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テレビよ、嗚呼テレビよ!〜撮影会社のお仕事(後編)〜LOLOのチェコ編⑧

「モスクワ5号、キエフ88、Zenit-E カメラ、それからゾルキ、スタート、ペンティ、プラクティカ…。さあ、全てゴミクズのカメラだ。」

 プラハの街を一人でぶらぶら歩いていると、やたらと中古カメラ屋が多いことに、すぐに気がつきました。
 試しに、そのうちの一軒に適当に入ってみると、愛想が全くないチェコ人店主が、無表情のままやる気のない説明を面倒くさそうにしました。

 エジプトの店ならば、必ず満面の笑顔で「ウェルカム」で歓迎され、椅子に座らされ、コーラか熱々の激甘紅茶を出されます。

 トルコからは多くの料理を取り入れたエジプトはその後、英領になりましたが、イギリスの料理文化(じゃがいもとかグリーンピースとか)を取り入れることはありませんでした。しかし「紅茶」文化だけはイギリスの真似をしました。

 そんなエジプトならば、どんな店でどんなガラクタでもうやうやしく見せてきて、口八丁に熱いセールスをしてきます。
 ところがさすが旧共産圏のチェコでは、いかなる店でもセールストークがない。全くない。やる気ゼロ。(マクドナルド店は除きます。さすがマクドナルドだけは、笑顔がありました)

 こういうことを私がいうと
「そんなことはない。チェコのみならず東欧も人々が明るかった」
と反論をいただくことがあります。例えば元東欧駐在員の奥様(みらいさんふうに言うと、駐妻!)とか。

 しかし、私は底抜けに明るいアフリカ大陸に何年もいたし、西ヨーロッパとアメリカにも住んだりしょっちゅう訪れたりしていました。だから東欧の気候も街そのものも、人々の表情も性格も「なんて暗いのだろう」。

 プラハの街に住みだし、時間があるとなるべく一人で街の中をたくさん歩くようにしました。すぐに痴漢や物乞いに付きまとわれたカイロでは難しかったことです。

 だけども、カイロではすれ違う老若男女全員に「ウェルカム」と言われたり、歩いているだけで「Can I help you?」と声をかけられました。プラハではそれは全然ない。前も書きましたが、ナンパは連絡先の紙をこそっと渡され、そそくさ去られるだけ。しかもほとんど字が汚いので、よく読めない。

「カイロの時は、あまりにも話しかけられすぎて鬱陶しいかったけれども、ここでは逆に寂しすぎる。誰かハローって声をかけてくれないものかなあ」

 勝手なもので、孤独なあまりそんなことも思いましたが、いっぱいプラハの街中を散策するようにしたのは、日本の制作会社とやり取りをしていると、
「何か面白いネタがあれば教えてください」
 それは食べ物でもいいし、行事や風習でもいい。どこか変わった村の紹介でもいい。

私は自分のお金と時間を使い、とにかくほうぼうを歩き顔を出し、「ネタ」探しに明け暮れました。

 するとです。

 冒頭で述べたとおり、カメラ屋が多いことに嫌でも気がつき、しかも売られているのがソ連、東ドイツ、ポーランドで作られていたカメラばかりなのです。
 チェコ製は見かけなかったので、おそらく兵器は生産し中東にも売っていましたが、チェコではカメラやテレビは生産していなかったのだと思います。

 日曜市場に足を運んでも、無数のカメラがバナナのたたき売りのように、信じられないほどの激安で、わんさか売りに出されていました。

 例えばです。ベルリンの壁崩壊により、もう売れなくなった東ドイツのプラクティナFX、ペンティシリーズ、ソ連のゾルキ製のカメラ、ポーランドのスタート製カメラ等などでした。まさに二束三文の大放出です。

