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ラクダの国から熊の国チェコへ転職(下)Loloのチェコ編②

 2000年前後真冬の夜ー

 プラハ国際空港に到着すると、面食らいました。明るい、どこもかしこも電気で眩しいのです。

 共産圏や軍事国家、貧しい国の国際空港に降りたことがある人なら、私の言っている意味を分かってくれると思います。というのは、そういった国々の空港は総じて辛気臭く、暗くて殺風景でしたから。

 私はそれまでルーマニア、ブルガリア、東ベルリン、ソ連時代のモスクワに旅行したことがありました。(子供時代含む)
 いずれの空港もガランとし、免税店もなく、目に入るのは大きな銃を構えた見張りの兵士ばかりでした。

 モスクワの空港ではいくつか店がありましたが、本物かどうか怪しいキャビアの瓶詰めやカニの缶詰とかで、日本人にいっぱい買い物して欲しいとのことで、トランジット窓口では日本人だけさっさと中に通していました。

 余談ですが、アエロフロートの座席にシートベルトが付いていなかったことが今でも忘れられません。
 アエロフロートの操縦士は元空軍のパイロットたちなので、世界一離発着が上手く、乗客はシートベルトをしなくても大丈夫だと言われていました。

 それはさておき、プラハの空港に到着し、入国審査へ向かって歩いている最中、私はずっと目をまん丸くしていました。
 だって、HSBC、バークリー、シティバンクなどの外資銀行の広告だらけではありませんか。社会主義から資本主義に変わり、一気に西側の銀行や企業が参入したというのはまさに本当なのです。

「えっ?こんなに都会なの?」
 あっけにとられたままチェコの入国審査へ進みました。


ラスベガスかプラハか

 月曜日のジャパンタイイムズの求人欄は充実していました。海外勤務募集も多く掲載されており、日本のお菓子をせっせと頬張りながら
「数多ければ当たるかな」

 ところで…
 外国に長く住んだ後に帰国すると、まず感動するのが日本のお菓子のハイクオリティです。スーパーで売られている安いお菓子でも、美味しいのです。
 エジプトから戻った私は特に塩味のお菓子中毒になりました。向こうでは「お菓子とはただ甘ったるいだけのもの」でした。

 韓国製のかっぱえびせんのパッチもので我慢していましたが、それ以外はどれもこれもうんざりするほど甘い。

 だから帰国してから、本物のかっぱえびせんもポテトチップス、醤油味おせんべいも美味しくて美味しくて、止まらなくなりました。

 さて、求人広告はなかなか「トリッキー」でした。
 ジャパンタイイムズに掲載されているということで安心しがちなのですが、一見真面目な内容の求人のものの、よく見ると、現地駐在の日本人相手のクラブやキャバレーのホステス募集も多いからです。

「上級の英語スキルは求めませんが、社交的で明るく気遣いができる20代の女性募集。場所はニューヨーク」
 
 こういったものは、間違いなくホステス募集でした。でも「ホステス求む」とは明記されていなく、まさか水商売の求人もジャパンタイイムズに載っているとも思わなかったので、私は、最初そのことに気づきませんでした。

 だから仕事内容やどういう会社かよく分からず(インターネット検索もまだ一般的ではなかったので)、ただ「勤務地ニューヨーク」というのにだけ心が動き、
 そしてジャパンタイイムズで募集をかけているくらいなので、ちゃんとした仕事なのだろうと思い込み、面接に向かい、あれこれ質問されてようやく「あっ!」

 ちなみにキャバクラとかラウンジ、ホストクラブとかって北米やヨーロッパでも聞いたことがありませんね…。

 その後、勤務地や高待遇、高給料に釣られず、ちゃんと仕事内容や会社を見なければならないという当たり前のことに気づき、
 アメリカの空港勤務募集、カナダのなんとか会社、南ア、タンザニア、シンガポール等など応募し、全て書類審査は通りました。日本企業のほとんどには引っかからなかったことを思うと、真逆です。

 中でも一番、心が惹かれたのがラスベガス某ホテルのカジノでのディーラーの仕事でした。日本人客が多いのだけども、やはり言葉の問題があるので、日本人のディーラーを募集する、と。

