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マイムマイムとNYのトーマス・クック、そして杉原千畝〜トーマス・クックシリーズ(番外編)⑦

 家の向かいにイスラエル人一家が住んでいました。東京です。十年以上前の話です。その隣はフランス人一家でした。二軒とも絶対にカーテンを閉めないので、部屋の中がいつも丸見えで、ついついいつも見ちゃいました。
 外に出すゴミ箱もお洒落だったし、家の前に出す瓶も高級ワインとシャンパンのラベルのものばかりだったし(*こちらでは瓶はむき出しで家の前に置きます)、フランス人の方はまだ赤ちゃんがいたのですが、当時日本では珍しい部類だった北欧産の巨大なベビーカーでした。

 うちの猫も「ああ、お金持ちなんだなあ」と思ったようで、なんとある時、向かいのイスラエル人の家に家出したことがありました。
「げっ」と思いつつ、私が手土産を持って猫を迎えに行くと
「ああ、お宅の猫はしょっちゅう我が家に入って来て、寝室のベッドの上で昼寝しているわよ」。
 ギョギョッ。

 その時も私の猫はそこの家の寝室ベッドに気持ちよさそうに寝ており、私の顔を見ると「あっしまった」という表情を見せました。猫もそういう表情をします。
 確かにこんな寝心地良さそうな高級ベッドなら、猫も狙うのも分かるな、と思いつつも、つい関係ないことを訊ねてしまいました。
「あの、イスラエルの方ですよね?」
「なんで分かったの?」
 
 鼻を見れば分かりますだなんて言えないので、ヘブライ語が聞こえてくることと窓辺のメノラーの燭台を指差しました。
「よく知っているわね」
 驚かれましたが、これをきっかけに口をきくようになりました。網戸の使用目的とか、お勧めゴキブリ殺虫剤など色々聞かれました。(笑)

「奥様は魔女」のサマンサとダレンの家玄関にも必ず置いてありました。風習などが異なるユダヤ系がアメリカ社会に溶け込む寓話の物語だったそうです

 そんなある日、ユダヤ人奥さんは私を見つけるやいなやもっと大興奮して言ってきました。
 「マイム!

 私は中東にいたので、マイムがヘブライ語で「水」というのは知っています。ちなみにシリア方言アラビア語では「マイ」、エジプト方言アラビア語では「マイヤ」です。

「水がどうしたんですか?水漏れですか?」
「違う違う、マイム・マイム・マイム!なぜ日本でマイム・マイム・マイムがポピュラーなの!?」

マイムマイムマイム、ベッサンソ

 日本のゲーム音楽でマイムマイムが使用されていることを、何かで知ったらしくとても驚いたといいます。

 その後、ユダヤ人奥さん、ユダヤ系ウクライナ人の「ドナドナ」の歌も日本でポピュラーであることにびっくりしていました。
 そして、ふと私が
「そういえば、私の両親が杉原千畝の最後の家のすぐそばに住んでいたことがありますよ」
と言うと、なんだか大げさに喜ばれました。
               §

 前置きが長くなりましたが、杉原千畝が大勢のポーランド人とリトアニア人のユダヤ人家族に日本のビザを発給し、ドイツによる民族絶滅の可能性やソ連による長期の投獄やシベリア流刑から救ったのは有名な話です。
 しかし、これにトーマスクック旅行社が関わっていたことをご存じでしょうか?