 しかし、一つ一つを手に取り、そして売り手の説明(無愛想でも、質問すれば答えてくれるので)を聞いていると、1948年に生産開始されたソ連のゾルキカメラは完全に「ライカ」のコピーで、見た目もライカそのもので、性能も変わりがないと。(本当かどうかは知りません)
 また、1951年に生産されたポーランドのスタートカメラは二眼レフです。

 そもそも、ソ連のカメラ産業はワルシャワ条約機構加盟国の中で最も目立っており、東ドイツもそれに劣らずペンタコン、エグザクタ、KW などのメーカーが何百万台ものカメラを生産し、その一部は日本や西ドイツのカメラメーカーの最高の製品に対抗するように設計されたのだ、といいます。

 またポーランドは第二次大戦後直後にカメラを製造し始め、外国にも盛んに輸出をしていたのだとか。

   私としては中でも感動したのが、東ドイツのドレスデンに本社を構えるペンタゴン社が販売したプラクティカのカメラです。ちなみにドレスデンは長年、世界最大のカメラ製造の街でした。

 なぜならプラクティカのカメラに感動!したか。映画「存在の耐えられない軽さ」でヒロインが1968年のプラハの春の騒ぎをバシャバシャ撮影したカメラだからです。
「おお、あの映画の!」

 余談ですが、映画公開当時、未成年だった私は兄と「ロジャー・ラビット」の映画を見に行ったら、この「存在の耐えられない軽さ」が同時上映で、十代の思春期の兄妹が気まずくなった、という鮮烈な思い出があります。笑 とうに消えた藤沢のみゆき座でした。

なぜこの二本が同時上映? 笑

「ああ、あの映画に登場したプラクティカ!他にも、プラハに社会主義時代のソ連や東ドイツ、ポーランドのカメラがこんなに流れて来ているとは!しかも馬鹿みたいな安さで!買っておこうかな?」
 
 チェコ語学校で、私がふとそれを口にすると、西ヨーロッパ人全員に鼻で笑われました。

「なんでフジフィルムカメラやキャノン、リコー、ナイコン(ニコン)カメラを生んだ日本人が、東側の三流ガラクタカメラをわざわざ買うんだ?例え無料だとしても、いらんだろ」

 そう言われるとそれもそうだなあ、と思い直し、一切買いませんでした。でも、今では大いに後悔しています。確か値段は100円からだったのに!

 あと他にも冷戦時代のグッズ…共産党員の制服やらバッジ、勲章、おもちゃなどたくさんマーケットにはタダ同然に出回っており、なんで私は一切無視したのか…。

500円位で売られていた東独の「ハンドバック」こと「ペンティ」

石畳の道は日本人の骨格にはキツイ?

石の道だらけ

 とにもかくにも一人でプラハの街中を歩き回りました。特にまだ友人もいなかった時期はそうです。

 たくさん歩いてばかりだったので、私は腰を悪くしました。
 日本の道路とは違い、硬い石畳の道が続く街ですし、高めの踵のブーツでコツコツ歩き過ぎたせいです。きっと歩き方も間違っていたのでしょうけど。

「腰痛の時はマッサージや温泉」
という日本人らしい考えで、温泉保養地として有名な「カルロヴィ・ヴァリ」の街へ出向きました。

 「カルロヴィ・ヴァリ」は前述の「存在の耐えられない軽さ」をはじめ、いくつもの映画にも登場しましたが、ドイツのバーデン・バーデンや南仏、スイスの保養地などにすでに訪れたことがある私は、がっかりしました。

 そこはこの頃、まだまだ新たな療養所やホテルなどを建設している段階で、工事だらけで騒音がうるさく、時期の問題もありましたが、観光客などまあ全然いませんでした。まるでうら寂しい熱海です。