 カジノで言語は別にそんなに必要ないでしょう、と思いましたが、それはさておき、黒い蝶ネクタイをして黒制服でルーレットを回す。

 かっこいいではありませんか。湾岸諸国のお金持ちのアラブ人客も多いというので、尚更この仕事がいいなと興味を抱きました。

 元々、カイロでは他に行く遊ぶ所もなかったので、ビリヤード場の出入りの感覚でカジノにはよく足を運んでいました。なのでディーラーの仕事も大体分かっています。

 最終試験および面接は都内の某所でしたが、その前に…
 「一応」と保険をかけるつもりで応募していたチェコの会社からも
「書類が合格したので、最終試験にお越し下さい」
と通知が来ました。

面接当日は大雪。どうしようかな?

 チェコの会社の面接予定日。

 前の夜から珍しく雪が降っており、当日もまだ降り続いており、電車ダイヤも乱れていました。
「嫌だな、面倒くさいな。面接、すっぽかそうかな」

 寒いので布団から出たくありません。そもそもチェコの就職に応募したのは「何となく」でしたし、第一志望はラスベガスのカジノです。チェコに応募したのは「滑り止め」に過ぎません。
 
 チェコは貧乏で暗い社会主義のままの国だと思っていたし、それにどうも今ひとつ乗り気になれなかったのは、月収1000米ドルの安さが気に入らなかったからです。

 1ドル80円か70円台の時代でしたから、1000ドルだなんてはした金です。1500米ドルだったかもしれませんが、それでも円に換算すると10万円に届きません。

 唯一、給料の支払いがチェココルナではなく米ドルの通貨であったことは救いでした。
 また家賃・光熱費・交通費そしてチェコ語学校の授業料、保険料、年に一回の帰国便全て、会社が出すとのこと。チェコのグリーンカードも取ってくれるといいます。
 だから「悪く」はありません。けれども、良くもない。悩みます。

 何しろ、この前にドバイの航空会社の夢のような素晴らしい高待遇雇用条件を見ているので、チェコ会社のそれらの条件がなんと言おうか、色褪せて感じられました。

「ああ、雪の中、外に出たくないな。もう電話して行くのを止めようかな」
 そして眠い目をこすりながらトイレで一旦起きた時に、居間に入り電話をかけようと思いました。

 するとです。雪の日の朝っぱらから、母親が誰かと長電話をしています。電話を使えません。

 家の外に出れば公衆電話があるのですが、でも雪が降っています。出たくありません。
「ウ~ン」

 このまま先方に電話もかけず、無視しようか(ばっれくれる)という悪魔の囁きも聞こえました。エジプトではそんなこと当たり前だったので、正直大して後ろめたさもありません。その時です。

 居間のステレオスピーカーからスメタナの音楽が流れてきました。クラシックのCDかFMのクラシックばかり流していた番組を、母親が毎朝かけていました。

 だから母親は「FMステーション」の雑誌も定期購読しており、録音したい演奏がラジオで流れる時は、その雑誌のラジオ番組欄に赤丸などつけていました。

 この時、母親はFMのクラシック番組を適当に流していただけのようでしたが、たまたまそれはスメタナ特集でした。
 スメタナといえばチェコを代表する偉大な作曲家ですが、何かこのタイミングにぞくっとするものを感じました。

「これは、面接に行けというお告げかもしれない」

試験会場には遅刻

 急いで起きて身支度をし、慣れない雪道を歩き、電車へ乗り面接会場のオフィスへ向かいました。しかし、雪道用の長靴を持っていません。当たり前です。東京ですし、長年エジプトにいたので、雨靴だって持っていません。

 だからスニーカーをびじょびしょにさせながら、雪道を歩きました。冷えで足指の感覚を無くすというのは、ああ何年ぶりでしょうか。暑さでヒールの底が溶けてしまうなどは、エジプトで何度か経験したけれども。

 そして、いかんせん交通ダイヤが乱れているので、遅刻です。でも慌てませんでした。だって悪天候ですから、遅れるのは仕方がないことです。でしょ?

