式の報告文章を作成し、感情をくみ取る能力の低さを教官から指摘される。そして、Bパートにおけるルクリアの手紙作成の際は、ルクリアの発言をそのままくみ取り、手紙にする。よきドールとは相手の感情をくみ取ることが大事である、と学校で習うものの(本編でも繰り返し伝えられる)、Bパートでヴァイオレットが行ったことは、実際は感情をくみ取るレベルさえも届いておらず、ルクリアがヴァイオレットに話した感情の部分をそっくりそのまま手紙にしているだけである。しかし、だからこそあの手紙は素晴らしい。というわけで、ルクリアとヴァイオレットのセリフ、そして実際の手紙を確認してみよう。


ルクリア「本当は...本当はただ生きていてくれるだけでうれしいの。」
    「ありがとうって伝えたいだけなのに・・・ずっと言えない。」

~中略~

ヴァイオレット 「よきドールとは、言葉の中から伝えたい本当の心を救い上げるもの」

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』3話より引用

【手紙】

お兄ちゃん

生きていてくれて

うれしいの

ありがとう

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』3話より引用


 改めてみてみると、手紙の内容が余りにもルクリアの言葉がそっくりそのまま使われていて驚いた方もいたのではないだろうか?笑。しかし、たったこれだけの言葉が時には人の心を大きく突き動かすのである。逆に言えば、たったこれだけのことが言えないからこそ(≒想いが伝わらないからこそ)、対人コミュニケーションは難しいのである。この人間心理の複雑さ(難しさ)を見事に描いたのが、アニメの第3話だと言っていいだろう。「飾らないストレートな心の底からの言葉(想い)こそが人間関係(コミュニケーション)において何よりも大事であり、人の心を突き動かす」ことが3話のメッセージである、と上述したが、それはルクリアの以下のセリフからも確認することができる。


時に手紙は、たくさんの美しい言葉を並べるより 

ひと言だけで大切な気持ちを伝えることができるのです。


私はドールにとって一番大切なことを彼女に教わった気がします。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』3話ルクリアのセリフより引用
※太字は筆者強調



 3話のメッセージはこれに尽きるのだが、このセリフが首席で自動手記人形(=ドール。これよりドールと呼称する)の養成学校を卒業したルクリアというキャラクターから語られることも示唆的である。生徒の中でドールとしてのスキルが最も高いルクリアからこのセリフが語られることで、たった一言の言葉がいかに大きな意味を持ちうるか、そしていかに大事であるか、をより強調して視聴者に伝えている。結局、こうした強い想いが元々存在していなければ、いくらドールとしての技術を磨いたところで何も意味をなさない。だからこそ、この強い想いを素直に表現することでしか伝わらないものがある、ルクリアのこのセリフは、人が関係をきずくうえで一番大切なことを私たちに伝えてくれている。実際、これ以降のヴァイオレットが綴る手紙には、すべて強い想いが込められている。その強い想いがあって初めてドールとしてのテクニックが生きてくるのである(大事なことなので何度でも)。
 また、ヴァイオレットの一番最初の手紙がルクリア兄への手紙であることもまた、たった一言のストレートな想いを伝える重要性をより強調する演出となっている。おそらく過去のどの時代よりもよりも対人コミュニケーションスキルが強く求められる現代において、そのスキルよりも大事なものとして、一言だけで心からの本心を相手に伝えることができる、というこの3話のメッセージは私だけでなく、多くの人たち(特に私のようなコミュ障タイプは尚更)の胸に響いたことだろう(邪推かもしれないが、私などは昨今の世の風潮に釘を差すような脚本の意図を感じてしまう)。そして、このメッセージがただの綺麗ごととして受け取られることがないほどに説得力があるのは、脚本とアニメーションの出来が素晴らしいからに他ならない。冷静に考えて、たったあれだけの分量の手紙で人に感動を与える製作陣の力量の高さには感服するほかない。