 ヘルス・ツーリズムとして力を入れ、もっと商業化し、世界基準に達する華やかなリゾート地・カルロヴィ・ヴァリに変身するのは、このもう少し後です。

 スパでは、初めて日本人(アジア人)をマッサージするというチェコ人の男性施術者は私の肩と背中に軽く手を当てて、ぎょっとしました。

「なんて骨が細いんだ。日本人はみんなこうなのか?」
のようなことを口にし、再び躊躇するように恐る恐る私の背中に手を当てて、もごもご。

 なんだか手の動きも、爪のない猫が軽くもみもみ、緩くふみふみしているような感触です。少しも気持ち良くありません。なので
「物足りません、もっと力を入れて揉んでください」

 するとその施術者は目を大きく見開き、ぶるぶる顔を横に振りました。
「骨が細くて怖い。力を入れてマッサージなんかできない」

 もっとも日本人から見れば、私の骨の太さは普通なのですが、チェコ人といおうかヨーロッパ人は女性でも、例えほっそりしていても、骨は太く、腰回りもおしりもがっちりしています。

 なんとかマッサージが調子に乗ってくると、私がうつ伏せで寝ながら
「石畳の道を歩いていると、腰に響いて痛い」
と愚痴をこぼしました。
 
「中世の時代から石畳の道を歩き慣れている遺伝子を持つチェコ人は例え痩せていても、骨が太く頑丈でお尻が大きい。そしてがっちりした腰もあるので安定した身体の構造だ。

 しかし君の身体はそうなっていない。あまりにも体重を支える骨が細く、足の踵も小さい。これじゃあ一発で石畳の道が身体に響く。せめて靴底にクッションを敷きなさい」

 なるほどと思いました。チェコの女性たちの骨がみんながっちりしているのは、水泳プールで彼女らを見ていても分かりましたから。石畳の道の人の遺伝子とは違う…目から鱗です。

ロケハンは当たり前だったよ!

 日本の撮影の仕事話に戻りますが、日本の撮影の仕事では、たった数分ミニ番組製作のためにも必ず本番撮影の前に、毎回ディレクターがロケハン(下見)に遠い日本から飛んで来ました。

 当時、日本の制作会社のディレクターたちはしょっちゅう世界中を飛んでいたので、直接何かを確認したくて、チェコから私が彼らの携帯に国際電話をかけると、たいてい彼らは外国にいました。

「あ、僕、今オーストラリアにいるんです。プラハにはええと、四日後に入りますから、宜しくお願いします」
「僕は今、万里の長城で撮影中です」

 この頃のディレクターたちは、まだまだほとんど全員男性でしたが、それはともかく、エコノミークラスの飛行機でプラハまで飛んで来ました。

 バブル全盛期は、制作会社のディレクターでもビジネスクラスがよくあったことを思うと、だいぶん時代が変わったなという感じでしたが、プラハ空港まで迎えに行くと、ゲートから出てくる人々の中で、誰がディレクターなのか一目で分かりました。

 まず絶対にリュックサック。必ずTシャツ。襟付きシャツは皆無。そして日焼けして、大抵なぜか太っている。
 かたや、西ヨーロッパのディレクターはこざっぱりして身綺麗でオシャレな人が多い。この違いは一体…。

 そうそう、私はいつも
「全日空とオーストリア航空またはルフトハンザ航空の共同便で飛んでくるようにしてください。一番問題の起きない航空会社ですから」
と日本の制作会社に言っていました。

 それでもたまに、アリタリア航空で遠いローマ経由でプラハに入ってくるディレクターもいました。
 運賃が安いだけではなく、機内で喫煙ができたからです。でも案の定、ロスバゲ(荷物紛失)の多かったことよ…。

 余談ですが、アリタリアとエジプト航空だけは、なかなか機内での喫煙禁止になりませんでした。理由は明白です。乗務員自身たちが煙草を吸いたかったからです。
 特にエジプト航空のファーストクラスは「クルークラス」で知られ、乗務員がファーストクラスで喫煙しお喋りばかりしているのは、有名でした。