 試験の場所に到着すると、パンプスにはき替えてビルの中に入りました。
「もしかしたら試験は延期とか、時間を遅らせて開始になっているかもしれないな」

 ところがです。ゆったりと落ち着いて建物の中に入ると、ぎょっとしました。時間通りに採用試験の説明が開始されており、私以外の候補者は全員ちゃんと来ているではありませか。
「えっ?」

 驚きました。
「そうか…。うっかりしていたけれども、日本では何が何でも時間厳守なんだった。遅刻もトンズラも当たり前の国に長く住んでいたから、すっかり忘れていたなあ…」

 まずいな、と思いました。そこで、必死に言い訳を考えました。
「転んだお婆さんを助けていた、落とし物を拾い交番に持って行っていた、ツチノコに出会った…」

 すると、入口の受付の日本人スタッフが
「LOLOさんですよね、他の方は全員時間厳守に到着されているので、あとはLOLOさんしかいませんから」
「はい…」
「お住いは都内の◯◯区で、すぐそばですよね。近いと逆に遅れますよね」
とさらりとおっしゃいました。
「…」
 テンプルパンチです。言い返せません。

「これはもう私は確実に落ちる」
諦めました。

三人のチェコ人女性面接官


 遅刻したので、途中から英語と一般常識の筆記問題を受けましたが、そんなに難しくはなくホッ。

 その後の短い休憩の時、ビルの喫煙所へ行きました。この時は私はスモーカーでした。カイロの自宅では自分のシーシャも吸っていましたし。

 窓を見ると、外はまだ雪が降っており、どんどん積もっています。電車が止まるかもしれません。

「帰りが心配ですねえ」
 受験者の一人がたばこの煙を吐きながら、言いました。するとそこにいた他の人たちはうんうん頷きました。
「でも僕がいたカナダでは、このくらいの雪はどうってことがなかった」
 一人がそう言うと、もう一人が
「僕のいたスイスでも…」
「私の住んでいたアイルランドでも」

「ああなるほど」
 私は納得しました。というのは彼ら彼女らを見ると、ピンクのネクタイや赤いチェック柄のジャケット、派手なピアスや香水、水色のワイシャツなどなど、服装がなんだか「おかしい」のです。不思議でしたが、合点がいきました。
「この試験会場には、外国帰りを集めたのか」

「あなたはどこの国にいたの?」
 ロンドンに住んでいたというピンクネクタイ君にそう聞かれた私は「エジプト」と答えました。と、彼はいきなりたばこをむせそうになり、吹き出しました。

「本当!?一人だけ遅刻したでしょ、しかも慌てる風でもなく。だから、僕はてっきりイタリアかインド帰りの人かなあ、と思ったんだけど、そうかエジプトか、推測が外れたな。でも、日焼けしている顔だし、そのメイクやゴールド。うんうん、納得」
 他の人々は大笑い。ああ恥ずかしや…。

 ちなみに「メイク」というのは、アイライナーのことを指しました。日本では普通の若い女性がマスカラはともかく、アイライナーを描くことはありませんでした。マツキヨでもアイペンシルは売っていても、リキッドタイプのアイライナーは売っていなかったほどです。

 しかしエジプトの女性は逆にアイライナーを描かないなんて、ありえません。だから私も向こうにいる時の習慣でアイライナーを必ず入れていました。

 日本にいるのだから、止めたほうがいいというのを分かってはいたのですが、どうしてもアイライナーをすっと塗らないと、メイクをした達成感を持てませんでした。


 さて、短い休憩の後、集団面接が始まりました。
 面接官はこのために来日したというチェコ人の女性三人でした。

 とにかく日本企業を受けると男の面接官ばかりが現れ、外資を受けると女性の面接官も多い。この違いははっきりしていました。

 チェコ人女性面接官たちに対する私の抱いた第一印象は
「三人ともボニー・タイラーに似ている」

ボニー・タイラー

 髪型もジャケットの形も古臭い。エイティーズ、80年代じゃないですか。ゴールドもじゃらじゃらつけており、自国の通貨が不安定な国の女性はいずこもゴールドをいっぱい持っていたので
「ああチェコもそうなんだな」
と思いました。

 しかも、長く中東にいたせいで、ゴールドを見る目が養われていた私は、彼女たちのゴールドのクオリティーの悪さにじれじれしました。
「ああ、エジプトの◯◯バザールに連れて行ってあげたい。あそこならいいゴールドが買えるのに!」