 ここまでストレートに感情を伝える重要性を伝えてきたが、もちろんこれはメリットだけではない。当然の話であるが、長い関係であるからこそ、ある一言でその関係すべてが崩壊することもまた同様に起こりうる。本作のルクリアと彼女の兄はこうした懸念を強く自覚しているからこそ、互いを想い合うあまり、雁字搦めになって相手に自らの本心を伝えられない状態が長い間続いていた。私たちの実世界においても(相手を信用することが難しい時代であるために)こうしたストレートな言葉を伝えることができなくなってきており、仮にこのようなストレートな言葉(想い)を言われたとしても素直に受け取ることができない人も多いだろう。むしろ、このような言葉を一度発すれば、笑われるのがオチである。これは彼ら兄妹のような家族の中だけの話ではなく、友人・恋人との関係においても同じことが言えるだろう。少なくない方が、長い間きずいてきた関係性が壊れるのを恐れて、素直な想いを伝えることができなかった経験をしたことがあるのではないだろうか。
 そしてとても哀しいことに、現代ではこの悪い意味での一言の重みの傾向がますます強くなっているように感じられる。その典型例として見られるのが、最近インターネッツで聞かれるようになった「蛙化現象」である。社会問題について語る気はさらさらない(社会問題は社会改善に対して強い熱意を持っている人にこそ任せるべきである)ので、この話はここまでとしたいが、このような哀しい(?)現代の背景があるからこそ、ど真ん中150キロストレートのあの手紙が私の心に響いたのだろう...「なんて度し難いんだ!」という気分である。しかし、当然であるが、アニメを観た時の私のあの感動は間違いなく本物である。後になってこんなことを考えてしまう私が残念な人間である、というだけの話だ。


 この度3話を視聴して改めて考えさせられたのは、彼らの兄妹愛にかぎらず、「愛」というものが持つ最大の価値は、ある種の合理性を超えたところにある、ということである。上段で少し述べた「蛙化現象」もそうだが、残念ながら多くの方がご存知のとおり、現代における恋愛市場はルクリア達の家族愛とは完全に逆方向に進んでいる(マッチングアプリなどが合理性の典型例であろう)。一応言っておくと、合理性を求めること自体が悪いわけではない。むしろこうした合理性を追求してきた歴史が現代の便利な世の中を作り上げてきたのは、私が言うまでもなく多くの方がご存知の通りだ。ただ、マッチングアプリ等でみられる結婚相手は年収〇〇万円以上、身長〇〇〇CM以上、長男以外、学歴は〇〇以上etc...のような属性の条件づけで初めから出会いを制限して、ある条件から外れる言動がみられた瞬間にその人との関係を断つことを積極的に容認する人が多い社会において、果たして人と人が深い関係をきずくことができるのだろうか?ということは少しだけ考えてしまう(ここでも一応補足しておくと、私自身も「愛」のようなものは「ねっとり」した感じがしてそこまで好きではない、むしろ嫌いである(より正確に言えば理解できない)というタイプの人間である)。

 当たり前の話だが、現代の合理性ベースの人間関係だけでは長期間にわたる人間関係の構築(恥ずかしい表現をすれば、愛を育むといってもいい)はかなり難しいだろう。すでに述べたように合理性ベースの対人関係においては、メリットがなくなったその瞬間にその人との関係を簡単に切ることになるからだ。このような状況においては、長い時間による「醸成」が必要になる「愛」のような概念を育むことはできない。
 この長い時間をかけて「愛」を「醸成」することは、この3話においても大きな意味を持っている。ルクリア視点から言えば、兄に対して何度も自らの想いを伝えようとしたがそれができなかった、という時間と、(それにもかかわらず)兄と一緒に過ごしてきた、というふたつの苦しい時間によってお互いの家族愛が「醸成」されていった。逆にルクリア兄から言えば、傷痍軍人としての自分をサポートしてくれる妹に対する感謝がありつつも、直接言葉では伝えられない時間と、それにも関わらず自らは自堕落な生活をしている、という二つの苦しい時間が彼らの家族愛を「醸成」したといえるだろう。こうした前提条件のもと、ルクリア兄は(ヴァイオレットが仲介することで産まれた)あの手紙を読み、お互いの相手に対する想いとその苦難の時間を瞬時に理解したからこそ、涙を流したわけである。この意味において、彼ら兄妹が過ごしてきたあの辛くしんどい時間は全く無駄ではなかった。やはり、われわれは苦(dukkah)から多くのことを学ぶのである、ということを痛感する。また、とても厳しい言い方をすれば、損得の話で言えば、ルクリアが兄を献身的に支えることのメリットがなかったことは一目瞭然である(そもそも家族とは「損得」の話を超えた関係であることくらいは、さすがに私もわかっている、念のため)。しかし、われわれ視聴者はそのような「損得」を超えるもの(=愛)を彼ら兄妹のやり取りとヴァイオレットの手紙から感じ取ることによって、大きく心が揺さぶられるのである。