 ロケハン中、どのディレクターも私やチェコ人のスタッフ、ドライバーにもランチや夕食を必ずごちそうしてくれました。そういうものでした。
 
 むろん彼らは常に「領収書、領収書」言っていたので、自腹ではなく帰国後、制作会社に請求したのでしょうが、こういった歓待費も経費から落ちる、せこくない時代だった証拠です。

 それにしても、日本のディレクターたちの印象といえば、とにかく「領収書」。一に領収書、二に領収書。
 第一、チェコに到着するなりディレクター全員が真っ先に質問してくるのが「チェコ語で”領収書、お願いします”って何て言うのですか?」

 実際、何でも領収書で経費が落ちるものだったのでしょうが、せっかく私がロケハンの時に
「プラハの地下鉄に乗ってみませんか?」
と誘っても
「いや、領収書で落ちるのでタクシーに乗りましょう」
など、ああ勿体ない…。 

 あと、個人的に印象に残っているのは、まだまだ衛星放送番組が下に見られており、
「この度は衛星番組の撮影で恐縮なのですが…」
「衛星放送の番組なので、予算が少なくて…」
といつも、そういったディレクターが申し訳なさそうに言ってきたことでした。

本番撮影スタート

 ロケハンが終了すると、ディレクターは一度帰国し、そして改めてまたチェコに飛んできます。

 今度はロケ(本撮影)のために出演者さんなど大所帯で来るので、ちなみに、エジプトで一緒に仕事した某芸人がプラハにも撮影に来たことがありました。

 向こうも少しは私のことを覚えていたらしく、プラハ空港に出迎えに来た私の顔をじいっと見て
「あれ?以前どこかでお会いしたことがありましたよね?一緒に砂漠に行きましたよね?モンゴルの砂漠?中国の砂漠でしたっけ?」
「はい、ゴビ砂漠です」
「ちゃうねん」
「へへ」

 こんなやりとりをその芸人としていたら、そばで見ていた局員の一人に
「日本に帰国することがあったら、連絡ちょうだい。『恋のから騒ぎ』に応募してもらいたいから」
と誘われました。

「ああ絶対に最前列席ではなく、一番後ろの席の”いじられキャラ”だな」
と分かったので、
「内気なので、無理です」
と即辞退しました。でも今思えば、オーディション?くらい受けておけば、ノート記事のネタにもなりました。惜しいことをしました。


 そうそう、時々テレビ局のおえらいさんやプロデューサー、制作会社の社長も同行してくることがありました。

 チェコがまだ珍しい国で来たことがなかったので一度見てみたい、と何かしら上手く理由をつけて撮影隊にくっついてきただとか、大物芸能人が出演する時には必ず局のお偉いさんもついてくるものだったからです。

 彼らは「領収書」にさほど目くじらを立てなかったものの、しかしいくら日本語会話だからといって、大声でフルシチョフの名前など出し、冷戦時代の話を場所構わず大声で話してくるなど、ドキドキしました。
 語りたがるのです、ゴルバチョフやレーニン、スターリン、ナチスドイツ、ハンガリー動乱やプラハの春について。

 なお、「女性斡旋」手配希望は当たり前でした。当たり前といっても、たいがいお笑い番組撮影班でした。(全部とは言いません)

 日本から売春(を買う)ツアーがばんばんハワイや東南アジアにもまだでていた時代で、男性添乗員は無料で性的サービスを受けられただとか、撮影隊の場合はコーディネートが一番美人な娼婦をプロデューサーの部屋に送り込んでいたなど、各国で耳にしました。

 モスクワのホテルでは「鍵おばさん」(各フロアに部屋の鍵を管理するおばさんがいました)が
「あああの部屋は日本人男性一人で宿泊だな」
と分かると、その手の女性を送り込んでいました。