(*本家トーマス・クックではなく、ベルギーのワゴンリーに買収された後のトーマス・クック社の話なので「番外編」としてシリーズ最終回前に投稿します)


リトアニアのユダヤ人

 1939年、ロシア語専門の外交官、杉原千畝がリトアニアのカウナス(当時のリトアニアの首都)に赴任したたった4日後のこと。

ドイツ軍がポーランドを攻めました。それにより、約1万5千人のポーランドのユダヤ人がリトアニアに逃げて来ました。
 このポーランドのユダヤ人難民の中には、後のイルグン(ユダヤ民族軍事機構)司令官で、後にイスラエル首相になったメナヘム・ベギン(キャンプ・デービッド合意の時の首相です)、
それからハガナ(パレスチナのユダヤ人地下組織)司令官モーシェ・スネの二人もいました。

 翌年1940 年 6 月 15 日にソ連軍がリトアニアを侵攻、7 週間後の 1940 年 8 月 3 日に併合。ソ連は共産主義以外の活動を取締り、シオニスト運動のユダヤ人指導者らも一斉検挙をされ始めます。
 ここで、ポーランドからのユダヤ難民だけでなく、地元のユダヤ人もポーランドから脱出する方法を模索し始めます。

 一方、同年12月、杉原はユダヤ人の友人にハヌカの祭りに招待され、出席しています。恐らく、この時に
「日本副領事の立場として、第三国へ渡る通過ヴィザを発給できる権限をお持ちですか?」
と質問され、「権限がある」と答えていた可能性があると思います。

 そうして彼らはヴィザを求めてカウナスの日本領事館に殺到したのですが、ただし、この時はまだナチスによるユダヤ人民族絶滅計画は出されていません。あれが決定するのは1942年1月20日です。
 すなわち、まだそんなに切羽詰まる状況ではなかったはずで、しかも外務省で問題視されるのを分かっていたのに、なぜ杉原千畝は独断でヴィザ発給し続けたのか。
 やはりこれは多くの専門家が言っているとおり、ご夫婦揃ってクリスチャンでおられ、妻の助言と本人の信仰によるのも大きかったのに違いありません。

トーマス・クックNYの出番

 杉原千畝にヴィザを発給してもらったユダヤ人たちは、シベリア鉄道に乗り、ソ連を横断しました。ソ連は彼らを追放したかったため、自分たちの国や領土を通過するのを許可しました。

参照 http://historia.justhpbs.jp/railway.html  

 ウラジオストックの駅で下車すると、今度はそこから敦賀港までの船に乗りました。この二つの港の間には定期船が運航しており、敦賀港は日本海側屈指の国際港としての地位を確立していました。

 問題はその先でした。
 敦賀港に次々に到着する貧乏なユダヤ人たちは旅費はおろか日本入国の手続き費用、滞在費用、そこから第三か国へまた逃げるお金も持っていません。これに外務省は呆れ果てて、苛立ちました。
 この記事にも書きましたが、リトアニアやポーランドのユダヤ人は貧乏人が多かった。ドイツのユダヤ人とはまるで「貧富」が違いました。

 東京の外務省はリトアニアの杉原副領事に苦情電報を送りつけます。
「渡航費と日本滞在の費用を支払う経済的余裕がある者にだけ、ビザを発給せよ。それ以外の人間にはビザの発給を停止するように」
 
 ここでやっとトーマス・クック旅行社ニューヨーク支店の登場です。

アメリカのトーマス・クック社

 トーマス・クック旅行社は南北戦争が 1865 年に終わってからわずか数か月後、さまざまな戦場への観光(!)を含む初の米国ツアーを実施しました。

 その6年後、クック氏はアメリカ人実業家とクック・サン&ジェンキンスというパートナーシップを結びました。しかし二人は仲違いをし、この関係は解消されましたが、クック社はすでにアメリカ観光業界で定着していました。

1866年のリバプールからニューヨークまでの旅行の初期広告。25ギニー(現在の金額で約1,552ポンド)

 事業をさらに強化するために、クック氏は1876 年にフィラデルフィアで開催された 100 周年記念式典にパビリオンを出展し、その後、従来の観光旅行だけでなく、米国とカナダに来る移民向けの旅行パッケージ(移住手配)までを含めるようにその提供内容を拡大しました。
 さらに1896 年までに、クックのアメリカ事業は金探鉱者のためにクロンダイクへの旅行を手配しました。