 それにです。エジプトの女性も大概でしたが、眼の前のチェコ人女性たちの口紅もいかにもクオリティーが悪いピンク色。

「1980年にイブサンローランの19番(ピンクかかった口紅)が大流行したのはうっすら知っているけど、チェコではまさか今頃ピンクルージュが流行っているのかな」

 それにです。口紅ペンシルを使っていないようで、三人ともピンク色の口紅が唇からはみ出ており、もう気になって気になって。

 のちに私はドイツ、オーストリア、チェコと国境を越えて行ったり来たりすることになるのですが、人々の髪型、メイク、ファッションがもうチェコだけ垢抜けておらず(旧東ドイツもだめだったけど)、陸続きとはいえ、こんなに違うものかと、びっくりしました。

 さて、彼女たちは日本で初めてお好み焼きを食べて「あまりの美味しさに腰を抜かした」という話をにこにこして話した後、
「チェコを訪れたことがありますか?」
という質問を一人ひとりに順番に答えさせました。

 英語インタビューでしたが、チェコ人の英語は聞き取りやすく、そんなに難しくありません。

 オレンジ色シャツ男だけがチェコを訪れたことがあり、
「観光したことがあります。プラハは建築の街で街そのものがアートだと思いました」
と流暢な英語でべらべら語りました。

 ただし、傍で聞いていて思ったのが、彼の英語は完璧なネイティブだったものの、「チェコは物価が安くて、何もかも安くて最高だと思った」と笑って話したことです。

 私はちらっとチェコ人女性たちの顔を見ましたが、案の定、むっとしていました。結局、彼は試験に落ちたのですが、やはり「物価の安いいい所」発言がいけなかったのではないかと思いました。

 しかしまあ、この時の受験者はオレンジ色シャツ君以外も全員、英語がベラベラでした。

 トリリンガルも数名おりました。にも関わらず、この人たちも日本でなかなかうまく就職が出来ないと。イタリアの音大を出たという女性は派遣でデパートの店員をしていると言っていましたし。

 なお、最初に応募した数は数百人だったそうで、今回筆記試験と面接に呼ばれたのはそのうち数十名。たかが月収1000または1500ドルの仕事で、しかも英語圏でもない、東欧の国での求人にこれだけ応募が殺到。

 就職転職大氷河期だったせいもあると思います。この年、日本のAランクの大学の就活生ですらも、五十社ぐらい受けてやっと一社に引っかかるという年でした。

 それにしてもです。この十、二十年後になってやっと日本政府が「グローバル化を目指そう」だの「国際人を育成」だの言い出した時には、真っ先に思ったのが「遅い」!

 
 遅刻した私は一番最後に答えました。
「チェコには訪れたことはありませんが、社会主義時代のベルリン、モスクワ、ルーマニアには旅行で行ったことがあります」

 真っ青なアイシャドーをべったり塗りたくっているチェコ人女性が身を乗り出しました。
「まあ珍しい。せっかくだから、それらの国々の感想を教えてください」

 なんて答えようかなと一瞬躊躇しました。
「どこも素晴らしかった」
と話すのが無難だと思いましたが、でも
「一人だけ遅刻したから、どうせ私は落とされるだろうから、ま、いいか」

 そこで
「最低でした」と本音をまくしたてました。
 ブカレストは野犬だらけで怖かった、モスクワのホテルのチェックインが異様に時間がかかったこと、国境を越えるにも何時間もかかったこと。

 ベルリンの森には東からの逃亡者を見張る米兵が大きな機関銃を構えてうようよしており、不気味だったこと。
 東ドイツへ列車で入る時、パスポートチェックで車両に入ってきた東ドイツの警官に目を潰すガスを放たれ、親が財布を盗まれたこと。ブルガリアはヨーグルトだけが美味しかった…。

 気がつけば調子に乗り、中でもロシアと東ドイツの二カ国の悪口を喋り続けていました。 途中、はっと我に返った時、
「あ、さすがにまずいかも」

 ところがです。三人のチェコ人女性はお腹を抱え大笑いし、むしろ喜んでいるように見えるではありませんか。

 後でチェコに住むようになって知ったのですが、チェコ人は歴史的な関わりから、ロシア人とドイツ人を嫌っていました。
 だから、なんとなんと。私の悪口は「正解」だったのです。もし逆にドイツとロシアを絶賛していたら、彼女たちの心象を害したかもしれません。