 無論、私は一度も斡旋に関わったことなどないですが、日本男性も外国に出るとなかなか好き放題な人も中にはいましたね…。

愛犬や妻を車に乗せてくる運転手たちと、突然死

 いつも撮影本番にはカメラマンを西ヨーロッパから呼び、ドライバーは基本的にチェコ人でした。

  よく一緒に組んだチェコ人運転手はおじいさんでしたが、私のことを「コチカ」と呼んできていました。
 コチカとは[猫]の意味ですが、英語を話すチェコ人にきいてみると

「多分だけど、”ヘイ、ベイビー”のつもりで、君のことを猫ちゃん、と呼んでいるんじゃないかな。彼ももう老人だ。ずいぶんもうろくしているよね」

 もうろくしているから、私を猫ちゃんと呼ぶ?
 むっとしましたが、それはいいとして、そのおじいさん運転手は必ずいつもバンの車にコッカースパニエルのような愛犬を乗せていました。

 その犬の定位置は助手席だったのですが、本当に大人しく、そして車窓からお城が見えると、そのタイミングで必ず吠え、後ろのわたしたちに「城だぞ」と教えました。

 さらに目的地に到着するきっかり10分前にも絶対に吠えたので、熟睡しきっているスタッフたちは助かりました。

 もうひとり、よく組んだチェコ人運転手は多分当時40代だったと思いますが、彼の場合は犬ではなく、いつも「奥さん」を乗せていました。絶対に妻がバンやバスの最前列の席に座っているのです。

「浮気がばれて以降、絶対くっついてくるんだ」
とのことでした。

 仕事中に携帯で妻や愛人とべらべら長電話をするチェコ人の男性同僚は大勢いましたが、さすがに妻を連れて来るのは珍しい。

 かたや、ある日本人プロデューサーも愛人女性を連れて来たことがあり(絶対、うまくその愛人の旅費も経費で落としたはず)、嗚呼男っていうのはどうしてこうなんでしょう…。


 さて夏になると、ヨーロッパは観光シーズンに入ります。

 よって運転手らは旅行会社の観光客グループに取られてしまうため、この時期は運転手不足になることがありました。

 滅多にないことでしたが、そういう時はポーランドやルーマニアから運転手を呼んでいました。言葉はチェコ人とロシア語で交わしていました。

 特にルーマニアから呼び寄せた運転手のプラハでの宿代と駐車代を入れても、チェコの運転手を使うよりも、安上がりでした。

 私と気があったルーマニア人の運転手は、運転手にしては珍しくそこそこの英語を話すおじさんで、とても明るくて陽気な性格でした。

 その後、私は何度もブカレストへ行くようになり気づくのですが、ルーマニア人はとても貧しいけれども、チェコ人よりも全然フレンドリーです。これはやはりラテン民族ならではです。

 このルーマニア人運転手の話はいつだって印象に残るものが多く、例えば
「かつて、コマネチは恋人男性と亡命しようとしたのだけど、寸前でチャウシェスクに捕まり、恋人男性は彼女の眼の前で処刑され、コマネチはその後、チャウシェスクの愛人にさせられた」

 そしてランチの席でワインを飲みステーキを食べながら、コマネチがどんな性的虐待をチャウシェスクにされたのか、生き生きと(!)語ってくれました。
 
 それから
「チャウシェスクには息子が三人いて、1人は渡米し、もう1人は死んで、三人目はルーマニア国内の学校で数学教師になった」
というのも教えてくれました。独裁者の息子たちが処刑されるというのはなかったそうで、そこがロシアのロマノフ家とは違う点だなあと感じました。

 ある時はこんな話を怒り顔で聞かされました。

「夏になるとスペイン人学生の安いツアーの依頼が立て続けに舞い込む。スペイン人貧乏学生ツアーだけは、やりたくない。だって、連中は宿代を節約するため、一晩中バス移動しやがる。チップも少ないくせに、一晩中、ヨーロッパの大距離移動で俺達を運転させるんだ、しかも連日続きで。だから、秋になる頃には多くのルーマニア人運転手が過労で死ぬんだ」