 1920年、クック氏の孫がニューヨークにオフィスを出しました。
トーマス・クックオフィスが入ったビルは、その昔、エジプト副王タウフィク(イスマイール副王の息子)に依頼されて、カイロのアブディーン宮殿の新棟(西棟)を設計した、オーストリア人のヨーゼフ・ウルバン(ヨセフ・アーバン)が建設したものです。
 彼はウィーンのブルク劇場、リング通り、ウィーン美術史博物館などを建設したハーゼナウア男爵の愛弟子でした。

 なお、ヨーゼフ・ウルバン(ヨセフ・アーバン)はアメリカに最初にアールデコを持ち込んだ人物です。とにかく偶然かどうか分かりませんが、まさかのトーマスクックニューヨークオフィスビルとエジプトつながりであることに、この記事を書くのにあたり色々調べている上で偶然知りました。驚きました。
 アブディーン宮殿については「エジプトの狂想」をお読みくださいませ✨

1920年代のトーマス・クックNYオフィス

トーマス・クック、日本行きのユダヤ人難民支援に関わる 

 その後、トーマス・クック氏の 3 人の孫(うち一人は早く亡くなります)が 1928 年に退職するまで経営し、トーマス・クック旅行社はベルギーのワゴンリーに売却されました。オリエント急行所有の会社です。

ワゴンリーとトーマス・クックの合体マーク。もろにフリーメイソン感あり。

 ところが、ベルギーは1940年末にドイツに占領されると、ワゴンリーに合併吸収されたトーマス・クック社はドイツの敵国財産管理局に引き継がれることになりました。イギリスは慌てて、どうにか同社の鉄道の一部を再買収しました。

 アメリカはドイツに占領されていないので、こちらのトーマス・クック・ワゴンリー旅行社(長いので、以下「トーマス・クック社」のままでいきます)はドイツに吸収されていません。このトーマス・クックNYオフィスにある団体から相談を持ち込まれました。

 ある団体とはHIAS(難民に人道援助と支援を提供するユダヤ系アメリカ人の非営利団体)です。
「日本に到着するユダヤ難民たちを助ける手伝いをお願いできませんか」

トーマス・クックとJTBの協力

 トーマス・クック・ニューヨークは協力を承諾しました。そこでおそらく同じトーマス・クックの日本オフィスに相談したと考えられます。それとも、もしかしたら直接?ジャパン・ツーリスト・ビューロに連絡を入れたのかもしれません。

 ジャパン・ツーリスト・ビューロとは1912年に東京で発足した任意団体です。そう、のちのJTBです。JTBはトーマス・クックニューヨークオフィスとタッグを組むことを了承しました。

 そしてこのようなルートが完成しました。
HIASがトーマス・クックニューヨークに資金とその資金を受け取るべき人物の名前を明記したネームリストを渡す

トーマス・クックニューヨークはその二点を東京のJTBに送る

JTBのスタッフが敦賀港に行き、下船前にネーミングリストの該当者らに預かったお金を渡す。

 これで
「金を持っていないじゃないか。日本に入れられない」
と彼らを追い出そうとする外務省に太刀打ちできるようになりました。

満州にもJTBオフィスはいくつもあったそうです

ネーミングリストと資金

 ウラジオストックにもHIASの協力者が現れ、駅で鉄道会社にはお金のないユダヤ人たちの運賃を支払い、ウラジオストック港まで彼らを案内。
 ウラジオストックから日本までは大阪商船の「天草丸」が毎週往復していました。天草丸は2600トンもの船です。

 JTB社員のOさんはトーマス・クック旅行社から提供された名前のリストを事前に持っていましたが、彼らは外国の名前ですし、海はいつも荒れていて乗客が多く
「毎回、資金を受け取る資格のあるユダヤ人難民を特定するのが難しかった。しかも彼らは酷い船酔いしていて、口を開くのも苦労していた」

 そのうち、船内で身元が確認できない、または名簿に名前が載っていない人たちの分の資金も預かるようになると、Oさんは日本の入国管理局に向かう前に、そういう人々にもお金を手渡し助けました。