 リアルで私を知っている方からすると、「お前みたいなやつが愛を語るなんて・・・(絶対、馬鹿にする側の人間やん!)」と目を丸くすることは間違いないのだが、実はこれは私にとっての大きな問題にも関わってくる。というのも、以前(伊能忠敬)のエントリーで語ったように私たちの人生に彩りを与えてくれる原動力となるのは、多くの場合、われわれの「熱量」だからである。このような話を持ちだすと合理性の追求を否定しているように思われがちなのだが、わたしが言いたいことは、合理性の追求をやめろ、ということではない。
 例えば、数学、物理、哲学などの学問分野において、その分野における合理性を追求することはあるだろうが、その場合においては、その分野における合理性の探求・追求に当人が溢れんばかりの情熱(熱量)を注いでおり、往々にしてその行為(研究)自体も楽しんでいることも多い。以前noteに書いた伊能忠敬の日本地図作成や測量などもその例に含まれるであろう。ここで私が言いたいことは、外形的な行為自体だけでなくその行為の基となる動機"も"また大事である、ということである。人間関係のような合理性だけで割り切れないようなもの(人間関係とはメリットとデメリットが予測もつかないような形でおとずれるようなものだろう)に関しても同じことが言え、合理性"だけ"をベースにして考えてしまうことは逆にわれわれのMP(メンタル・ポイント)を消費する行為につながるだろう。

 本作の第3話とは反対に、現代の恋愛市場におけるスペックでの人間の判断は、スペックを満たす満たさない、高い低いという「損得勘定」がベースとなった結果であり、そこに人の「熱量」はほとんど存在していないように私にはみえる。人間と人間の関係、それも生涯のパートナーを決める時ですら「損得勘定」だけが行動のベースになっていること(これはTwitter等の男女論をみれば明らかである。ただし余りにも「アレ」なので検索することはお勧めしない)は、とても虚しいことではないだろうか。もちろん、昨今のあまりにも不平等な扱いが発生しているような現状において、そのような「損得勘定」で行動せざるをえなくなるのはとてもよく理解できる話ではあるのだが・・・。しかし、それだけを理由に結婚相手のような生涯のパートナー(最近は離婚も多いようだが・・・)を決めるのは茨の道であろう。

 ここまで読んでいただいた方にはすでに十分私の立場は理解されているとは思うが、私の言う「熱量」は究極的には損得の話は関係ないものである。強い「熱量」は損得勘定を超えたものを人間にもたらし、それゆえにMP(メンタル・ポイント)を回復させるのである。そして、「損得勘定」がベースとなって生きることは「人間」をマシーン側に近づけていく方向であることは多くの方に同意いただけるはずだ(誤解のないように補足すると、私の言っていることは不合理性を追求しろ、ということでは決してない。そうではなく「損得勘定」ではない基準(行動原理)が必要である、ということである。そのひとつとしてイメージしやすい例が「愛」のような概念である。また、先ほど例にあげた伊能忠敬の日本地図作成の情熱は、プラトンが言うところの「知への愛」そのものだろう)。例えば、過去存在していたお見合い文化による結婚は、相手との長期関係を構築することを余技なくされる、という意味で愛の「醸成」に一役買っていたことはよくわかる話である(もちろん、だからといって国民全員がお見合い結婚をすべきだとは全く思っていない、念のため)。実際、お見合い結婚での満足度は高いというデータもあると聞く。ただ、われわれは自らで自身の生を決断する「自己決定」・「自由恋愛」を求める方へ進んだために、現在のような状況になっているのだろう。しかしながら、実際はこの「自己決定」「自由恋愛」に耐えられない人が多い(SNSを一度開けば大量に観測される)ことはとても哀しいことである。このあたりの話は多くのTwitter有識者の方たちが指摘する通りだろう。

 想いを伝えることについて、(家族のような)長い時間の関係の積み重ねがあるゆえに、その一言の重みが増し、その結果、ストレートにその想いを伝えることが難しくなる、と上述したが、これについては私の両親をみているとつくづく感じることである。ルクリア妹のように、最後にその想い(=愛している)を相手(互い)に伝えればすべて解決しそうな場面においても、お互いその言葉がいえないことで状況が悪化することはよくあることではあるが、私の両親はまさにこのパターンであった。しかしながら、「愛」の力は本当にすごいもので「言葉」で伝えることができなくてもその力を発揮することは可能である(本noteとは直接関係はないが、このことをストレートに描いた作品が『王様ランキング』であろう。愛の功罪をしっかり描きながら「愛」を力強く肯定するそのメッセージが多くの人の胸に響いた名作である)。

 実際、私の両親は一時期の最悪と言ってもいいような状況があったのだが、そこから状況は好転して、今は大変いい状態である。絶望的な状況を変えるほどの力が「愛」にはある(その絶望的状況を作るのもまた「愛」であったりするのだが・・・。これについては『王様ランキング』を視聴していただきたい)。創作物でも腐るほど存在するような「クサイ」話であるが、実際に自らの目でこの「愛」の力を目の当たりにしたことは大変貴重な体験であったことは間違いない(書いていて大変恥ずかしくなる表現である)。この親の「愛」から導かれる行動というものを直接目にしたことによって「人間、自らが経験したことは知性や理論による理解を遥かに超える納得を覚える」ことを学ばせてもらった。少なくとも私にとってはそれだけのインパクトがあった。