 するとです。
 秋に入った頃の日。やはりチェコ人の運転手が出払っており、ポーランド人の運転手がやってきました。

 彼はバンを運転している時、突然死しました。9月で、5月から始まった観光ツアーの仕事で不眠不休だったため、過労がたたっていたのです。

 運転中だったバンは咄嗟に同乗していたチェコ人スタッフ女性がハンドルを握り、ブレーキをかけました。瞬時に彼女が動いてくれなければ、きっと大事故になり、私も日本人撮影隊も全員死んでいたかもしれません。

 心臓発作でいきなり死んだポーランド人運転手はまだ若くて、とても長身でがっちりした体格でした。心臓が止まる十分前に、私とも笑顔で挨拶を交わしたばかりだったので、なおさら衝撃でした。

 また、死ぬと便が出るのですね。一気に大便が漏れてきて、車内はひどい匂いに包まれました。仕方がないことなので、さすがに日本人たちも誰も何も言わず、全員衝撃を受け黙っていました。

 東欧のバス会社の運転手の人件費など安いので、とにかく西側の旅行会社もそちらのバスを使いたがり、そしてルーマニア人運転手がこぼしたように、学生の激安ツアーは実際に宿代節約のため、一晩中バス移動し極力宿利用しないようにする。つまり運転手は毎日、深夜運転になる。

 2010年にも、この東欧のバス運転手たちの過労死問題は何度も耳にしました。今では改善されていることを願って止みませんし、自分の眼の前で、ついその前まで元気だった人間がいきなり死んだ…。この経験は一生忘れられません。

複数のテレビ放送方式


 撮影が終了すると、最終日は必ず打ち上げがあり、これもいつも日本の撮影隊が支払ってくれました。

 特に局のプロデューサーや制作会社社長が同行している場合は、5つ星ホテルのレストランや寿司屋など高級店で打ち上げをするのはお決まりでした。

 ただし、通常はこれは日本人スタッフのみで、しかも局員と制作会社の人間が合同で「打ち上げ」をすることもそうそうなく、彼らはいつだって食事でもなんでもはっきりと離れていました。

 同じチームで同じ撮影に挑んでいたのになぜ?
 チェコ人スタッフはみんな不思議がりました。なぜならアメリカやヨーロッパの撮影隊を見ていると、彼らの場合は雇用形態による格差など、こういう場にはどちらも持ち出しませんから。


 ディレクターは日本へ戻る際には、西ヨーロッパのカメラマンから「テープ」を受け取り、それはたいていは膨大な量でしたが、絶対に紛失してはならないので、飛行機に搭乗する時は、必ず手荷物で日本に持ち帰っていました。「テープ」時代ならではです。


 ところで、テープと言えば知らない世代もいると思いますが、世界各国のテレビ放送方式は違っていました。主にNTSC、PAL、SECAMという3種類の方式に分かれていたのです。

 有名な話ですが、「あえて」互いの国のテレビ番組を受信できないように、東ドイツとチェコはすぐ隣の西ドイツとはこのテレビ放送方式を変えていました。

 同じ理由で韓国はNTSC,北朝鮮はSECAM。そしてイスラエルはPALで、エジプトはSECAM放送方式でした。

 なので、私がカイロに住んでいた時、同じSECAMのレバノンやイラクのテレビ放送番組が映ちゃったことがありますが、PALのイスラエルのテレビ番組だけはエジプトでは絶対に誤って受信しちゃうことはなかったです。

 そうそう、ついでに言えば社会主義時代、主にテレビを作っていたのは東ヨーロッパで、電源装置もロシアではなく東ヨーロッパ製でした。

 トラバントの車はさておき、東ヨーロッパ製は多くにおいて優秀で高品質な物が多く、当時は隠されていましたが、西ヨーロッパのテレビや様々な製品も実は東ヨーロッパの工場で生産されていました。

 また興味深いのは、東ドイツがまだ純粋な白黒送信機を運用している最後の国だったことかもしれません。近年、東ドイツのあれこれが見直しされているというのも、時代の変化です。