 さらにOさんはユダヤ人難民が横浜港へ移動したり、敦賀から神戸に行く電車に乗る手伝いを好意で行っていたそうです。また、敦賀の街の人々もユダヤ人たちに温泉を無料で提供し、食料も分け与えたといいます。

 次の問題は彼らの滞在先でした。

神戸の街のユダヤ人

 神戸にはトーマス・クックオフィスが神戸の商船三井ビルとオリエンタルホテル(1897年にイギリス人に買収)に入っていたはずで(※この時代はどうだったのか、はっきり確証は見つからず)、
 そもそも戦前、日本でもっとも大きいユダヤ人コミュニティは神戸の街でした。

 約100人のユダヤ人コミュニティを形成しており、その一部は中東出身のユダヤ人で、その他はアシュケナジム(ドイツ語圏や東欧諸国などに定住したユダヤの人々およびその子孫)でした。

 神戸のユダヤ人コミュニティも最初からこの「リトアニアから逃げてきた人々を助ける計画」に加わっており、中でも神戸に住む有力なロシア系ユダヤ人家族であるトリゴボフ家がその中心的人物でした。

 敦賀から大勢のユダヤ人がやって来ることに、神戸の人は誰も不快感や不満を見せなかったといいます。 寛大ですが、元々国際的な街だったことも大きかったのかもしれません。

 実際、神戸に滞在したユダヤ人は
「この街の日本人は東ヨーロッパのような反ユダヤ主義ではない人々だ。友好的だ」
と驚きました。
 神戸の人々は非常に好奇心旺盛で、彼らが神戸で過越しの祭りを行うときも、非常に興味津々だったといいます。この神戸では 2 つのシナゴーグが活動し、難民たちは独自の学校を設立しました。

 外務省の中には
「これは問題になる、すぐに国外へ追い出せ」
という意見もあったといいますが、外務大臣の松岡はユダヤ人の神戸滞在を認めました。ただし
「神戸警察署長の承認を得た上であること。ユダヤ人が毎週ビザを更新するという条件も付け加える」
というのを言い渡しました。

手塚治虫「アドルフに告ぐ」と神戸

 さて、
「神戸、ユダヤ人…」
 ふと私はある漫画を思い出し、手塚治虫と、父親の手塚粲(ゆたか)についてちょっと検索しました。

【1941年(昭和16年)3月、ナチス・ドイツの迫害から逃れて神戸に滞在していたユダヤ難民を撮影した】(手塚粲wiki より)

「ああやっぱり「アドルフに告ぐ」の作品のきっかけは…」
と私は勝手に納得しました。

 ところで、前回の記事でトーマス・クックオフィスは世界各地に設立されたと書きました。
 創業者のトーマスは反対でしたが、彼の息子や孫がどんどん海外オフィスを増やし、その結果、ニューヨークオフィスも誕生し、今回このように大勢の命を救うことができたのです。

 しかし、第二次大戦の最中、実はもっと活躍したトーマス・クック海外支店が別にあります。こちらの方が世界的には有名です。ポルトガルのトーマス・クック・リスボンオフィスです。

「秘密の住所」リスボンのトーマス・クック地下活動

POB 506が暗号(秘密住所)
赤いスタンプが「ワゴンリー・トーマス・クック」の文字


 第二次世界大戦中、敵占領地と同盟国との間の通信は非常に困難になっていました。敵国とのあらゆる通信は1940年にドイツによって明示的に禁止されており、大反逆罪に問われ死刑に処される可能性があります。
 それでも、人々は敵国領土にいる離れた友人や家族はお互いの連絡を維持しようと必死でした。
 ここで登場し活躍したのが、中立国ポルトガルのリスボンのトーマス・クック事務所でした。
 
「あれ?中立国といえばスイスでは?」
と思うところですが、スイスが連邦国家になったのは1948年で、第二次大戦終戦の3年後です。よってポルトガルのトーマス・クックオフィスがこの時活躍したのかもしれません。