 実際に、三人の中のトップのチェコ人マネージャーは
「いやあ、あなたのトークは最高だった、楽しかった。必ず最終面接にも来て下さいね」
と目に涙を浮かべながら握手まで求めてきました。

「エジプトには歴史があるが、チェコには文化がある」


 翌日は個人面接でした。人数は先日の半分以下に減っていました。

 この時、チェコ人女性三人に私はこのような質問をされました。
「あなたは長いことエジプトに住んでいましたが、エジプトとチェコの違いは何だと思いますか?」

 私は軽く深呼吸をし、こう返しました。
「エジプトには長い歴史があります。しかしチェコには深い文化があります。これが大きな違いです」

「…」
 しいんとしました。目の青い三人のチェコ人女性はじいっと私を見つめています。続けました。

「エジプトにピラミッドがあっても、文化がありません。しかしチェコにはピラミッドがなくても、素晴らしい文化があります。それが二カ国の最大の違いです。
 そしてチェコはこれから飛躍を遂げていく国です。そのドラマチックな過渡期をぜひこの目で見て体験したいと思っています。想像するだけでも興奮します」

 時はビロード革命が終わって10年弱のタイミングです。チェコは民主主義国家になったばかりのよちよち歩きの赤ちゃん状態です。まさにがらりと歴史が変わろうとしている真っ最中でした。

 話し終えた後、再びチェコ人女性採用者たちの顔を見ました。真っ青のアイメイクの女性は目に涙を浮かべており、一番派手なピンクルージュさんは目をキラキラさせながら
「あなたとプラハで再会するのを楽しみにしています」

「ありがとうございます。宜しくお願いします」
 ラスベガスのカジノのディーラーの最終試験はまだ受けていませんでしたが、
「もういいや」
と思いました。というのは
「歴史が動く、変わりゆく過渡期を見たい、経験したい」
という演説をしているうちに、本気にその気になったからです。


 翌日、ラスベガスのカジノの方には、最終面接を辞退する電話を入れました。
 トントン拍子にチェコ行きが決定し、親はおどろいていましたが、「中東よりかはまだ安心だ」とさほど反対はしませんでした。

ロック・ミー・アマデウス

 日本とプラハの直行便はないので、ウィーン経由で飛びました。
 ウィーンではあえて一泊トランジットをしたのですが、「ロック・ミー・アマデウス」を日本でも大流行させたファルコが薬の過剰摂取かなにかで死んで間もない時でした。

 それで国葬としか思えない大々的な葬儀が執り行われ、ウィーンの観光地に行ってもカフェに入ってもファルコの「ロック・ミー・アマデウス」が延々と流れていました。

 日本で「一発歌手」と呼ばれていたファルコが、オーストリアではこんなに愛されている国民的大スターであったことに、驚愕しました。しかも、そもそも「ロック・ミー・アマデウス」のタイトルがふざけています。

♪1780年、アマデウスは女好きのパンクで、スーパースターだった、ああアマデウス、アマデウス!♪というような歌詞、、、、

 だけども、至る所でファルコ哀悼特別編集アルバムのCDが販売されているため、ウィーンの街中でそれを思わず購入しちゃいました。

 でもなんのことはない。「ロック・ミー・アマデウス」オリジナル・バージョンの歌、ユーロミックスバージョン、12インチバージョン、カラオケバージョンなどが収録されているだけでした。

ファルコの墓はいつもお花だらけのようです。

ソ連建築建物が新しい住まい

 プラハ空港に到着すると、むろんウィーンの国際空港よりは小規模で今ひとつに感じましたが、それでも想像していたよりもずっとモダンで綺麗で明るいことに驚きました。

 入国審査は拍子抜けするほどあっさりでした。質問も何もなかった。

 到着ゲートでは私の名前のプラカードを抱えた金髪の青い目君が立っていました。会社の送迎アシスタントです。
「マイ・ネーム・イズ・オットー」
 とたどたどしく自己紹介をされましたが、オットーという名前に何だか感動しました。ハップスブルグ家にもいた名前ですから。
(日本語表記はハプスブルクですが、ハップスブルグにした方がドイツ語に近いので、このように書きました)