 そして、こうした私の経験とは関係なく、そもそも「愛」というもの自体がある一定の理屈や論理を超えたところにあるということなのだろう。また、最近常々痛感させられていることなのだが、私は理屈や論理を超えたものに強く惹かれており、それを追い求めているところがある。だからこそ、大学ではTwitterにおいて非常に素晴らしい扱いをされている例の学部に入ったのかもしれない。こうした自らの気質に気がつき始めたのは瞑想実践のおかげである気がするが、本筋とはそれるのでここでは深入りはしない。

 話がそれてしまったが、上述した親の背中で語る「愛」の姿を実際に目の当たりにしたことは大変貴重な機会であった。余りにもプライベートな家庭の話なので詳細は記載しないが、どうみてもメンタルに異常をきたし、あらゆる人に対して攻撃的になり、当人に対するあらゆる行為(親切な行為を含む)を自身への攻撃と受け取るような人間に対して、本人の自尊心を守りながら献身的にサポートする親の姿は、今の私では到底実践できないものである。そこには完全に「損得勘定」を超えたものがあった。もちろん、私も困っている人がいたら手を差し出す側の人間ではあるとは思うが、相手の態度が余りにもひどい場合は、自らが傷ついてまでもサポートをすることは難しい(もちろん、これは程度問題の話でもある)。これは私に限らず多くの人にとっても当てはまる正直な感情ではないだろうか。そこで私はその時、親に「なぜ、(自分にデメリットしか与えない人間に対して)そこまで献身的にサポートできるのか?」と問うてみたところ「たとえどんな(醜い)存在になったとしても35年以上一緒に連れ添っていれば、そこに愛情は湧く。そして長年連れ添った人間としての責任もある。〇〇を助けられるのは私しかいないだろ。」という趣旨のことを語っていたことは今でも鮮明に覚えている。私は両親から様々なことを教えてもらったと思うが、その中でも具体的な行動でもって「愛」(「損得勘定」を超える想い)の力を教えてもらったことが、私が両親から教えてもらった(クサイ表現ではあるが)「一番の宝物」だったかもしれない。本当にありがたいことに『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の3話を観て、両親とのこのやり取りを思い出させてもらった。より正確に言えば、思わず思い出してしまった。この一連の私と親のやり取りからも痛感するが、結局、人の心を本当の意味で動かすことができるものは、「損得勘定」のような計算で生み出されるようなものではない、これにつきるのだろう。


 ついつい「愛」を知らない私のような人間が「愛」について語るという恥ずかしいことをしてしまったわけだが、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の3話にはそれほどの力があることはわかっていただけたのではないだろうか。主人公ヴァイオレットの余りにも不器用すぎる姿とそれゆえに苦労する場面が多いことをしっかり描きながら、ドールとしてのスタートラインに立つこの3話において、「たった一言のストレートな言葉を伝えることこそが大事であり、人の心を動かすものである。(そして、これこそがドールにとって一番大切なことである)」と力強く肯定する製作側の強い想いは、痛いほど私の心に響いた。大事なことなので何度でもいうが、一見すると恥ずかしいような純粋な強い想いを誤魔化すことなく150キロど真ん中ストレートで表現することによって始めて伝わる想い、というのは確実にある。だからこそ、私のようなひねくれもの(?)の視聴者の胸にもこの3話は突き刺ささるのである。そして、これはあらゆるテクニックを求められる現代において、私のような不器用な人間にとってはまさに「福音」となる物語である。辛く、哀しい話ばかりが目立つ世の中だが、創作物の力にはいつも励まされる。こうした素晴らしい作品を視聴したからこそ、私も素直に心を開いてストレートにその感動を筆にのせることができた(余談だが、リアルで私を知る人間が本noteを読むと、目を丸くするのは間違いないだろう)。

 今回このエントリーを書く中で思ったことであるが、現在の私が世間のレールから外れて(?)、自らのやりたいことができている理由もこうした素晴らしい作品によって後押しされている部分が多分にあるのかもしれない。やはり、強い「熱量」のある作品は人を動かすほどの力を持っている。何度でも言うが、そうした作品を鑑賞できることには本当に感謝しかない。長々と語ってきたが、私が伝えたいことは実はひとつだけ。常々人から「ひねくれている」と指摘されるような私のような人間に、こうした熱い「想い」を書かせるほどの原動力を与える名作である『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』、ぜひ観てみましょう!(3話こそが始まりにして頂点! ※個人の感想です)


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