テレビの未来は

  撮影の合間、よく日本人ディレクターや、西ヨーロッパから来た日本人カメラマンがチェコ人に撮影技術などを教えてあげていました。

「韓国や中国でも、現地のスタッフによく教えています」
 とある日本人ディレクターは話していました。

 
 ところでチェコは、他の旧東欧諸国同様に、「安い人件費、安い労働力」で世界中の撮影の誘致をしていきました。

 だけども、まずハンガリーが
「高級なプロダクションサービスと賢い金銭的インセンティブを提供することで、外国のプロデューサーと提携しよう」
という動きを見せました。

 これにチェコ、ポーランド、エストニアは倣い、外国のプロダクションを誘致するために税額控除を導入し、地域内および地域間での撮影がほぼスムーズに行われるように映画プロモーション組織を強化していきました。

 国家プロジェクトでもあるこの戦略がうまくいっていることは明らかです。もはや価格のみで競争するのではなく、海外からの撮影を引き込むために、魅力的なインセンティブだけでなく、歴史的、文化的、地理的な独自の魅力をアピールしていきました。

 その結果、チェコは今や、例えばチェコは世界で最も忙しいロケ地セクターのひとつになり、2018年、外国のテレビシリーズクルーはこの国で約1億4000万ドルを落としました。

 チェコが外国ロケ誘致に成功した理由は、他にはインセンティブ制度に成功したのも大きな要因でした。
 この制度では、現地での支出に対する20%のキャッシュバックと、海外の出演者やスタッフがチェコ共和国で支払った源泉徴収税の66%のバックが組み合わされており、一流のシリーズや長編映画にとって大きな魅力となっているのです。

 またチェコ人を共同製作者に入れた作品の場合は、チェコ映画基金に最大168万ドルの助成金を申請することもでき、その助成金の少なくとも50%は、チェコのサービス、出演者、スタッフに使われます。

 それに、やはりロケ地としてのチェコの最大の強みは
「11世紀にわたる建築と四季を撮影できること」
に違いありません。
 チェコの歴史的な都市は、パリやロンドンなど、ヨーロッパの主要都市の代わりとしても使えますから。


 そして2024年の今。
 
 先ほど私は自宅の居間のテレビをつけました。
 日本人ディレクターがひとりでカメラを回し、たったひとりでレポートしながら、延々とひとりで外国ロケを行っています。昔は5分番組の撮影でも、大勢スタッフがいたのに。

 その番組の間に入るコマーシャルを見ていると、外国でロケされたお洒落なコマーシャルはどれもこれも外資企業のもの。別に文句はないのですが、なんて言おうか、ちょっと切ないものです…。

                次のチェコシリーズに続く

*長めの記事を立て続けに上げて申し訳ありません。この後、少し時間を空けます。
   
 

重要な情報
インセンティブ:
 
対象となるチェコでの支出に対して 20 パーセントの割引。チェコ共和国で国際出演者およびスタッフが支払った源泉徴収税の66パーセントが還付されます。長編映画の場合、最低65万ドルの支出。
設備:
 
バランドフ スタジオ: 合計 140,000 平方フィートの 13 のサウンドステージ。これには、ヨーロッパ最大のサウンドステージである MAX (43,000 平方フィート) と、隣接する 39 エーカーのバックロットが含まれます。
プラハ スタジオ: 総面積 108,000 平方フィートの最先端のサウンドステージ 6 室。

ハリウッドレポーター記事より

              
一部参照↓


クリスマス前の撮影で、カフェにはクリスマスツリーがあったものの、日本での放送が年明けなので、白い板でツリーを隠しました。
3分?超ミニ番組のためにも、有名な劇場を借りきり撮影
プラハの何とか図書館も借り切りました。
 ロシア
前編記事に書いた国境。週末に、チェコに入るドイツの車の長蛇の列です。チェコからドイツへはがらがらでした。コンドームショップはドイツ側にありました。


           
 

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