 具体的に言うと例えば、連合軍側のイギリスにドイツ占領下の国にいる人が便りを出したいとします。
 すると中立国ポルトガルには手紙が届くので、リスボンのトーマス・クックに郵便物を出します。そこには秘密の転送先(undercover mail)が書かれており、POB 506の秘密の住所があれば
「ああこれはイギリスに送って欲しいのだな」
とそれをイギリスに転送。中立国なのでイギリスにも郵便を送れますから。

 よってトーマス・クックのリスボン支社はオランダ空軍、ポーランド赤十字社などへの秘密支援も行いました。
 ところが実はドイツはそれを知っていて、逆にトーマス・クックリスボンを使ってフェイク情報を拡散させていた説もあります。真相はいかに…。

神戸から上海へユダヤ人を送還

 結局、1941 年 9 月までに約 四千人のユダヤ人難民が日本に到着し、その後彼らは東京のポーランド大使タデウシュ・レーマーの支援を受け、米国、カナダ、および入国を希望するその他の国への入国ビザを手に入れました。
 神戸からそれらの外国への渡航手続きはトーマス・クック神戸オフィスが手掛けたのではないか、と私は考えましたが一切そういう証拠を発見できませんでした。残念。でもきっとJTBは助けていたことでしょう。

 1941 年に入るとドイツがソ連へ攻撃を開始、真珠湾攻撃及び日本の宣戦布告、ウラジオストックと敦賀の間の船舶運行停止、アメリカからの送金も不可能に。
 しかし、日本にはまだユダヤ人難民が千人以上逗まっています。これは神戸のユダヤ人コミュニティに負担がのしかかり、対処できなくなりました。  
 結局、日本政府の決定により彼らは上海に移動させられることに。

 とにかく、杉原千畝がリトアニアにいた時代には、ユダヤ人はまだ最悪な状況ではなかった。
 しかし、あのタイミングで彼がビザを発給したことにより、ユダヤ人は彼らの排除を願っていたリトアニアの協力者またはドイツ人によって殺される、もしくはソ連の刑務所で苦しむという恐ろしい未来から救われました。

 また、杉原千畝以外にも世界中の人々や団体が宗教、民族などの垣根を越え彼らを助けていたのも事実。               

マイムマイムマイム、ベッサンソン

 さて東京で、私の向かいに住んでいたユダヤ人奥さん一家。

ある早朝、トラックが2、3台やって来てガタガタ音がするのに気が付き、窓から外を覗きました。
 なんと国際引越し業者で、業者の一人が窓辺にあったメノラー燭台を運んでいるのが見えました。
「えっ?」

 早業でした。挨拶もなくその一家はいなくなりました。その数時間後、その家のお隣だったフランス人一家も同じようなばたばたでどこかへ引っ越しました。
 日付ははっきり覚えています。2011年3月12日でした。まだ日本政府も日本のメディアも原発が危ないことになっているのについて、一切隠していた時でした。

 あれから13年。
ユダヤ人とフランス人一家が住んでいた二軒は、とっくに取り壊され低層階マンションになり、中国出身の若者たちが住んでいます。
 
【砂漠に流れる水、
らくだも集まり キャラバン休む
緑のオアシス 夢か…
マイム マイム マイム マイム マイム (水、水、水、水、水)
ベッサッソン(水が出てああ嬉しいなあ) ヘイ ヘイ ヘイ ヘイ!】

”「完全封鎖」が始まり、水の供給も止められた。”
               毎日新聞 2023年10月23日より
"栄養失調と水分不足で20人が死亡した”
               アルジャジーラ2024年3月8日より
 
 
参照
https://www.amazon.co.jp/Under-Shadow-Rising-Sun-University%E2%80%9D/dp/1618115227

https://www.amazon.co.jp/Fugu-Plan-Untold-Japanese-During/dp/9652293296


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