 私は英語でオットーさんに挨拶をし返しました。しかしきょとんとして戸惑っています。
「?」
「僕はドイツ語が得意で、ロシア語は少し分かるんだけど、英語は習い始めたばかりで、まだ苦手なんだ」
 
 そうか、なるほどと思いました。
 エジプトはイギリスの植民地(公的には「保護国」)でしたので、多くの人々が英語を話しましたが
「チェコはイギリスの植民地にはなっていないし、ついこの間まで共産圏だったから…」
 

 プラハの空港の外に出ると、一面銀景色でした。真冬だったので雪が積もっていたのです。東京の雪に比べ、もっと本格的な深い積雪景色です。

 初めてカイロに到着した時、カイロ空港の外の「一面、砂漠」に目を丸くしたものですが(しかもタクシーのドアが取れちゃってそのまま走ったし)、今度は雪です。

「あまり、ぼーと立っていないで早くバンに乗ってね。熊に襲われるよ」
 オットーさんはカタコトの英語でそう笑いました。
「熊?」

 むろんジョークでしたが、本当にワニやらロバ、ヘビ、ラクダがうようよいた国に住んでいた私としては、顔がひきつりました。
「ははは…まいったな、今度は熊の国かあ」

 私を乗せたバンはプラハ国際空港を出ました。しかしそこから先は延々に真っ暗で、車窓から眺めていても人影がほとんどありません。

 21時にもなっていないのに、バンの車窓から見える外はどこも真っ暗です。人影もほとんどなく、車もそんなに走っていません。店は全部閉まっています。
 車窓が淋しい、とにかく淋しい。うら寂れた田舎町のようです。首都の街には思えません。

「着いたよ、ここが君の家だよ」
 
 バンを降りると唖然。眼の前にはソ連建築の建物群がずらりとそびえており、しかもやはり真っ暗です。どの部屋の窓からも明かりが見えません。

「足元、気を付けて」
 雪道を歩くと、ロシア語が刻まれた石像が転がっていました。社会主義時代の像だそうですが、撤去が追いつかずまだあちこちにごろごろ残っているのだといいます。

「やはりラスベガスの仕事を選んでいれば良かったかな…」

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                 LOLOのチェコ編③につづく

§追記 「その名はカフカ」


 今回なぜチェコのことを思い出し、書こうかと思ったのかと言うと、KaoRuさんの小説です。

「その名はカフカ」というタイトルですが、かの有名なカフカ自身の伝記ではありません。

  KaoRuさんと知り合ったのはこのノート上なのです。
 彼女の投稿記事を拝読したり、やり取りをさせていただいているとふわっと心がプラハへ舞い、石畳をカツカツ歩く人々の足音の幻音が響いてきます。

(実際に響いて聞こえてきていません、あくまでも比喩ですので、薬や草をやっていると誤解をしないでください)

 せっかくなので、NOTEで私のチェコの日々の記事もちょくちょく書いていきたく思います。確かに民主化へ向かう過渡期にチェコに住めたのは、非常に面白い経験でしたから。

 しかしかおるさんは長いことプラハに住まわれ、今でも向こうにおられ、そしてチェコ語も堪能です。
 よって彼女のチェコ記事の方が「本物」ですし、日本人が書いたプラハが舞台の小説やエッセイを私も色々読んでいますが、かおるさんほど本当にプラハの香りがし、チェコを理解している日本人の作品は他にはありません。  

 あと「その名はカフカ」を読んでいて分かります。彼女は相当チェコ通、チェコマニア、チェコ愛が強い。いい面も悪い面も理解した上で、チェコに情熱を持っておられます。

 物語は2013年の時代から始まるので、ちょうど私が全然チェコとご縁が切れた後です。
 よって私としては尚更興味深かったのと、ちょくちょく、かおるさんの注釈や説明が入りますが、さすが長年現地に住んでおられる方だけあり、非常に詳しくマニアックです。とりわけチェコ好きの人にはたまらないでしょう。

 

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